はじまり
主人公は、女性に刺されて死んだ男の話だ。
男は、地獄へ落とされた。
そこにあったのは切り株ひとつ。
切り株は真ん中から割れていて黒ずんでいる。
男は切り株をチラリと見て寝転んだ。
※
疲れた…。
一人きりだ。
誰もいない。
空が見えた。
青空じゃない。薄暗い空だ。曇っていると言うべきか。
ま、当然だろう、ここは地獄なのだ。
寝返りを打つ。
切り株があった。
そういや、なんでこんなもんがあるんだ?
見ていると、なぜか触りたくなった。
ナデナデする。
「何だこいつ、気持ちいいんだけど」
俺は切り株の平らな面を撫でた。
つるつるしている。ためしに頬をくっつけて、スリスリしてみた。
ひんやりして、気持ちいい。
「やべえ…」
切り株を見て興奮するなんて。
☆
その時、切り株は悲鳴を上げていた。
嫌! 嫌っ、嫌!
わたしに触らないで!
気持ち悪い男。突然現れて、わたしの体を撫でまわすの?
なぜ、ここにいるの?
いなくならないの?
ここには何もないのよ。あなたが望めばここから出ていくことは、たやすいのよ。
ああ! これが罪なのね。
出て行かないから、とうとう、わたしを苦しめるために神様が変態を連れて来たのだわ。
男が見つめている。
なに? 何を考えているの?
※
俺は切り株に座ろうとしてためらった。汚い尻を乗せる気にならない。
しゃがんで腕をまわして抱きしめた。
くんくんと匂いを嗅ぐ。
いい匂いだ。
あまい柔らかな匂い。
空は薄暗いのに、まるで太陽に当たっているような気持ちになる。
切り株なのに。ただの木の残骸なのに。
切り株を見つめながら、名前をつけたいと思った。
名前と言えば。
自分の名前が思い出せなかった。
俺の名前なんだっけ?
思い出そうとしたが、口にしようとしたけれど声が出ない。
「あれ?」
ここまで出かかっている。
なのに出てこない。
でも、そんなことどうでもいい気がした。
俺は名無しだ。でも、こいつには名前をつけたい。
☆
険しい顔で、男が睨んでいる。
何?
胸騒ぎがする。
気分が悪い。そう思った時、雨が降り出した。
ああ、雨が降るなんて。よほど、気持ちが落ち込んでいるのね。
気分が塞ぐと雨が降ることがある。
わたしの気持ちは、空は連動しているのかしら?
※
雨が降り出した。だからといって、雨宿り出来る場所はない。
だってここは何もない。
あるのは、切り株だけなのだ。
俺は濡れながらもぴったりと切り株にくっついた。
切り株を濡らすまいと、覆いかぶさってみた。
☆
何をしているの? わたしは雨粒が当たっても平気なのに。
わたしは戸惑いながら、深呼吸をした。
雨がやむ。
心が落ち着いたようだ。
男が不思議そうに空を見上げている。思わず笑ってしまった。
男の顔が面白いと思った。
こいつは変態よ…。
でも、悪い人じゃないかもしれない。
※
雨がやんだ。
地獄って不思議な場所だなあ。
切り株に寄りかかり息をついた。ぶるっと身震いする。
寒いな。
風邪ひきそうだ。
けど、生きていないんだよな。
大丈夫だろう。
気にしないようにしたが、濡れた体が少しずつ冷えていく。
体がガタガタ震えた。
うーん、まずいかも。
☆
男が震えている。
雨に濡れて寒いのだわ。
わたしは男を遠ざけることができるチャンスだと思い、風を呼んだ。
たちまち風が吹き始めた。
さあ! あっちへ行きなさい。
あなたは自由なの。ここじゃないどこかへ行きなさい。
ところが、男は体を縮こませながらわたしにしがみつくだけだった。
なぜ? やめて、お願いよ。
どんなに風を起こしても男は立ち去らなかった。
わたしは風を止めた。
※
風が止んだ。
いつの間にかうとうとしていたらしい。体は冷え切っていたが、頭がぼんやりしていて体が燃えるように熱い。
熱でもあるのかな。
体は生きていた頃と同じみたいだ。
俺は切り株に寄りかかった。
そうだ・・・。
名前をつけなきゃ。
☆
男の体が熱い。
熱を出しているようだ。
わたしは迷った。
ここで意識を失われてはたまらない。
誰かに助けを求めるか。
わたしに出来ることは、天候を変えることだ。
太陽。
地獄に太陽?
