第二十四話 前に進む為の別れの場合
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昨夜は、たっぷし寝た。
優秀なアシスタントが倒れ、彼氏の安否が知れないのに、私はぐっすりと睡眠を取れた。
私はコーム君を信じている。私はセニングを信じている。そんな私が自分を信じないでどうする。
「やるぞ、私!」
気合い十分にベッドから飛び起きて、体操選手みたいに華麗に床に着地する。
「うはあっ! いったーいっ!」
足首を捻挫していたのをすっかり忘れていた。捻った所を両手で押さえて床の上をしばらく転げ回ったが、これくらいじゃ挫けないぞ、私。
ようやく痛みが治まってから、ヒョコヒョコと洗面台の前に立ち、蛇口を全開にして冷たい水をいっぱいに溜める。
すーっ、と息を吸い込み、ばしゃばしゃっ、と勢いを付けて一気に顔を洗う!
「ぐはあっ! いったーいっ!」
おでこを怪我していたのをすっかり忘れていた。半泣きになってタオルで顔を拭ったが、ヒリヒリする傷の痛みに心が折れた。
気を取り直して、朝ご飯にお隣のベーグルを食べ、念入りに化粧をして、身支度を整えて鏡の前に立つ。
お気に入りの生成りのブラウス、ピタリとした黒のタイトスカート。おでこには大きめの絆創膏、足首には白い包帯。お間抜けな私の再出発に相応しい出で立ちではなかろうか。
締まらない私の姿を映す姿見の前で気合いを入れ直していると、入口のドアからコンコン、とノックをする音が聞こえた。
まだオープン前だけど、開店準備は殆ど終わっている。オープンと同時にお客様のご来店なんて、今日は幸先良いんじゃない?
「はーい、いま開けまーす」
鍵を外してドアを開けると、そこに立っていたのは入院しているはずのコーム君だった。その背には、セニングが持っていった大きな鞄を背負っている。
「コーム君……」
「おはようございます、エルさん。あれ? どうしたんですか、そこ?」
コーム君は自分のおでこをツンツンと指差して笑った。
「え? ああ、これね」
言われて私は額に貼った絆創膏に手をやった。
「やっぱり心配だなぁ。そんなんで僕がいなくなっても大丈夫ですかねぇ」
「いなくなって、って……」
「今日は荷物を取りに来たんです。中、入ってもいいですか?」
あ、はい、どうぞ、と招き入れると、コーム君は「ただいまー」と言って、店の中に入った。
なんと声を掛けてたら良いのか、言葉を探している私を前にして、コーム君は鞄の中に私物をポンポンと放り込んでいく。
「ああ、そうだ。休憩室の僕のイチゴジャム。あれ、エルさんにあげますからクッキーに乗せて食べて下さいね」
元々が少ないコーム君の荷物は、あっと言う間に鞄の中に納まってしまった。
私、コーム君が来てから、「あの……」とか「えーっと」としか言えてない事に気が付いた。
「あの……あのさあ、コーム君――――」
「昨日の夜、病院にセニングさんが来てくれたんです」
「え? 昨日の夜!? お昼に私と来た、その後ってこと?」
「はい。長剣下げて、鎧着て」
と、言うことは、セニングは自宅を出てから私に会おうとしないで、コーム君に会いに行ったということか!? あの野郎……。
「大切なミスリル銀の鋏、僕が倒れたせいで欠けちゃったって、セニングさんから聞きました」
「そんなの良いよ。コーム君が無事なんだから」
「本当は働いて弁償するのが筋だと思いますが、僕がここで働くと、いつかまたエルさんに迷惑を掛けてしまいそうです」
「弁償なんて気にしないで。迷惑だなんて思ってないよ。お願いだから、そんな風に思わないで」
「僕は自分がホビレイル族だってこと、倒れるまで忘れていました」
「コーム君は、コーム君だよ」
私がそう言うと、コーム君は嬉しそうに微笑んだ。
「エルさんは、毎日遊んで過ごす以外に楽しい事が何も無かったホビレイル族の僕に、働く事の楽しさや、夢を追う素晴らしさを教えてくれました」
コーム君は照れ臭そうに自分の足元を見つめた。
「わたし、そんな立派な人間じゃない。わたし、コーム君にいっぱい助けられていたんだよ」
「僕、優しくて元気いっぱいなエルさんの事が大好きです。夢に向かって一直線なエルさんは僕の憧れです」
鞄を手に私の顔を見上げるコーム君の両目に、みるみる涙が溜まり出した。
「昨日の夜、セニングさんと話をしました」
私は口元を抑えて頷いた。ちゃんと、コーム君の話を最後まで聞こう。泣くのはそれからだ。
「セニングさんが、エルさんの事をどれだけ大切に思っているか分かりました。セニングさんは必ず戻るって、僕と約束してくれました」
「セニングが……」
「だから僕はセニングさんを信じて、エルさんの為にも学院都市を離れようと思います」
「コーム君……わたし、やっぱり駄目だよ。一人じゃやっぱり寂しいよ」
私は両手で顔を覆った。嗚咽を漏らさないようにするだけで精一杯だった。
「エルさん、泣かないで。お客さん、来ちゃいますよ」
「だったら朝イチなんかに来ないでよ」
「あはは、それもそうでしたね」
涙を流しながらだけど、私とコーム君は顔を見合わせて笑った。
いつものように。いつもの朝のように。
「じゃあ、僕、行きますね」
「コーム君、また来てくれるよね」
「当たり前じゃないですか。僕は必ず戻って来ますよ。セニングさんとも約束しましたからね。ああ、そうだ」
コーム君は腰に下げたポーチをごそごそやって、中から一枚の紙を取り出して私に向けて差し出した。
「はい、これ」
受け取ったのは、リアルに過ぎる魚のイラストが描かれたチケットだった。
「これって、あのレストランの割引券?」
ピクピク動く巨大な魚の看板を思い出した。生の魚に大豆のソースだ。
「そうです。僕が戻ってきたら、生のお魚、食べにいきましょう。僕とエルさんとセニングさんの三人で」
「でもこれ”お二人様に限り”って書いてあるよ」
「ええっ!? あぁ、本当だ。じゃあ、僕の分はセニングさんの奢りということで」
今度は涙は零れなかった。これは私たちにとって、前に進む為に必要な事なんだ。
笑ってさよならしよう。それが私たちらしいお別れの仕方だと思うから。
「これ、発効日から一年間有効って書いてあるね」
「ええ。だから、一年以内にまた会いましょう」
コーム君が差し出した手を、私は強く握り返した。
小さな身体に大きな手。私、この温もりを絶対に忘れない。
「ねえ、コーム君。私からも一つ、約束して欲しい事があるんだ」
「はい、何ですか?」
「戻ってきたら髪、切らせてね」
コーム君は、太陽みたいに朗らかな笑顔を私に向けた。
「はい、約束です」
そして私は、コーム君が出て行ったドアをしばらく眺め続けた。
ありがとうコーム君。私、もう何があっても挫けない。立ち止まらないで前に進むよ。




