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彩、再び。

街に人あり、人に心あり、心に……。

 彼女は、雪が深く海が黒いモノトーンの北の国から東京にやって来た。


 ふわっとした優しさぐらいしか特筆するものがなく、これというものを持ち合わせていないのが特徴のような彼女がウールとダウンの格好で降り立った大都会は、人工的な暖房設備とそれより激しく息苦しいような人いきれに覆われ汗ばむような街だった。視界に入る情報の全てが多くを閉ざす雪の壁から開放された彼女には痛いぐらいにまぶしい。

 輝く色彩が白一色に慣れた虹彩に新鮮さをもたらす街で、彼女は国家試験資格取得のための専門学校の門を叩いた。優しいだけが取り得の彼女が、人の役に立つ為に選択した人生の岐路を、巨大な街と数え切れないほどで構成された人の波が巨大なうねりで呑みこんでいくのに多くの時間は必要としなかった。


 入学通知を郷里で受け取った彼女は、白いだけの世界に自然な色彩が差し込み始める芽吹きの季節を迎えた土地を後に、母が買い与えてくれたブレザースーツで巨大な都会に向けての巣立ちをした。自然に虹彩を喜ばせてくれる郷里の芽吹きや町の景色が、唸りを上げて走り出すディーゼル車輌の車窓に流れ始める。それが潤むように滲んでいくことが過去への郷愁なのか未来への恐怖なのか。整理もつかないままに……



 彼女の新生活は、都心にある学校から一時間程度離れた通学圏内のひと間のアパートで始った。


 最寄り駅からの距離もそこそこあり、親の負担を出来るだけ大きなものにしないように選んだ低家賃のその物件は、どこへ行くにも上り坂のある窪んだ敷地の最底辺に位置しているものだった。ひらく気力もないダンボールもいくつか隅っこに積み上げられた、女の子らしさのかけらも感じられない殺風景なひと間は、華やかな街並みにそぐわない彼女の思いを具現化したような空間だった。


 人という存在が溢れかえっているのに、人を感じられない空虚感。常に快適な空調に季節感はなくなり、擬似的に染め上げられた色彩と、偽善に満ち満ちたうすら寒い空気感に翻弄される小さな存在は、空虚な室内で唯一に近い家具のベッドに膝を抱えて座り込むだけのものになりかけていた。



 教室や実習室で過ぎ去っていく時間の中、彼女にも仲の良いグループ的な存在が出来上がっていた。


 学校から歩いて通える都心一等地のマンション一部屋を借り上げ、明るく染め上げ華やかにウエーブをかけた長い髪同様に人生の謳歌を具現化し続ける南の国からやってきた裕福な家業のお嬢様と、幼馴染の彼氏を残した郷里の太平洋と温暖な気候に育てられた、特産のミカンのように甘酸っぱい雰囲気の中性的な魅力を備えた早熟な女の子。

 三人はそれぞれの役回りを大人びた知ったかぶりで演じつつ、子供っぽさの残る部分をも見せ合いながら目標の国家試験合格へ志を共にしていくことの出来る存在になっていた。


 そして、志を同じくする異性。主にモテ風味を前面に押し出したお嬢様目当てであることが一目瞭然な男子生徒たちと、年齢相応の駆け引きをするような時間を過ごしていくことになるのだが、恋愛イコール郷里の彼氏に対する浮気となる早熟娘と、主役を差し置くような前向きさ加減のない彼女は、いつだって引き立て役と人数合わせの存在でしかなかった。

 お嬢様がお気に召した男子が両思いになる前のアバンチュールな時間。その男子のいるグループ三人組と彼女達は時間を共にする事が多くなっていた。三人は三人ともお嬢様と言う華に群がる羽虫のような存在であり、彼女と早熟娘は苦笑いの日々と言うことになるのだが、共にする時間が多くなるにつれて彼女にも小さな感情の芽生えが感じられる瞬間が幾度かあった。



