第二十二話 加虐者、許されざる罪の場合
今回は酷い話です。お食事中にスマホなどでは読まない事をオススメします。嫌な気分になります。
ただし物語上、大切なパートですので平静な気分の時にお読みください。
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蝉の鳴き声がいよいよ五月蠅くなってきた頃だったと覚えている。
私とルルちゃんはクラスで浮いた存在になっていた。
かたやクラス一、いや、学年一位の成績優秀者。
かたやクラス一、いや、もしかしたら学年最下位の劣等生。
私たちの溝は、もう埋めたくても埋められない程に深くなってしまった。
違う。それは私が自分から溝を掘り下げただけ。私が勝手に彼女から逃げ出しただけ。
ルルちゃんの姿を見る度に、その声を聞く度に、私は言いようのない劣等感に苛まれた。
彼女の頭の良さ、眼鏡の奥の綺麗な顔だち、真っ直ぐな髪、血の気の薄い肌、そして病弱な身体まで、私にはその全てが妬ましくて仕方がなかった。
もはや彼女の存在そのものが、私を学校から遠ざける原因にもなっていた。
そのころ私は、一週間の内の一日二日しか学校に通っていなかった。
どうやら中学校という所は極端な話、籍さえ置いていればとりあえず卒業は出来ると何かで知った私は、これ幸いとばかりに学校を休んでは髪結い店の手伝いばかりして過ごしていた。
母は私に学校に行けとも、仕事を手伝えとも、特に何にも言わなかった。
放任主義、と言えば聞こえは良いけど、第一線の髪結いであり、敏腕経営者でもある母は多忙を極めていた。その手を煩わせさえしなければ、母に文句は無かったのだろう。
それでも少しは学校に足を運ぶ気にもなったのは、担任の教師に会いたい、って気持ち。ただそれだけ。
「ナナ、テストの点数なんて気にすんな」
「お前が学校に来ないとオレ、やる気出ないよ」
私の肩を抱き、頭を撫でてくれる先生に……優しい大人の男性に、私は夢中になっていた。
*
「ねぇ、ナナエルさぁん」
放課後に史学の追試を受けた後、鼻にかかった甘い声でリコが話しかけてきた。
今回の学力テストも結果は散々。殆どの教科で再試験になってしまった。しかも、史学はクラス平均点が高くて、追試は私とリコの二人だけだった。ちなみに私はクラス一位の馬鹿、リコはクラス二位のアホだ。
「なに? どうしたの?」
こちらから進んで話しかけたい相手では無かったけど、リコは付き合い易い相手ではある。なんせ、気を使わなくて良い。
「追試、どうでしたぁ? リコ、史学って苦手で」
「ははは……私なんて、全部の教科が苦手だよ」
「昔にあったことなんて勉強して、何の得があるんでしょう?」
同感だ。過去なんて振り返っても、良い事なんて何も無い。すでに起きてしまった事は取り返しがつかないのに。
でも、リコのお喋りに付き合うほど暇では無い私は、「さあね」とだけ答えて帰り仕度を始めた。
「ルルティアは満点だったそうですよ」
「そう。頭良いからね、あの子」
ルルティアという単語を聞いて、胸の奥が疼く。ザラついた気持ちに蓋をするように、鞄のフラップを閉じた。
「じゃ、わたし、帰るね」
「史学だけじゃないんですよぅ。全教科が満点なんですって」
信じられないようなリコの台詞に、私は閉じたばかりの鞄の留め具から顔を上げた。「全教科? 八教科全部ってこと?」
「そうですよぅ。リコ、職員室で先生たちが話してるの、聞いちゃいましたから」
どんなにルルちゃんが優秀でも、八教科で満点を取るなんて事が可能なんだろうか。
「こんな噂、知ってますぅ?」
絶句する私に、リコはピョンピョンと跳ねるような仕草で擦り寄ってきた。
「あの女、ウチの担任と付き合ってるってウ・ワ・サ」
「え? 何それ!?」
あまりの驚きに思わず声が大きくなった。リコは私の大声に驚いたのか、慌てたように後ろに飛び退いた。
「ちょっとちょっとナナエルさん。声が大きいですよぅ。リコ、びっくり」
「どういうこと? 詳しい事、聞かせてよ」
