第十七話 馬鹿で自分勝手な私の場合
「ナナちゃん?」
「え? あっ、ごめんね。なんでもない」
私を呼ぶ声にギクリとした。いま、私、なに考えてたんだ。
胸の奥を擦るようなザラザラした感情に戸惑いながらルルちゃんの前髪を櫛で梳かすと、まるで一本ずつ植えたかのように綺麗に生え揃った長い睫が揺れた。
――――そうだ。この子、私の欲しいモノをいっぱい持ってるんだ。
癖のない髪。切れ長の目。長い睫。細い鼻筋。薄い唇。
「もしかして私……ナナちゃんを困らせてる?」
ルルちゃんの一言一言が無性に勘に触る。
「前髪カットも出来ないの、って、わたしに言いたいワケ?」
「そんなつもりじゃなくて……」
俯いてしまったルルちゃんの頬を両手で挟んで無理やりに前を向かせると、ルルちゃんは小さく呻いた。
お人形みたいに小さな頭と顔。しっとり柔らかい頬の感触が、ザラザラした私の心を逆撫でる。
「下向かれると切れないんだけど」
「ご、ごめんね、ナナちゃん」
いけない。私、どうしたんだ? なんでこんなに苛ついているんだろう? こんな事を言いたい訳でも、こんな態度を取りたい訳でもないのに。
私はすぐに「いや、緊張してんだ、わたし。いつも人形の頭ばっかり切ってるから」と、誤魔化すように、でもわざとぶっきらぼうに言い放った。
「ナナちゃんが似合うと思ったら、どんな前髪でも良いからね」
なにそれ? 変な前髪になったら私のせいだ、って言いたいの? 頭良いからって上から目線?
気が付くと鋏を握る手が震えていた。それが余計にイライラを募らせた。
私はもう、「早く終わらせたい」としか考えずに、ルルちゃんの真っ直ぐな前髪に鋏を入れた。
「つっ――――」
思わず声が出てしまった。指先に鋭い痛みが走り、すっ、と一本の線の入ったような傷口から血が溢れてくる。指先から滴り落ちそうになった血を、私は慌てて舐めとった。
口に広がる嫌な味。熱いようなジワジワとした指先の痛み。でも、そんな不快感よりも最初の一切りが、思っていたよりも深く入ってしまった事に寒気を覚えた。
「どうしたの? 大丈夫?」
目を細めて私を見るルルちゃん。なに、その目? 私を笑っているの?
頭に血が上った私は、視力の弱い彼女の都合なんて考えている余裕は無かった。
騒がしいはずの店内のざわめきも聞こえなくなる。苛立ちと焦りに目の前が暗くなる。
冷や汗に濡れた私の背を、誰かが軽く突き飛ばした。
「控室で血を止めてきなさい」
振り返ると、私の後ろに立っていたのはママだった。口調こそ穏やかだったけど、その目は怒っているように見えた。
「ルルちゃん、ごめんなさいね。この子、焦って指切っちゃって。続きはおばさんが切ってあげるから」
え、あの? と、動揺するルルちゃんに微笑みかけたママは、半ば強引に前髪を切り始めた。
「ほら、早く行きなさい」
突き放すように言うママと、観念したように目を瞑るルルちゃんを背に、私は控室へと走った。
***
ママのお弟子さんに止血をしてもらい、絆創膏を指に巻いて控室を出た頃には、ルルちゃんの前髪カットは終わっていた。
待合席で私を待っていたルルちゃんの前髪は、最初に私が考えていたよりも随分と短くなって、分厚い眼鏡のフレームの上に乗っかっているようだった。
確かに眼鏡を掛けていなければ、彼女の目元を引き立たせるには絶妙の長さだと思うけど、これじゃあ間抜けなコメディ俳優みたいだ。でも……最初に切り過ぎた私の失敗を埋めるには、この方法しかなかったのだろう。
「あの……指、大丈夫?」
慌てて立ち上がったルルちゃんが 絆創膏を巻いた私の指に手を伸ばしてきた。
私はその手から逃げるようにして、両手を後ろに組んだ。
「大丈夫。気にしないで。でも、ごめん。最後まで切ってあげられなくて」
そう言うので精一杯だった。どうしよう、これじゃあルルちゃんがクラスで笑い者になる。そしたら、前髪を切ったママも馬鹿にされる。
でも、ルルちゃんは、「ううん、いいの。でも、私、ナナちゃんに切って貰いたかったな」なんて、私の気持ちを全く無視するような事を言い出した。
「……なによそれ。わたしのママを馬鹿にしてんの?」
言わなくても良いことを口に出してしまった。度の強いレンズのせいで小さく見えるルルちゃんの目に、みるみる涙が浮かんできた。最低だ。本当に最低だ私。
「……明日、待ってるね」
涙声でそれだけ言って、ルルちゃんは逃げるように店から出て行ってしまった。
でも、私は追いかける気にはなれなかった。追いかけて、つかまえて、ルルちゃんに何て言えば良いの?
