今まで何をしていたの
比奈子はいつも、赤い自転車に乗って、私の家の前を颯爽と駈けて行った。
自転車通学禁止のうちの学校で、自転車通学をするのは、特別家が遠くて、学校から自転車通学許可を貰っている生徒、あるいは、校則なんてクソクラエな不良グループくらいだった。不良グループは、通学途中で自転車を無作為に放置し、それから学校へ向かっていたので、近隣住民からは自転車が邪魔だという苦情もたくさん入っていて、学校側は対処に手間取っていた。
比奈子はどちらにも属さない。家は学校まで徒歩二十分程度だから、自転車通学許可は降りないし、不良でもない。どちらかといえば大人しくて、少しパーマのかかった柔らかい髪が上品な、優等生である。それなのに、比奈子が自転車通学しているのは、イメージにそぐわなくて、いつまでも違和感を抱えずには居られなかった。
「本来、私は優等生でも何でも無いのよ」
比奈子は一度、そう言っていた。帰り道、部活が終わった後、偶然出会ったのである。
「私の演技力が、皆に錯覚を見せて居るのね」
比奈子は嫌味無く、無邪気に笑ってそう言った。
演技だと比奈子は言うけど、私からすれば比奈子は十分優等生である。勉強は誰よりも出来るし、制服を着崩したりしないし、化粧もしない。誰にでも優しくて、正確な判断力も持っている。私は、比奈子を優等生と思っていたし、そんな比奈子に憧れても居た。勝手に自転車通学してしまうところも含めて、羨ましいと思っていた。
それからたまに、部活帰りに比奈子に出会った。比奈子は決まって制服姿で、私を屈託無い笑みで迎え入れてくれた。部活が終わったばかりで、髪の乱れた体操服姿の私が、今まで何していたのかと問うと、
「図書室で、本を読んでいたのよ」
と言ってから、その日読んだ本の内容を、ダイジェストで、しかしながら丁寧に、私に説明してくれるのだった。その比奈子の声は、柔らかくて、春先の空気のように安堵を誘う。比奈子はいつも、私を赤い自転車の後ろの席に乗せてくれた。比奈子の背中から漂う、プチサンボンの香水の香りが、柔らかく私の鼻を擽った。
比奈子は、そんな感じだから、男の子からも人気があった。
癒し系の顔とか、おっとりした性格とかが、受けが良かったのである。そんなところは、羨ましくもあったし、私は、最近気付いたのだが、比奈子に言い寄る男の子達に、少なからず嫉妬していた。比奈子を独占してしまいたいという、友情とも、恋愛感情とも取れない独占欲が、私の中に芽生えつつあった。
部活上がりが遅くなった、夏直前の蒸し暑い日の夕方であった。下校時間はとうに過ぎていて、私は部活終了後に、教室にお弁当箱を忘れたことに気付いた。お弁当箱は、うちには一つしかないので、取りに戻らないと、明日の昼食を作ってもらえなくなる。私は、友人に先に帰ってくれと言い残し、一人で夜の闇に飲み込まれた校舎内へと向かった。
校舎内には、すっかり人の気配が消え失せ、無音の世界が広がっていた。私は半ば引き返しそうになりながらも、非常口の緑色の明かりを頼りに、廊下を早足に進んで自分の教室を目指した。鍵はまだかかっておらず、すんなりと入れた。私はそそくさと自分の机の中からお弁当箱を取り出して、鞄の中に入れた。
昼間の校舎が醸し出す陽気な空気とは打って変わって、不気味な空気が漂っていた。私は暗闇が伸びる廊下を目の前に、生唾を飲んだ。小学生の頃見た、夜になると学校内の器材が様々な妖怪へと化し、迷い込んだ少年に襲い掛かる、といった内容の映画を、不意に思い出し、こんな時にそんなことを思い出す自分を責めつつも、殆んど逃げるようにして校舎を出ようとした。その時だった。
人の声がする。
私の聴覚が、過敏にそれを察知し、私の背中に嫌な汗が伝い落ちた。
廊下には、非常口の緑色の明かりしか伸びておらず、教室の明かりも全て消えている。
しかし、人の声がしたともなれば、自然と人の気配も感じてしまうのだった。
隣の教室。そこに人が居るのは、間違いないと確信した。恐怖心と好奇心が頭の中でぶつかり合いながらも、私の足は自然と、気配漂う教室へ向かっているということがわかった。怖い、怖い、見たくない、と強く思っているのに、それ以上に見てしまいたいという欲求が高まっていた。私は忍者にでもなったかのように、慎重な足取りでその教室へと近付き、前方のドアから、目だけを光らせて、中を覗いた。
暗闇の中に、二つの人影が混じりあっていた。柔らかいパーマのかかった髪が、教室の奥一面に広がる窓から差し込む月明かりに照らされて、はっきり映った。
息をすることさえ忘れてしまった。
自分の目を疑った。
今見たことは、全て幻覚だと思い込もうとした。
忍者としての自分の姿を忘れて、私は逃げ出すようにその場を立ち去った。恐怖心も、完全に消え去っていた。心臓がばくばく音を立て、校舎を出る頃には私は涙を流していた。不穏な空気が立ち込めた教室を、もう一度振り返って確かめようと思ったが、その勇気も起きなくて、私は校舎に背を向けたまま、必死で走って逃げた。