喰い付くような私の様子に満足したのか、リコは鼻の穴を膨らませて嬉しそうに話し出した。
「リコ、部活で遅くなることが多いじゃないですか」
「あぁ、料理部ね。校門が閉まるギリギリまで調理室にいるんでしょう?」
「そうなんです。でも、リコだけじゃなくて、ウチの担任とルルティアも遅くまで進路指導室に残ってたんです」
「そんなの……進路指導してたんじゃないの?」
口の中に嫌な味を感じて唾を飲み込む。ザラザラを通り越した、ズキリとした刺激が胸を刺す。
「あはっ。この時期に進路指導なんて、ちょっと早過ぎませんかぁ? それでね、リコ見ちゃったんです」
「見たって、だから何を?」
リコは胸元を飾るリボンの両端を摘まんでツンツンと引っ張った。
「指導室から出てきたルルティアのですね、制服のリボンが解けてたんですよぅ。きゃあ!」
リコは自分の肩を抱くようにして、胸元を押し上げた。まさか……そんな……。
「別にぃ、恋愛は自由だと思いますけどぉ、なんか嫌じゃないですかぁ? 教師と生徒が密室で……なんてぇ」
「そんなの……なにかの間違いだよ……」
「リコが見たの、一回や二回じゃ無いんですよ。それにぃ――」
キィン、と金属音のような耳鳴りがして、リコが何を言っているのか聞き取れなくなる。そして耳鳴りと同時に激しい頭痛と吐き気が込み上げてきた。
池の鯉みたいに口をパクパクさせているリコを突き飛ばして廊下を走り、私はトイレに駆け込んだ。
個室のドアを乱暴に開けると、膝の力が抜けて腰が砕けた。そのまま倒れ込む様にして便器を抱え、私は何度も何度も吐き続けた。ポニーテールの毛先が便器の中に落ち込んだが、気にしている余裕なんて無い。
いよいよ胃の中に吐く物が無くなり、黄緑がかった胃液まで吐き尽くしても、まだ吐き気が治まらない。
口の中に苦い酸っぱい胃液の味が残り、幾度となく唾を吐き出した。自分の顔が涙と唾液に塗れているのが分かる。
――――嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! そんなの作り話に決まってる!!
でも、吐き出せるものを全て吐き出してしまった私の中には、リコの話を嘘だと言いきれる自信も、ルルちゃんを信じきれる余裕も残ってはいなかった。
ルルティアに対する疑念と嫉妬が、空っぽになった私の中に少しずつ、でも確実に溜まり始める。
汚れた床の上に蹲って私は泣いた。惨め過ぎる自分の為に泣いた。
その日の夜から二日間、私は高熱を出して寝込んでしまった。
母は、私が小学生の頃のように仕事を休んではくれなかったし、早めに切上げて帰って来てもくれなかった。私はもう、幼い子供じゃない。
すっかり胃がやられてしまった私は、何を食べてもすぐに戻してしまい、水ばかり飲んではベッドの中で寝て過ごしていた。ただ、決まってみる夢には必ずルルティアが出てきた。
夢の中の彼女は眼鏡を外し、その月光石のような澄んだ瞳で私を見つめてきた。そして、形の良い薄い唇の両端が、ほんの少し吊り上っている。
言わなくても分かる。くだらない生物を見るような目。
「そんな目でわたしを見ないで!」
汗だくで飛び起きるとベッドの中だと気が付く。そして、また水を飲んでベッドに戻る。
次に見た夢では、ルルティアは一糸まとわぬ姿だった。すらりと伸びた手足、余計な肉の付いていない身体、そして豊かな胸に釘付けになる。
同い年とは思えない成熟した身体に、その清楚な美貌とは不釣り合いな肉体に生理的な嫌悪を覚える。
いつも猫背で身体を抱えるように歩いていたのは、そのデカい胸を隠す為でしょう? その身体で男を誘っていたんでしょう?
私の見ている前で、裸のルルティアが同じ様に全裸の男性と絡みあっている。私に背を向けた男の顔は見えない。
嫌だ。気持ち悪い。またあの吐き気が込み上げてくる。
ルルティアの唇から甘い、ねっとりとした声が漏れ出す。あの笑みを浮かべて私を見てる。
――――止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ!!
