第二十話 彼の、そして私の本当の気持ちの場合
何度も開け閉めを繰り返したのだろう年季の入った木製のドアには、「入院室」と書かれた吊りプレートがちょっと斜めになって引っ掛っていた。
相部屋だと聞いた室内には、コーム君以外の入院患者もいるかも知れない。私は控えめにノックをしてから病室の中に足を踏み入れた。
「あ、あれ? エルさん? お店、どうしたんですか?」
病室に入るなり、シャツの袖に手を通しかけていたコーム君とバッチリと目が合ってしまって、私は何も言い出せないままに立ち尽くしてしまった。
「コーム、もう起き出して大丈夫なのか?」
空気を読んだセニングが、私の言いたい事を代わりに言ってくれた。
「はい! 十分に休みましたから、もう大丈夫です!」
そう言ってコーム君は両手を上げて、むうーっと伸びをした。そして、そのままの姿勢からセニングに向かって、ぺこりと頭を下げた。
「セニングさん。僕をここまで担いで連れて来てくれたそうですね。ご迷惑をお掛けしました。それに……昨日は突っかかってすいません」
「あぁ、いや、俺も大人気なかったよ。悪かったな」
気まずい顔をして頬を掻いたセニングが、私に目配せをした。
私は軽く頷き返して「あのね……」と、身支度を整えるコーム君に声をかけた。すると彼は、私に向き直ってポリポリと頭を掻いた。
「心配掛けてすいません。お店を閉めて来てくれたんですね」
「そんなの気にしないで。コーム君が無事で安心したよ」
ごめんなさい、と再び頭を下げたコーム君の膝が揺れたのを、私は見逃さなかった。
「エルさん、早く戻ってお店開けましょう! 今日は天気が良いですから、お客さんがいっぱい来ますよ!」
「ねえ、コーム君。大事な話があるんだ。聞いてくれるかな」
「何ですか? 大事な話って?」
コーム君は、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて私の顔を見上げてきた。私を信じて疑わない澄んだ瞳に決心が鈍る。
「……わたし、思うんだ。コーム君、働き過ぎなんじゃないかなあ、って」
「うーん、やっぱりそう思いますか? 僕も最近、夏バテ気味だなぁ、って思っていたんですよ」
「コーム君……」
「そうだ! 今日の夕ご飯、お肉食べに行きましょうよ。セニングさんも一緒に! ねっ、セニングさん」
話を振られたセニングは、腕を組んだまま「ああ、いいね」と答えてから、眉を寄せて私の顔を見た。分かってるよ、もう間違えないから。
「ねえ、コーム君。少し休まない?」
「そうですねぇ。今日と明日働いたら定休日ですし、どこにも遊びに出かけないで、ゆっくり休もうと思います」
「違うの。わたしは、コーム君はしばらく髪結いの仕事から離れた方が良いんじゃないかな、って考えてるの」
「ちょ、ちょっ、ちょっと、何を言っているんですか! セニングさん、エルさんが変なこと言って……」
動揺したコーム君は、助けを求めるようにセニングに声を掛けた。でも、変わらず腕を組んだままのセニングは「コーム、俺の話も聞いてくれるか」と、優しく諭すような口調で話し始めた。
「お前とナナの問題だから、俺が口を挟む立場じゃないと思ってる。だから、医者から言われた事だけ言うよ。コーム、お前は身体はともかく、心が疲れ切ってちまっているんだ」
「……そんなこと、無いです。僕、元気ですよ?」
引き攣った顔で無理に笑うコーム君。不自然なほど元気に振る舞う姿を見て、私は悲しくなってきた。
「お前が倒れたのは、昨日の俺とのケンカが引き金だ。こんな事になったのは俺にも責任がある。済まなかった。この通りだ」
そう言って姿勢を正したセニングが、コーム君に向かって深々と頭を下げた。いつもおちゃらけて、そのくせプライドが高いセニングが、他人に対してこんな態度を取るのを、私は初めて見た。
コーム君は、頭を下げたまま動かないセニングを前に、どうしていいのか分からない、といった顔で私を見る。
――――いま、言おう。
セニングの誠意が後押ししてくれる。彼の優しさが、私を正しい答えに導いてくれる。
「コーム君がいないと、わたし、ちゃんと仕事出来るか分からない。でもね、また君が倒れるところなんて、もう絶対に見たくないよ」
「ぼ、僕……もう、倒れたりしませんから! だから、だから一緒に働かせて下さい!」
「経営者として言います。コーム君、しばらく休みなさい」