帰り道、まだ道端に止めてある赤い自転車を見付けて、私はほぼ確信した。同時に、絶望した。比奈子は図書室で勉強していると思い込むことは、不可能になった。私にもう、走る力は残っていなかった。空気の抜けた風船のように、私はくしゃくしゃになってしまっていた。それくらい私は、絶望したのだ。
次の日部活が終わってみると、何食わぬ顔をした比奈子が、いつも通り、制服で、屈託無い笑みと一緒に、私を待っていた。
「一緒に帰ろう」
比奈子は、いつもと何一つ変わらなかった。私は無言で、比奈子の後ろを着いていった。比奈子の後ろは、いつも通りプチサンボンの匂いがしたけれど、私はその中に不純な臭いが混じっているような気がして、吐きそうになった。
住宅地の隅に止めてある、赤い自転車に跨がる。私はいつも通り、後ろの席に座った。比奈子の髪が、柔らかく香った。泣きそうになった。
蝉が鳴き始めていた。夕焼けが家々の隙間を赤く染め、その日差しを浴びながら、自転車は坂道を颯爽と下って行く。
「今まで、何していたの?」
殆んど義務的な質問だった。いつも訊いている筈なのに、今日は喉に声が引っ掛かって、変にどもったようになった。
「図書室で本読んでたの」
「嘘」
さっきのくぐもった声とは打って変わって、自分でも驚くくらい、はっきりと否定した。比奈子は不思議そうに後ろをちらりと振り返った。
「どうして?」
比奈子はわざとらしく訊いた。
「……私、昨日見たんだよ」
躊躇いがちにそう言うと、比奈子は少しだけ身を固くしたが、すぐにほどいて、
「あー、昨日の、純ちゃんだったんだあ」
と、へらへら笑いながら、焦る様子も、困る様子も無く、寧ろ納得したように言った。私は腹の底が熱くなるのがわかった。
「止めて」
「どうして」
「いいから止めて」
自分でもびっくりするくらい、乱暴な声でそう言うと、漸く自転車は止まった。私はひょいと席を外し、じっと比奈子を睨み付けた。比奈子はあっけらかんとした表情で、不思議そうに私を見つめている。
「相手は誰?」
「三年の先輩」
比奈子は何も隠さなかった。日頃の挨拶のように当たり前にそう言うので、私の怒りは更に高まった。
「何であんなこと……」
「エッチなんて、将来誰でもするじゃない」
エッチ、と何の抵抗も無く言って退ける比奈子に、私は言い様の無い羞恥心と、それを凌ぐまでに膨れ上がった怒りを覚えた。
「比奈子がそんな子だなんて、思わなかった」
殆んど自棄になってそう言うと、今まで何を言ってもきょとんとしていた比奈子の顔が、一気に曇った。私は恐怖を覚えた。昨日校舎で感じた恐怖ではない。底無しの闇に包まれた、初めて見せる比奈子の怒り。私は圧倒されながらも、負けじと睨み返した。しかし、比奈子の表情には、確実に萎縮させられていた。足が震え、自らを情けなく思った。
「純ちゃんは、私をわかってないわ」
呆れたように、しかし嫌になる程冷たい声で、比奈子は言った。じっとりと汗をかくほど暑いのに、私はそう言われた瞬間、寒気を感じた。
「私は純ちゃんの、理想の私じゃないの。前も言ったでしょ。優等生じゃないって。純ちゃんは私を肯定しすぎてる。私だって悪いこともするし、エッチだってするわ。純ちゃんの理想通りになんか、生きていられないもの」
私は、裏切られたようになって、気が付いたら涙が止まらなくなっていた。比奈子は冷静だった。自分がひどく、愚かしく思えた。比奈子は泣いていなかったけど、とてつもなく悲しんでいるということが、痛いくらいにわかった。謝らなきゃいけないと思ったけど、言葉に出来なかった。
「もう、いいわ」
最後に比奈子はそう言い残して、赤い自転車をすいすい漕いで、ついには見えなくなってしまった。
夕陽が徐々に見えなくなって、群青色が空の殆どを埋め尽くしてしまう。私は、無感情に涙を流し続けた。そして同時に、比奈子に言うべき言葉を、探し続けた。だけど、空っぽの頭には、適当な言葉がちっとも浮かばずに、どうでも良い言葉ばかりが、浮かんでは、砕けるようにして消えていった。
次の日、比奈子は学校に来なかった。その次の日も、その次の次の日も、私の家の前を赤い自転車が駆けて行くことは無かった。元々比奈子の担任だった先生に話を聞くと、親の都合で引っ越ししたという。
私はまだ、心中に思いを秘めている。私は最近、美化した比奈子ではなく、実在する比奈子の象を頭の中で描く。もし、再会出来たら。私は何と言うだろうか。言えなかった謝罪の言葉を、繕うように言うのだろうか。
いや、実際はそんなことは言えない。きっと比奈子は、私との以前のやり取りを忘れてしまったかのように、屈託無く微笑んでくれるだろう。そして私は、謝罪の代わりにこう言うのだ。
「今まで何をしていたの?」