……お願いだからやめて。
私の叫び声に気が付いた男が、ゆっくりと振り向いた。
そこで目が覚めて、私はまた水を飲む。
結局、四日間も学校を休んでから、ようやく登校する事にした。本当はそのまま夏休みに突入したかったのだけど、追試を受けないと夏休み期間の殆どが補習に充てられると聞かされては、追試を受けるより仕方が無い。
「ナナエルさぁん! 良かったぁ、リコ、心配してましたぁ」
教室に足を踏み入れるなり、リコが飛んで来た。
「風邪だったんですかぁ? ナナエルさん、ちょっと痩せました?」
「ああ……あの、突き飛ばしちゃって、ごめんね。いきなり気持ち悪くなっちゃってさ」
「リコ、びっくりしましたよぅ」
ごめんごめん、と自分の席に鞄を置くと、リコから「そこ、ナナエルさんの席じゃないですよ」と、声を掛けられた。
「リコとナナエルさん、特等席に御案内されちゃいました」
どうやら私が休んでいる間に席替えがあったらしい。私の新しい席は教壇の真正面だった。成績不振な登校拒否児の特等席という事だろう。私の右隣がリコ、そして左隣りは……。
「ナナエルさん、かわいそう。ルルティアの隣りなんて」
心底気の毒といった表情を浮かべてリコは私の顔を見た。でも、その口調は楽しげに弾んでいる。
「どういう意味?」
「変な病気、伝染されますよぉ。ルルティアの家って貧乏だから、身体でお金を稼いでいるんですって」
「……何それ?」
突拍子も無い話に亜然としてしまったが、高熱にうなされている間に見た夢と妙にリンクして、私はつい聞き入ってしまった。
「こないだのテストだってぇ、800点満点なんて、おかしいじゃないですか」
「うん、まあ……ね」
「あれって、担任を誘惑して答案を手に入れたんじゃないか、ってウ・ワ・サ」
「え? だって、この前は付き合ってるんじゃないかって言って……」
「でもぉ、良く考えたら担任があんな地味女と付き合うなんて変ですよぉ。リコ、思うんですけど、ウチの担任ってナナエルさんの事が好きなんじゃないかなぁ」
「はあ? なんで!?」
思わぬリコの台詞に変な声が出てしまった。でも、胸の奥がどきん、と弾んだのも嘘じゃない。
「だって、ナナエルさんが休みの間、『ナナ、今日も来ないな』とか、『オレ、会いに行っても変じゃないかな?』って、リコたちに訊いてくるんですよぅ。これって……ねえ」
うふふ、と笑うリコに御愛想笑いを返しながらも、混乱した頭の中を整理するのでいっぱいいっぱいだ。
私が学校を休みがちになってから、ルルティアを取り巻く雰囲気がずいぶんと変わったみたいだった。
ちらり、とルルティアを盗み見ると、彼女は自分の席に着き俯いて本を読んでいたが、周りの女子は心なしか、距離を置いているようにも見えた。
「おいーっす! みんな、席に着けー」
教室に入ってきた担任の声にクラスメイトが席に着き始め、私も新しい自分の席に座った。いつも最後列に座っていた私は、最前列の景色に戸惑う。先生が……近い。
軽快な夏っぽいファッションに身を包んだ担任が、スキップするように教壇に上った。
「よう、ナナ。やっと来たな」
私にだけに向けられた優しい声と爽やかな笑顔に、耳まで赤くなるのを感じる。恥ずかしくなって担任から顔を逸らすと、隣に座るルルティアと目が合った。
「ナナちゃん……お隣になったね」
目を細めて私を見つめるルルティア。夢の中で見た彼女の肉体が脳裏に浮かび、全身が怖気立つ。
私は咄嗟に「先生!」と、手を上げて立ち上がった。
「お? どうしたナナ?」
点呼をとっていた担任は、驚いた顔をして訊き返してきた。
「あっ、あの、髪結い店のお客さんから、喘息には日光浴が良い、って聞きました。ルルティアさんの席を窓際にしてあげて下さい」
私の顔を見上げたルルティアの目が大きく見開かれる。私はそれを横目で見てから、椅子に座り直した。
「自分が病み上がりなのにナナは優しいな。みんな、拍手!」
パチパチと疎らな拍手が起こり、名簿を手にうんうん、と頷いた担任は「よし、ネヴィル。ルルティアと席変われ」と最前列の窓際に座る男子に声を掛けた。
「うえーっ、俺、窓際気に入っていたのに」と不満を口にして、ルルティアと入れ替えに真っ黒に日焼けしたネヴィルが私の隣りに座った。
窓際の席に移ったルルティアは、すぐにハンカチで額を抑え始めた。夏の日差しはカーテン越しでも容赦がない。
授業が始まるとすぐに、ルルティアは萎れた花のようにぐったりし始めた。その姿に私は罪悪感を感じるのと同時に、言いようのない興奮を感じていた。
美しい絵画に落書きをして台無しにする快感。
お気に入りの玩具をメチャクチャに壊す快感。
可愛い子が顔を歪ませて泣くのを眺める快感。
その白い肌が真っ赤に爛れてしまえばいい。
そのキレイな顔がソバカスだらけになればいい。
その真っ直ぐな髪が日に焼けて傷んでしまえばいい。
強い日差しに苦しむルルティアの姿を眺めるたび、私の心に暗い悦びの火が灯った。
その日から心と身体のバランスを崩した私は、しばらく学校を休学することになった。




