第二十三話 信じられるモノの場合
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無造作に置かれた洗濯桶を拾い上げ、裏返しにして壁に立てかけておいた。こうして水を切っておかないと木桶は早く痛んでしまう。今年の新人さんは、ちょっといい加減な子かも知れないな。母に一言、アドバイスしておこう。
ひゅう、と涼しい風が足元をくすぐった。昼夜の寒暖の差が激しいのは湖に囲まれた学院都市の特徴だけど、こんな風を感じるたびに少しずつ夏が過ぎ去って行くのを感じる。
ここでルルちゃんと最後に会った時にも、夏の終わりを感じていた。
*
体調を崩して夏休みの補習を免除された私は、ひたすらに髪結いの修業を重ねていた。
髪結いの仕事に没頭している間だけは、心をじわじわと炙る罪悪感から逃れる事が出来た。がむしゃらに働いて、疲れ果てて眠る。そうする事で私は何とか自分を保っていた。
髪結いとしての未来、将来の夢にしがみつく事で、私は何とか生きていたんだ。
夏休みに入ってすぐ、中学校から校長と副校長が母と私に面会を求めに来た。
訝しがる私たち母子を前に、しどろもどろになって説明を続ける校長。その額に浮かぶ玉のような汗は、暑さのせいだけでは無かった。なんと、私の憧れたあの担任教師が、生徒に対する性的虐待の容疑で風紀委員会に逮捕されたと言うのだ。学校側は、私の不登校の原因が担任の性的虐待によるものではないかと考えていたようだ。
当然、身に覚えの無い私は首を横に振った。でも、混乱する私の頭の中にルルティアの顔が浮かんだ。
――――進路指導室で担任と二人きり? 解けた制服のリボン?
背筋が冷たくなるのを感じた。
確証も証拠も無いリコの妄言を、私は鵜呑みにしていた。ルルティアは担任の教師から、性的虐待の被害を受けていたのだ。彼女は疾しい事など一切してはいなかった。
私はルルティアの手を放して、一人で勝手に歪んだ世界に迷い込んだ。
私は彼女をこれっぽっちも信じないで、歪んだ嘘を信じ込でいたんだ。
ルルちゃんは最初に会ったあの日から、何も変わっていなかったのに!
彼女は今、どうしているかと校長に尋ねると、ルルちゃんは魔導院からのスカウトを受けて、夏休みに入る直前に中学校を退学したと教えてくれた。
私はルルちゃんに会いたかった。会って謝りたかった。
でも、どんな顔をして会いに行けば良いの? 何と言って謝ればよいの?
答えがみつからないままに、ただ時間だけが過ぎていった。
だけど彼女との再会は思いがけず早くに訪れた。
蝉の声が遠くに聞こえる。そんな夏の終わりに。
髪結い店の裏手で一人、洗濯桶に手を突っ込んでタオルを揉み洗いしていた私の前に偶然、黒いワンピースに身を包んだルルちゃんが通りかかったのだ。
私は最初、目の前に立つ少女がルルちゃんだと信じられなかった。
まっすぐにブローされた艶やかな髪。彼女の整った美貌を損なわないフレームの細い眼鏡。同年代とは信じられない均整の取れた身体。そして何よりも私の胸を打ったのは、あの気弱なルルちゃんを思い出すことが出来ないほどに姿勢の良い凛とした立ち姿だった。魔導院で何があったのか知らないけど、ルルティアは眩しいくらいに美しい少女に生まれ変わっていた。
無言で立ち尽くすルルティア。私はその足元に膝を折り、石畳に手を突いた。
髪結いとして前に進むには、人として生きていくには、こうするより他に方法が無い。そう言って、そう信じて私はひたすらに地面に頭を擦りつけて謝り続けた。
その弾みで洗濯桶がひっくり返り、彼女の靴と石畳に伏せた私の身体を濡らしたが、私は構わず何度も何度も石畳に額を打ち付けた。
「大キライなの」
たった一言だけ、確かに聞こえた。はっ、と頭を上げると、そこにルルティアの姿は無かった。元々そこには誰もいなかったかのように、彼女は消えた。
私は美しい幻でも見ていたのだろうか。
蝉の声は、もう聞こえなかった。
*
私は再び歩き始めた。
セニングのお母さんが巻いてくれた包帯の具合が良いのか、気を付けて歩けば足はそれほど痛くは無い。
「大キライなの」
口に出してみた。なんて優しい罰なのだろう。
「絶対に許さない」、なんて言われていたら、私は狂ってしまっていたかも知れない。
ルルちゃん。私はあなたを裏切ってしまった後悔を胸に、前に進んで生きていくよ。
細い路地を縫うように歩き、オルデンさんの工房にたどり着くと、室内からは明かりが漏れていた。
頑丈そうな扉に取り付けられた金属製のノッカーを掴んで二、三度ノックをすると、思いの外に大きな音がした。