 三人の中で一番長身でガッチリした体型。少し厳つい顔立ちだが、どこか抜けているような世間ずれしているような雰囲気をかもし出す、その彼。


 お嬢様の周りを飛び回るブンブンとした姿はその他の二人となんら変わる事は無いのだが、何気ない小さな質問の投げかけが、『えっ? あたし……(なの。お嬢じゃなくて)』となることが多く、その敬意のようなものが混ざった優しげな口調と意味のある会話の交差が不思議な時間になっていた。


彼の一番多い質問は、

「いま、何時? 」

なので、彼女は一回、

「時計、買えば良いのに…… 」

と突き放したことがある。


「時計……かぁ。持てないんだ…… 」


 頓狂な返事にびっくりした彼女だったが、それ以上の質問を避けられてしまったらという一抹の不安感から押し黙ってしまった。その奥にある扉を開くことが出来ていたら何かが変わっていたのかもしれないと思うことはあっても、その扉を開かないのがあたしなんだと自分に言い聞かせて。



 彼女が一番多く彼と会話をしたのが、学期の打ち上げをやろうと言い出された夏休み前、無理無理連れ出された騒がしい居酒屋だった。


 帰省を前にお嬢様が一人一人に質問をした皆の郷里の話になった時、彼が答えたひと言は、

「寒い国から来た…… 」

と言う小さなつぶやきだった。その響きにお嬢様を取り巻くブンブンした雰囲気はなく、座をしらけさせるに充分な悲しい響きが混ざっていた。

ほんの少しのアルコールでいつもより勇気が持てていたのかもしれない。彼女はとっさに、

「北国なの? じゃあ一緒だね」

と、合いの手を入れた。


「県で言え~。町で言え~ 」

盛大にアルコールにまみれた他の男子達がはやし立てる中、彼は彼女にだけ聞こえるかのような小さな声で

「寒い……国なんだ…… 」

とつぶやいた。


「あ~早く田舎帰って彼に会いた~いっ」

早熟娘の問題発言に話題を総ざらいされた後、彼女は独りっきりになったような彼のとなりでいくつかの問わず語りをした。

 賑やかな喧騒の中で孤独を感じる彼女と、持っている答えを出したくても出せないように見える彼。しかし、何かが進展することなど何もなく、長い夏休みを終え新学期を迎えた後は、いつものブンブンと呆れ顔の関係に戻っていた。



 都会の生活がもう少しで一年になろうとする冬。


 寒さには慣れている身体に都会は寒冷を感じるものではなかったが、乾いた風とそれより乾いた人やコンクリートの世界に心の痛みを感じ続ける彼女がいた。『慣れなきゃ』と言う気持ちで夏の休みも帰省をしなかった意気込みが、かえって彼女の気持ちを焦りと疲弊で蝕み続けていた。ベッドで膝を抱え込むポーズもすっかり定着してしまい、独り言に返事をするようにもなってきた。楽しいことを考えようとするのだが、重苦しい現実が回顧するだけで、明日、朝起きたら昇らなければいけないつらい坂を考えるだけでポロポロと涙がとめどなく流れた。

 布団に落ちてすぐに吸い込まれる涙のいく粒かが無造作に放り出している雑誌の上で滴を描いた。ルームランプの明かりで照らされた涙ドロップの輝きの中に、あの日の寂しげな彼の顔が浮かんだような気がしたが、次の瞬間、ぎゅっと瞳を閉じて忘却のかなたへ運んだ。



 冷たく澄んだ空気を通して、ホーリーイルミネーションが空白化した胸に痛みを伝えてくる。


 お嬢様は自分の部屋でクリスマスパーティを開催しようとついに言い始め、男子達はさんざめいた。早熟娘は『パ~スっ』と一言だけ立去り際の大声、その日の終電で郷里に帰ってしまった。彼女はうつむき、聞き取れないほど小さな声で『ごめん…… 』とつぶやくのが精一杯。