***
その夜、ママは私の頬を叩いた。口の中のどこかが切れて、また、あの嫌な味が口いっぱいに広がった。
「ナナ、何を考えてた? ルルちゃんの髪を切る時、あなたは何を考えてた!?」
「キレイに切ろうとしか考えて無いよ! だいたい、ルルちゃんとママがいけないんだ! わたし、まだ人形しか切ったことないのに!」
私はリビングのテーブルに思いっきり掌を叩きつけた。お気に入りのティーカップが、中味をまき散らしながら床に落ちる。カシャン、とカップの砕ける音が、ますます怒りと悲しい気持ちを掻き立てた。
「……あなたが控室に行ってる間、ルルちゃんが何て言ったと思う?」
「……」
何も言わずに立ち尽くす私を振り返りもしないで、ママはしゃがみ込んで割れたティーカップを片付け始めた。
「あの子はね、『ナナちゃんの指が治ったら、改めて切って貰っても良いですか』って私に訊いてきたのよ」
振り返ったママの目は真っ赤だった。私はママが泣くところなんて、一度たりとも見たことが無い。
怒りの感情は跡形も無く消え去り、代わりに悲しい気持ちだけが胸を満たした。
「あなたはルルちゃんの、御客様の要望に応えなくちゃいけない」
「御客様? ルルちゃんが……」
「髪結いはね、『あなたをキレイにしてあげたい』って気持ちが一番大切なの」
「ママ……」
「良い髪結いはね、真心で髪を切るの。鋏なんてただの道具に過ぎない。それだけは忘れないで」
ママはティーカップの破片をゴミ箱に捨てて、シャツの袖で目を擦ってから「じゃ、母は行ってくる」と言い残して部屋を出て行った。
ママが出て行った後、私はキッチンで何度も口を濯いだ。口の中に残る嫌な味を、胸に残った悲しい気持ちを全部吐き出すように。
***
翌朝、三日ぶりに制服に袖を通した。
テーブルの上には、いつものようにお弁当代の硬貨が数枚置かれていた。
お金に手を伸ばすと、置手紙があるのに気が付いた。『今夜、外にごはん食べに行こう。あと、割ったティーカップはバイト代から出せ』
「ママ、ありがとう」
私はあえて声に出した。
決めた。ルルちゃんの前髪は、私が失敗したことにしよう。どうせ学年一番の馬鹿女なんだし、いまさら笑い者になっても、困ることなんて何にも無い。
教室に入ると、クラスメイトが一斉に私を見て、すぐに詰まらないモノを見たかのように目を逸らした。
こんなの慣れっこだ。そう思って席に座ると、取り巻きに囲まれたリコが私の机に身を乗り出す様にして声を掛けてきた。
「ねえねえ、ナナエルさぁん。見ましたぁ?」
「見ましたって、何を?」
リコは鼻の穴を膨らませて、こんなに面白いことは無いと言わんばかりに口に手を当てて笑った。
「ルルティアの前髪ですよぅ。自分で切ったんですって。ウケ狙い? わざわざ人を笑わすために切ったのかしら。ねえ、ナナエルさん。未来の髪結いとして、あの前髪、どう思いますかぁ?」
最後列の私の席からは、顔を伏せて一心に本を読むルルちゃんの横顔だけしか見えなかった。そんなルルちゃんを見てクスクス笑うリコとその取り巻き。同じ顔して笑う目の前の女たちに、私は心の底から、ぞっとした。
ルルちゃんの小さな背中は、クラスメイトの嘲笑の嵐から必死に耐えているように見えた。