「開いとるぞ」
オルデンさんの声だ。先に戻っていたんだ。
私は重たい扉を引っ張るようにして開けると、木材の焦げたような匂いが鼻を付いた。
久々に嗅ぐ石炭の匂い。私は嫌いじゃ無いけれど、錬金術が全盛のこの御時世に頑なに石炭窯にこだわるのがオルデンさんらしい。
「おう、ナナか……お前、顔をどうした?」
早くも晩酌でも始めていたのか、赤い顔をしたオルデンさんが工房の奥から飛んで来た。
「あぁ、これ? 転んじった」
あはは、と笑ってごまかし、血止めの軟膏を塗ってもらった額に触れるとピリリと痛んだ。
「転んだだと? 全く、お前はいつまで経っても子供だな」
「こんなの大したこと無いよ。それよりセニングは?」
「彼奴、やはり鉱山の採掘場に向かったようだ」
「やっぱり……わたし、セニングの実家に行って来たんだけど、入れ違いだったみたい」
私は殆ど無意識にシャツの胸元を握りしめていた。自然と視線が足元に下がる。
「だがな、良い知らせもある」
気落ちする私を励ますように、オルデンさんは私の肩を叩いた。
「彼奴はギルドに積み立てた貯金を崩して、自分を護衛するよう依頼を出したそうだ。すぐにギルドの腕利きが数人、同行を申し出たらしい」
「良かった……一人で飛び出したんじゃないんだ」
少しだけ安心したら、また涙が浮かんできた。私、今日は泣いてばかりだ。
オルデンさんは、そんな私の背中を優しく叩き、空いている椅子に座らせた。そして私には暖かいコーヒー、自分にはお酒が入っているであろうマグカップを持ってきた。
「儂はな、少し彼奴を見間違えていたらしい」
テーブルを挟んで私の向かいに座り、マグカップの中身をちびりちびりと啜りながら、オルデンさんが、ぼそりと話し始めた。
「見間違い?」
「ああ、見間違いだ。儂はお前の彼氏を、鈍な長剣みたいな男だと思って見ていた」
「うーん、そんなに間違ってはいないと思う」
「ふはは、確かに剣の腕はイマイチだ。だがな、儂はギルドで彼奴の活動記録を見て気が付いた」
「活動記録? そんなのあるんだ」
「ギルドに登録した会員が、いつ、どこで、どんな依頼をこなしたかが記録されているんだ。彼奴が達成した依頼の内容は、害獣退治に薬草摘み、届け物に人探し等々、まるで何でも屋みたい仕事っぷりだ」
「実際、何でも屋だったんじゃないの? それか、割が良い仕事を選んでいたとか」
「儂もそう思った。だがな、冒険者というのは『好みの仕事』を選ぶものだ。得意な仕事、得意な分野というものが冒険者にもある」
確かに私にだって得意な仕事と苦手な仕事はある。一部の男性の好む角刈りなんかはお断わりしているくらいだ。だって角刈りに関しては、私よりも近所の床屋さんの方が上手だし。
「儂はな、彼奴はツールナイフみたいな奴だと見直した。分かるか? ツールナイフ?」
「えーっと、ナイフの他にヤスリとか爪切りとかが付いてるアレ?」
「そうだ。だが、どれもそれ専用には敵わないんだがな」
かっかっか、と愉快そうに笑うオルデンさんの笑顔に、少しだけ元気づけられる。
「良いじゃない。それなりに他人様の役に立っているなら」
砂だらけで帰って来たセニングの顔を思い出しながら私が言うと、オルデンさんは笑うのを止め、急に真剣な顔になった。
「お前に渡す物がある」
オルデンさんは、よっこいせと立ち上がり、工房に奥から両掌に乗るような木箱を持ってきて、私に差し出した。
「プレゼントだ。開けてみろ」
「開けてみろって、これ、中身は鋏だよね」
ほら、やっぱり鋏だ。木箱の中には飾り気の無い鋏が一丁、納まっていた。
「無いと困るだろう。ミスリル銀の鋏の代わりに使うといい」
「ありがとう。大事に使わせて貰うね」
木箱から鋏を取り出して、何度か開閉してみた。あれ? なんだろう、このシックリ感。少しだけ重く感じたけど、初めて触る鋏とは思えない。
「その鋏は素材は鉄だが、ミスリル銀の鋏と同じ寸法に作ってある」
「それで手に馴染むんだ。さすがオルデンさん。違う材質で同じ物が作れるなんて」
「そりゃあ、そうだ。あのミスリル銀の鋏は儂が作ったんだからな」
「そっか、それで……って、ちょっと待って!」
「おいおい、鋏を振り回すな。危ないだろう」
「だって、ミスリル銀の鋏は、ウチに代々伝わる家宝だって……」
「そりゃ嘘だ。儂とお前の母ちゃんで考えた作り話なんだよ。あれは、お前の母ちゃんが髪結いになった記念に、儂が作った鋏なんだ」
愕然とする私の前で、オルデンさんは両腕を広げてみせた。嘘って……作り話って!?