 これで利害関係の香りがする女子の友情は一時的に崩壊解散となった。


 秋の終わり頃、少しでも癒しになればと一人で入店したカクテルバーでほろ酔い気分になり『腕にはめるのが嫌いなのかな? 』と、そんなことを思いながらついうっかりプレゼント包装で購入してしまった懐中時計を彼に渡すことの出来るチャンスを失ったことに、少しの安堵と大きな慙愧の念を湛えながら……


 イルミネーションの街をあとにし、住宅街へ向かう車窓。暖かい家庭を思わせる黄ばんだ照明が窓から洩れる家並みを視界の端に捕らえながら、彼女はこみ上げ溢れるものを抑えることに気持ちを集中させた。



 荷物をまとめて実家に帰ろう。


 あんなに閉鎖された白い空間から抜け出すことを思っていた心が、無口で厳格な父が、穏やかだが時に鋭い母が、全てが街路の明りにふわっと浮かんでは消える。


 巨大なものに押し流されそうになる中で唯一の拠り所である自分の部屋に向かう下り坂。いつもは重い足取りを助けてくれるはずの下りがどん底へ歩を進める歩みに感じ、何度も立ち止まってひざまずいてしまうそうになる。見えてくるアパート、自分の部屋に明りは灯っていない。二階に上がる鉄階段の音が澄んだ空気に響き渡るように感じる。



 そこで彼女の瞳は、白い袋を見た。


 その白い袋は明らかに彼女の部屋。そのノブに掛けられてあり、雲ひとつない夜空のハーフムーンと星の瞬きの光を反射していた。


 「なんのイタズラ…… 」

最初はそう思った。しかしゴミにしてはふんわりとアーチを描くその袋に悪意の雑念を感じることは出来なかった。ギュッと閉じられた口は安易に中身を確認することを避けているようにも、不器用な手で結び上げたリボンにも見えた。


 部屋の明りを灯し改めて袋を見つめる。指に少しの痛みを感じながら結び目を解き絞られた開口部をあけたそこから、毛足の長いふわふわした大きな熊のぬいぐるみが顔を出した。瞳に溜まりきらない涙があふれ、熊の輪郭が驚くほどぼやけた。

 部屋着に着替える事もなくコートのままベットに座り込む。いつもと違うのは、抱え込むのが膝ではなく大きな熊のぬいぐるみだったこと。そしてギュッと抱きしめたその胸元に光るものを見つけるのにそんな時間を要することはなかった。



 か細いチェーンのネックレスにつけられた金色に輝くペンダントヘッド。

 西洋風の古城がモチーフになっているそれは、吹き抜けや窓の小さな細工まで入念に仕上げられており、内側からほんのりと青い光を放っていた。

 そのほのかな光に不思議な感情がわき上がったその時。抱きしめていた腕を緩め上を向いた形になっていた熊が片方の瞳を閉じてウインクをしたように見えた。


 「えっ…… 」

連続するサプライズに慣れていない彼女の困惑は、部屋の照明と連動したエアコンの風が長い毛足を揺さぶったものだろうと確信するまでファンタジーの世界にいた。それは誰かが仕掛けたサプライズにまんまと翻弄され、幼さの中にあった夢空間を思い出させてくれる暖かい世界。


 そして彼女は耳を澄ます。

 グループ同士交際の中で何度か聞いたことのあるバイクのエンジン音が近づき窓の下に止まる。全ての答え合わせが終わった瞬間。



 鉄階段を降りてきた彼女を見て、寒い国から来た彼はすぐにエンジンを止めた。


 冷たい空気にさらされたエンジンはすぐにチンチンと音を立てクールダウンしていくのだが、一歩一歩進めてくる彼女が近づいてくる度に彼の心臓はヒートアップしていった。会話どころか見つめあう事にもなれていない二人の接近は、ヘッドライト周辺を取り囲むだけの小さな風防カウル辺りまでで一度止まった。