――――そうか。ルルちゃんは私とママを庇うために、先回りして自分で前髪を切ったと言ったんだね。
――――でもね、ルルちゃん。その優しさが、その頭の良さが、馬鹿で自分勝手な私には辛いんだよ。
その日から私は、自分からルルちゃんに話しかける事が出来なくなってしまった。ルルちゃんの顔を、前髪を見るたびに、あのザラザラが私の心を擦った。
馬鹿で自分勝手な私は、そのちんまりとした猫背を、遠くから眺める事しか出来なくなってしまった。
**********
がちゃり、と店のドアが開く音で、やっと私は鋏の刃から顔を上げる事が出来た。
「ごめんなさい。今日は臨時休業で……」
言いかけて、止めた。扉を開けて入ってきたのはセニングだったからだ。
息を切らせたセニングは「おいおい、まだそんなカッコしてたのか?」と、呆れたように笑った。
「どうして走って戻ってきたの? まさかコーム君に何か……」
「大丈夫、大丈夫。病気も何にも心配は無いってよ」
夏の暑さのせいもあるのだろう。セニングは首に掛けたタオルで汗を拭いながら、「ナナを早く安心させたくってさ、走って戻ってきたんだ」と言い、荒い息を整えるように深呼吸した。
私はセニングの優しさに感謝しながらも、「じゃあ、コーム君は、どうして倒れたの?」と訊いた。
「疲れだって、疲れ。だから休めば大丈夫なんだって。でも、ナナにとっては、ちょっと良く無い話があるんだ」
「わたしにとって、良く無い話?」
セニングは言いにくそうに目を伏せた。それから、ぽん、と手を打って、「そうだ。二日くらい入院した方が良いから、着替えとか持って来いって医者に言われたんだ」
「にゅういん、って入院? コーム君、本当に大丈夫なの?」
「ああ。ちょっと身体が弱っているから、念の為だって。だからさ、あいつん家まで着替えとか取に行こう。俺、コームん家、知らないから案内してくれ」
「うん……分かった。仕度するから待ってて」
私にとって良く無い話……なんだろう。
とりあえず、残念な自分の格好を整えよう思い、手にしたミスリル銀の鋏をカウンターの上に置いた。すると、目聡く気づいたセニングが「ナナ? 指、切ったのか?」と、不自然に伸ばした私の指を見つめながら声を掛けてきた。
「そんなに大した事ないよ。ちょっと……ね」
「大した事ないよ、じゃないだろ、お前。『指こそ髪結いの命』って、ちょっびっとしたささくれだって気にしてハンドクリーム塗ったくってんのに」
セニングは心配そうに私の指を眺めてから、カウンターの上に置いたミスリル銀の鋏に目をやった。
「それ、もしかして……刃でも傷めたのか?」
なんでこの人、普段は抜けてるくらいに気が利かないのに、こんな時だけ異様に鋭いんだろう。
「うん……少し欠けちゃったみたい。わたしじゃ手に負えなさそう」
「俺、後でオルデンさんとこに長剣を研いで貰いに行くんだけど、持ってって見て貰おうか?」
「それなら私も一緒に行くよ。どのみち今日はお店、休みにするから」
ミスリル銀の鋏を丁寧に布で包んで鞄に仕舞うと、今頃になって指先がジンジンしてきた。
あの時と同じ痛み。口の中にはあの嫌な味が……血の味が戻ってきたような気がしていた。




