うるおい薬(ショートショート33)
街中にある産婦人科病院を出たユカリは、重い足どりで自宅のあるアパートに帰っていた。
――喜んでくれるかしら?
赤ちゃんができていることがわかった。でも、夫がどう思うか不安だったのだ。
結婚して三年。
最近、夫婦らしい会話がない。たまにする話もすれちがいが目立った。さらに夫は、ちょっとしたことにもすぐに腹を立てる。
ささくれだった――そんな言葉があるが、夫の心はまさにそんな状態にあったのだ。
それでも。
――仕事がきついんだわ。
ユカリはそう思うようにしていた。
片道一時間もかかる通勤。そのうえ最近は残業ばかりで、ヘトヘトに疲れて帰ってくる。
これでは夫でなくても、心がパサパサになってしまうだろう。
帰りの途中。
夕食の買い物のため商店街に立ち寄った。
アーケードの下を歩いていると、
――うるおい薬?
一枚の広告がユカリの目にとまった。
それは薬局の窓ガラスに貼られたもので、その薬はパサついた心をうるおしてくれるとある。
ユカリはそのまま、足が引き寄せられるように薬局の中に入った。
そのうるおい薬なるものは容器も使用方法も目薬のものと似ていた。お茶などに一滴まぜるだけで一時間ほどで効果が出るという。
値段は一万円とかなり高額だった。
それでもユカリは迷わず買った。
夫の心にうるおいがもどるのであればと……。
その夜。
薬を一滴、夫のお茶にこっそり落した。
夫がお茶を飲んで一時間。
ユカリはハラハラしながら、赤ちゃんができたことを夫に打ち明けた。
「やったな!」
夫が声をあげ、目を輝かせる。
「ええ」
ユカリはうなずき、そっと胸をなでおろした。
「カンパイしよう」
夫はビールを手に上機嫌だった。
いつになくユカリもウキウキした気分になった。
ユカリは朝晩に、夫のお茶にうるおい薬を入れ続けた。
薬の効果はてきめんだった。
生活はそれまでとは大きく変わった。仕事中心から家庭中心へと、夫がカジを切ってくれたのだ。
夫婦の会話が増えてゆき、家の中はぐんと明るくなった。さらに夫は家事の手伝いまで始めてくれ、まるで新婚当時にもどったかのようだった。
それから八カ月。
赤ちゃんが生まれて、ほどなくのこと。
うるおい薬の販売会社が薬事法違反と詐欺の容疑で警察に摘発された。うるおい薬は、まったく効果のないニセモノだとして……。
うるおい薬。
ユカリの家庭の場合。
それは二人の赤ちゃんであったようだ。