 ライトの近くだけを赤く縁取りしたその部品をそっと指で触れた彼女は、それが赤鼻だったらトナカイなのかな? なんて頓狂な思いをめぐらし一人でクスっと笑った。


 手をポケットに忍ばせた彼女が、目を合わすことなくつまみあげたラッピングを彼の鼻先に突き出す。

 ちょっと困惑した彼だったが、それを受け取り中身を取り出し笑顔を見せる。彼の手の中でアンティーク風味ながらクオーツの懐中時計はなぜか時を止めている。それを彼女の目線に入れることのない様に気遣いながら、彼はポケットにしまう。



 「メリークリスマス」

瞳を見つめあった二人がお互いにつぶやきあった呪文のような言葉で、エンジンがいななきのように咆哮を放つ。磨き上げたパッセンジャーシートに腰をかけた彼女が膝を抱えていたのよりもはるかに強い力で彼の腰を抱きしめる。スルスルッと動き出したタイヤは、エンジンの回転数に合わせて路面を蹴り過去を背中の向こうに追いやる。

 いつもの上り坂が、満天の星が瞬く夜空と言う天空へ飛び上がる滑走路のように思えた瞬間、彼女の胸元に飾られたペンダントヘッドの輝きが冬の青から春の緑に変わる。



 ポケットの中でたぶん、動き始めたであろう時計のことを思い、彼は安堵する。


 そう彼は、彼女と言う心の中に存在する小さな国の騎士団の一人。武勇に優れるわけでも家柄も良いわけでなく、出世のために困難な仕事も断れないしがない身分の者。

 彼女の心に機微がなくなり冬で止まってしまった季節を変える命を受け、国王に使わされた従者。そして彼女は国王を超える国を形成するに等しい存在。触れることはおろか言葉を交わすなんてとんでもない無礼千万を超える事が出来るかという任務を、今、一つ成し遂げた瞬間だった。


 止まった時を季節一つ分動かすことが出来、彼の世界での時間が動き始めたことで時計も動き始めた。

 冬から春へ、動き始めた時間は氷と雪に包まれた小さな心の国に豊かな緑をもたらし、それまで出来なかった日常的な生活を送ることができる様になっただろう。彼は賞賛と褒美の待っている小さな心の国に戻り、上級仕官への道を歩むことになるのだ。



 だが、彼は国王へ滞在延長の申請を行う決意をした。


 彼は心の源たる彼女がいるこの世界で、彼の世界にいると伝説に語り継がれる敵より禍々しい大都会と言う名の魔物を目の当たりにしてしまった。その魔物は常に牙をむき、人の心を食い荒らすことで成長を続けている。彼女の心はいまだ不安定で、ふたたび魔物との対峙があれば、また冬の季節に閉じこもってしまうかもしれない。


 住み慣れた懐かしい王国への郷愁。それを振り払うかのように彼はスロットルを開いた。眷属である翼なきユニコーンの化身であるバイクは彼の決意に渋々賛同であることをエンジン音で知らせる。もう一人の眷属。彼女のベッドに放り出させた熊の化身は、やれやれ、と、うなだれているに違いない。


 「それで良いっ」

彼は眷属らの納得を後押しするかのようにヘルメットの中でつぶやいた。

 上り坂の終わり、平坦な道路まで勢いを落とさなかったバイクはフロントを豪快に持ち上げながら二人を空に向けた。天空が優しく、行方という名の未来を見守ってくれているように感じる。



 そして出力を抑え落ち着いた走りに戻ったユニコーンの背で彼は、ひとり思う。


 従者としてではなく使者としてでもなく、夏は赤、秋は黄色い季節の女神を折目正しく城に迎え入れることで、崇拝や敬意という感情を超えた彼女から受け賜わった大切な時計を止めることなく居続けること。そして今、腰をギュッと抱きしめられ続けていられることに名声よりも大切で素晴らしいものを感じ取ってしまったからという、もう一つにして真実の理由を教えることは誰にもないであろう。と……




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