エピローグ これっぽっちの後悔も残さずに
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「そう、海王都支店の話は蹴るのね」
母は如何にもつまんなそうな顔をして、湯気の立つティーカップに口を付けた。
「こんなに紅茶を上手に淹れられるようになったのに。もったいない」
「ちょっと。喫茶店開くんじゃないんだから」
私が言い返すと、母は愉快そうに笑いプレーンドーナツを手に取った。
「ねえ、プレーンドーナツばっかり四つめだよ、それ。よく飽きないね」
レモンピールの入ったドーナツを手に私が言うと、母は「この歳になるとね、シンプルな物こそ一番美味しい、って気が付くの」と、飾り気の無い茶色いドーナツを口に運んだ。
ふうん、と分かったような分かんないような気持ちで返事をして、レモンの香りのするドーナツを一口齧ると、甘苦さとレモンの風味が口の中に広がった。うん、大人味だ。
「そうそう、コーム君から野菜が届いたんだ」
「へぇ、あの子、野菜なんて作ってんの」
「それがね、働いてないとウズウズする体質になっちゃったみたいで、今は農家の手伝いしてるんだって」
「また具合悪くしないと良いんだけど」
心配そうに眉を寄せて母が溜息を吐いた。
「その辺は彼も分かっているみたい。果物もいだり、魚釣ったり、色んな仕事を楽しんでいるみたい」
野菜や果物と一緒に添えられていた手紙に、そう記されていた。
「コームは自分に合った生き方を見つけたんだね」
良かった良かった、と腕を組んで頷く母。「ところで」
「お前の婚約者はどうした? まだ帰ってこないの?」
「それがさぁ。聞いてよ、お母さん。あいつ、手紙の一枚も寄越さないんだよ。どう思う?」
「ま、男なんてそんなモンよ」
半目になった母が五個めのドーナツに手を伸ばす。
私は「食べ過ぎ」と言って、その手を叩く。
「オルデンさんにね、ギルドの活動報告の見方を教わったの。それによると、北の方の小さな町で熊退治の真っ最中だって」
「はっはっは、怪我しなきゃ良いね」
ソファの背もたれに仰け反った私に、母は「お気の毒」と言って笑った。
「でもね、ナナ。男は紐つけて繋いでおくよりも、ある程度、自由にさせておいた方が良いのよ」
「それにしても自由過ぎない? あの人」
「私はそれで失敗したからね。ぎゅうぎゅうに縛り付けたら逃げられちゃった」
最近、母は昔の話をするようになった。もしかしたら、母は私を一人の大人として見てくれるようになったんじゃないかと勝手に思う。
「それで? 海王都に行かない理由は、セニング君の帰りをここで待ちたいからなの?」
「それもちょっとはあるけど、でも、それだけじゃない」
「ほほう。じゃあ、どうして」
母は、ぐっと身を乗り出して訊いてきた。
「わたし、髪結いの仕事って『待つこと』じゃないかな、って思うんだ」
ソファに座り直した母は、穏やかな顔で私を見た。
「髪結いって、精一杯やることやって、お客さんがまた来てくれるのを待つしかないじゃない? あのお客さん、何してるかな? 元気かな? この時期は忙しいかな? そうだ、子供生まれたんだっけ、とか、仕事変えたんだった、とか」
母は無言で私の話を聞いている。
母は一人の髪結いで、私のボスで、紛れも無く私の母だ。
私が辿り着いた答えを、私の選んだ道を聞いてもらおう。
「わたしはここで待ちたい。わたしを必要としてくれる人たちを」
たくさんのお客様の顔を思い浮かべた。清楚なリサデルさん、黒猫みたいなエレクトラさん、クライン君とクラリスちゃん、たくさんのお客様の笑顔を。
「そう。それがあなたの選んだ生き方なのね」
「ごめんね。お母さんの期待に添えないかも知れないけど」
「嬉しいよ。あなたはもう、立派な一人の髪結いね」
満足そうに微笑んだ母の目が潤んでいる。
私はそんな母の姿にもらい泣きをしそうになって、誤魔化すように慌てて言った。
「お母さん。お願いがあります」
「なに? どうしたの、改まって?」
「お金貸して」
「は?」
***
私は母から融資を受けて、自分の店を改装した。
当分は一人で働くつもりだ。鏡台もシャンプー台も使いやすいように数を減らし、その分、待合スペースを広めに取った。
入口のドアも一回り大きくして、良い音の鳴るドアベルを取り付けた。これなら他の事に気を取られても、来客に気が付かないなんてことも無くなるだろう。
手を伸ばしてドアベルにそっと触れると、シャリン、と澄んだ音がした。私はベルの残響を楽しみながら、真新しいドアを見つめた。
そのドアを開けるのは、セニングなのかコーム君なのか、もしかしたらルルちゃんなのかも知れない。
わたし、待ってる。ここで、あなたが来るのをずっと待ってるよ。
溢れるような愛を
追い止まない夢を
限りのない喜びを
この胸いっぱいに抱いて
そして、わたしはあなたを切る
これっぽっちの後悔も残さずに
fin.
ナナエルの物語に、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
あまりの評価の低さと反応の薄さに作品を投げかけましたが、一つの物語を十万文字かけて書き終えることが出来たのは今後の自信に繋がります。
打ち切ろうかと思った時に、励ましのコメント、メッセージをくれた読者さま、この場を借りてお礼を申し上げます。皆様の応援がなかったら、ナナエルの物語は途中で潰えていた可能性が高いです。
今後も、こんな感じに盛り上がらない作品を連発するかと思われますが、すぐにも心が折れる作者を支えていただけると幸いです。
素人の作品を、貴重な時間を使って読んでくれた皆様、本当にありがとうございました。
2013.10.25