一瞬、表情を失ったコーム君が、かくん、と膝を折った。
慌てて駆け寄る私とセニングを、コーム君は床に座り込んだまま「大丈夫です」と言って、手で制した。
「びっくりしちゃっただけですから。エルさんの気持ちも、セニングさんの言うことも、僕、良く分かりました」
「コーム君……」
「でも、ちょっと一人にしてもらえますか。今日は僕ひとりしか入院していないので、ここでゆっくり考えたいんです」
泣いたり笑ったり怒ったり、いつだって表情豊かなコーム君が、光の無い目で中空を見つめている。
堪らなくなった私は、「コーム君が邪魔になったんじゃ無いからね」と何度も繰り返し言って、ぼんやりと壁を見つめているコーム君の前に膝を突いた。
「ナナ、行こう。今は一人にしてやろう」
そんな私の肩に、セニングが後ろから手を置いて言った。
「でも……わたし……」
「ナナの、俺の気持ちが分かった、ってコームは言ってくれてんだ。俺たちもコームの気持ちを分かってやんないと」
そう言ってセニングは、膝立ちになったままの私を無理やりに立たせて、抱きかかえるようにして部屋の外に連れ出した。
私たちが扉を開けて廊下に出ると、「エルさん、セニングさん」と、コーム君が小さな声で部屋の中から呼びかけてきた。
「来てくれて、嬉しかったです」
***
病院の外に出ると、目が眩むような強烈な西日が、睡眠も水分も栄養も不足している私の身体に容赦なく照りつけた。
鈍い頭痛を感じて蟀谷に手を当て立ち竦むと、そんな私の様子を見たセニングが「大丈夫か」と、心配そうな顔で声を掛けてきた。
「……ははっ、わたしも疲れちゃったみたい」
「そりゃそうだ。朝からロクに喰わないで歩いたり登ったりなんだから。俺、オルデンさんに例の鋏の話、通しとくからさ。お前、今日は帰って休んだ方が良いんじゃないか」
「うん……そうしよっかな」
正直、頭痛だけじゃ無く眩暈も感じ始めていた。こんな状態で無理をして自分が倒れたりでもしたら、それこそコーム君に合わせる顔が無い。
幸い病院から私の店までは、歩いて十分も掛らない。寄り添う様にくっついた私たちの影が、路地に長く伸びていた。
「ナナ、良く頑張ったな」
店の前まで付いてきてくれたセニングが、私の頭を撫でてくれた。
「最後まで泣かなかったな。偉いぞ」
「やめろ。泣きそうになる」
「はっはっはっ、可愛くねえな。じゃあ、ゆっくり休めよ」
そう言って背を向けたセニングに、私は「ねえ、後で来てくれるよね?」と声を掛けると、彼は足を止めて振り返った。
「あぁ、オルデンさんに会って、用が済んだら戻って来るよ」
「ねえ、泣かなかった御褒美にキスとかしてくれない?」
「やめろ。さっき、ナイーヴだって言っただろ。俺は外じゃそんな事は出来ないって」
ひゃっひゃっひゃっ、と変な笑い声を上げて再び踵を返したセニングは、「続きは後でな」と言い、頭の後ろでパタパタと手を振って路地の角に消えた。真剣なんだか、ふざけてんだか、良く分からないヤツ。
でも、ありがとう。私、あなたのおかげで「間違ってない」って思えたよ。
後悔は……するかも知れないけれど。
店の入口のドアには、出る前に貼っておいた「本日臨時休業」と書いた紙がそのままになっていた。私はそれを剥がさずに店に入った。
「ただいま」
返事が無いのは分かってる。でも、これからは一人で頑張らなくっちゃ。だいたい、私みたいな新米髪結いが他人様を使うこと自体が間違ってる。もっともっと腕を磨いて、もっともっとお客さんが増えてからこそ、アシスタントが必要なんだ。
倒れた作業用ワゴンを立て直し、床に散乱した道具を片付ける。幸い、予備の鋏の用意はしてあるから仕事に支障は無い。
ようし、明日から頑張るぞ! と、気合いを入れると、カット用の鏡の脇に布切れが一枚、落ちているのに気が付いた。
私はそれを拾い上げて、ぱっぱと毛と埃を払ってから鏡を磨き始めた。
今朝、コーム君が磨いたばかりの鏡は、曇り一つ無いくらいに綺麗だったけど、何故だか左上と右上の角が磨き足りないように感じた。
――――あぁ、そっか。コーム君の背じゃ、ここまで届かないんだ。
一生懸命に背伸びしたり、ぴょんぴょんと飛び跳ねたり、踏み台まで自作してきては鏡拭きに精を出していたコーム君の姿を思い出すと、ちょっぴり笑えてくる。
ぴっかぴかに磨き上げられた鏡には、泣きながら鏡面を擦り続ける私の姿が映り込んでいた。