「なっ、何の為にそんな嘘を……」
「ナナエル、お前を一流の髪結いに育てる為の試験みたいなもんさ」
「わたしを一流に? 意味が分からないよ」
「あの鋏を使っていて、何か感じる事は無かったか?」
ミスリル銀の鋏を使って感じる事? 良く切れるし、バランスも良い。研ぎも少なくて良いし、何の不満も無い。ただ一つ、気になる事と言えば……。
「柔らかい髪を切った後、硬い髪を切ると少し切りにくい、かな?」
エルフ族のお客様を切った後に、オルデンさんの髪を切った時の事を思い出した。サクサクと柔らかい髪を切ってから、ザクザクと硬い髪を切ると、その手応えの違いに少し戸惑う。
「でも、それは私の腕が足りていないだけで……」
私の答えにオルデンさんは「ふむ。まあ良いだろう」と、満足そうに頷いた。
「あのミスリル銀の鋏だがな、実は失敗作なんだ」
「はぁっ!? しっ、しっぱいさく、って、失敗作!?」
「ミスリル銀はな、軽くて丈夫で硬い。そして、コツさえ分かれば鍛造しやすい理想的な金属だ。だが、一つ問題点がある。分かるか?」
問題点? あの鋏に問題点なんてあるはず無い。あるとすれば私の腕だ。
私の問題点? 私は子供の襟足を切るのが苦手。それは……。
「もしかして、軽すぎる?」
オルデンさんは広げた両手をポン、と一つ打った。
「正解だ、ナナ。ミスリル銀は軽すぎる。だからミスリル銀は鎧や盾には向くのだが、重さを利用する武器には向いていない」
「鋏は武器じゃないし――――」
言いながら気が付いた。そうだ「持ち重り」が足りないんだ。
「分かった! 軽すぎるからブレるんだ!」
「ようやく辿り着いたな。儂はな、あのミスリル銀の鋏を作り上げたときには、鋏は軽けりゃ軽いほど良い、と思い込んでおった」
オルデンさんは石炭窯を掻き回す棒、火掻き棒を手に取って何度か振り下ろした。
「刃物ってのはな、軽さが利点にならない場合がある。ミスリル銀で出来た武器ってのは、初心者の戦士には憧れの的だ。だがな、武器の扱いが分かってくるとミスリル銀の武器は、最良の武器とはなり得なくなる。もう分かるだろう? 軽すぎるんだ」
私は新品の鋏を改めて手に取り、姿勢を正して空打ち(試し切り)してみた。程よい重さのせいで、かえって安定するように感じた。
「あの鋏、飾りが沢山付いているだろう? あれはな、重さを増す為の後付けだ」
え? と、驚く私の顔を見て、苦笑いを浮かべたオルデンさんは、手首だけで火掻き棒をクルクル回した。
「お前の母ちゃんに、『これ、軽すぎる』って言われてな、慌てて付け足したんだ。ぬはは」
「ぬはは、じゃないよ……まったく。それのどこが一流になるための試験なのよ」
「そこに気が付かないようでは、まだ一流は遠いな。いいか、大切なのは鋏の素材じゃない。それは分かるだろう?」
私は鉄の鋏を手に頷いた。この鋏でもって、私は今より成長する。そんな気がする。
「一流の戦士はな、どんな名剣を手に入れても、結局は鉄の剣を手にするもんだ。何故かと言うとな、最後に信じられるのは自分の腕だけだからだ」
「自分の腕……」
「そうだ。自分を信じるんだ。それが一流になるための条件だ。とことん自分を信じきれるようになるまで、その鉄の鋏で己を磨け。お前はミスリル銀の鋏から卒業するんだ」
「自分を信じる……己を磨く……」
私はオルデンさんの言葉を一言一言、噛みしめた。
「そして、お前さんの彼氏を信じてやれ。必ず生きて戻るさ。あの活動記録を見れば分かる。彼奴は自分が鈍なのを知っておる。無茶はしないだろう」
「ナマクラナマクラって、人の彼氏を……ひっどいなぁ、もう」
「ふはは、だがな、彼奴はツールナイフみたいな男だ。ツールナイフにはツールナイフの使い道がある」
「何それ? 褒めてんの? 貶してんの?」
「おや? 分からんか? それが分からんようじゃ、女としてはまだまだだな」
「ツールナイフの使い道? 何それ?」
「彼奴が帰ってくるまで考えておくと良い。さあ、今日は遅い。家まで送ろう」
私は帰り道、無理やりオルデンさんの腕を取り、自分の腕を絡めて歩いた。
オルデンさんは私のお父さんじゃないけど、ありがとう、お父さん。デカい娘で申し訳ないけど。