思いついて笑ってしまった。
ここは地獄だ。
罪を犯したからここにいる。
この男も何か罪を犯したのだろう。
罪。
わたしは冷静な頭でもう一度、風を呼んだ。
※
あったかい。
気がつくと、俺は草の上に寝かされていた。
「えっ」
びっくりして飛び起きる。
真上には大きな木が立っていて、地面には草が生えている。
そして、切り株があった。
若々しい切り株。
撫でてみる。
俺がもたれかかっていた切り株じゃない。大きくて若々しい。
あたりを見渡すと、少し離れた場所にあの切り株があった。
どうやってここに移動したのだろう。
考えたが、まだ体が十分じゃないらしくだるかった。
しばらく、大きな木にもたれていると心地よい風が吹いてきた。
安らかな気持ちになる。
☆
遠くで男が穏やかな顔で眠っている。
風が男を連れ去ってくれた。
ああ、気分がいい。
男のまわりを風が吹いている。
風がくすぐると男は満ち足りた顔で、深呼吸をしたり、手を伸ばしたりして気持ちよさそうだ。
心がせいせいした。
わたしは一人になった。
誰にも邪魔させない。
一人でいたいの。
じっと息を殺した。
最小限に息をひそめ、小さくなりたいと願う。
わたしは変わらない。
切り株になりたいと願ったのはわたしだった。
なぜ、切り株だったのだろう。
遠い昔の事で思いだせない。
何も覚えていない。
もうすぐ夜が明ける。
太陽はないけど、薄暗い空間にもわずかな光が差すのよ。
わたしはその時を待った。
※
男は目を覚ました。
よく眠った。
「ああ、気分がいい。助かったよ。ありがとう」
木に話しかけると、驚いたことに若い切り株が答えた。
――元気になってよかったわ。
「えっ?」
――お話しましょうよ、お兄さん。
俺は呆気に取られて切り株を見た。
――どうしたの?
「いや、おかしいだろ、普通、切り株は口を利かないんだけど」
――話せるのよ。あなたが望むならなんでもするわ。
「女?」
――女の人、好きでしょ?
「あっちの切り株は?」
――え?
「あっちの切り株もしゃべれるの?」
――あれは枯れているの。だから、しゃべらないわ。
「ちぇ、そっか…」
――ねえ、いつまでここにいるつもり? 望むなら出て行ってもいいんだよ。
「出られるの?」
出て行けるのだ。
「あのさ」
――なあに?
「あっちの切り株は何で枯れたのかな」
――知りたいの? でも、あなたには関係ないよ。わたしのことは知りたくない?
「ああ、そうだな…」
俺が知りたいのは、あの切り株だ。
だが、若い切り株を邪険にするのはかわいそうだろう。
だって、ここは地獄だし。俺も罪を犯したからここにいるわけだし。
その時、薄暗いはずの空が少し明るくなった。
――夜が明けたわ。
「夜明け? これが?」
少しだけ明るい空から、枯れた切り株に日が差しているように見えた。
――どこへ行くのっ。
若い切り株が焦って言った。
俺は枯れた切り株に駆け寄っていた。
息が切れるくらい走って、切り株の脇に立つ。
空を見上げると確かに日が差している。切り株を触ってみると、温かい気がした。
――ねえ、ここにいてはダメよ。
「わあっ」
耳元で女の声がした。
「お前、切り株じゃないのか」
若い切り株からだいぶ離れたのに、耳元であの女の声が聞こえた。
――あなたを心配しているのよ。地獄には長くいちゃダメよ。この枯れた切り株みたいになってしまうわ。自分の名前も犯した罪も全て忘れて行き場を失うの。
「じゃあ、この切り株は人間だったのか」
声がぴたりとやむ。どうやら図星のようだ。
俺がこれほどまでにこの切り株が気になるのは、人間だからかもしれない。
俺はむしょうにこの切り株と話がしてみたくなった。
「なあ、あんた、切り株さんよ。俺の声が聞こえているんだろ。なあってば」
☆
嘘でしょ。
信じられない。
男が戻って来てわたしに話かけるなんて。
一人で過ごすはずだった一日が、この男のために台無しにされようとしている。
わたしは風を睨んだ。
風は聞こえないふりをしている。
※
「切り株さんて呼びにくいな。やっぱり、名前をつける。えっと、あんたは切り株だから、切り株のキリ。そして、若い切り株は、若いから若だ」
――若? わたしは若っていうの?
若い切り株のはしゃぐ声がした。
――すごい、うれしい。
「キリと若。いいだろ」
――うん。いいかも。
若はうれしそうだ。その反面、キリの反応はなし。
「なあ、キリはいつからここにいるんだ? どうして切り株になっている?」
――ねええ? あなたの話が聞きたいわ。
「俺の事はいいよ。なあ、キリ、俺の声が聞こえているんだろう? 答えてくれないか。あんたと話がしたいんだ」
☆
キリですって?
わたしは頭を抱えた。
ああ、風よ、何をしているの? どうして彼を連れ去ってくれないの? 簡単でしょ?
風は名前を付けてもらって有頂天になっている。
呆れてしまう。
わたしは息を吐いた。
仕方ない。
風がダメなら、嵐を呼ぼう。
※
突然、空が真っ暗になり稲光が走った。
「わっ」
頭を抱えてしゃがみ込む。
雷が鳴りどんどん近付いてくる。大粒の雨が降り始めた。目の前がかすむほどの土砂降りだ。
俺は慌てて木の方へ走った。木には大きな葉が生い茂っているので雨は地上までは届かない。
しかし、雨の勢いはどんどん激しくなり、耳が痛くなるほどだった。
雨の中、キリはたたずんでいる。
キリの方へ行こうとすると、さらに激しい雨と雷が鳴り響いた。出られる状況じゃなかった。
「キリっ」
声を張り上げたが、雨の音でかき消される。
嵐はそれからもしばらく続いた。