第十六話 壊れ始める、そして壊れ始めた日常の場合
怒鳴り声が遠くに聞こえる。
誰が私の肩を掴んで激しく揺さぶっている。
ナナ、ナナ、って、さっきから私を名前を呼んでいる、この人はいったい誰?
「おい! 大丈夫か!? 聞こえてるか!?」
なあんだ、セニングじゃない。どうしたの? 髪でも切りに来たの?
「ナナ! 何があった!? コームはどうしたんだ!?」
コーム君? そうね、まずはコーム君に髪を軽く洗って貰ってから切ろうかな。悔しいけど、私よりもコーム君のがシャンプー上手いんだよね。
「しっかりしろ! ナナ!!」
ちょっと、大きな声出さないでよ。近所迷惑だし。それに、そんなに揺さぶらないでって。
私は、コーム君にシャンプーを頼もうと思って店内を見渡した。ちょっと、コーム君。そんなところに寝転がったら――――
「やだっ……やだよ、いやだぁ! いやだいやだいやだやだやだぁあぁ!!」
私は両手で顔を覆い、頭を抱え、髪の毛を滅茶苦茶に掻きむしった。
セニングは錯乱する私を強く抑え込むように、だけど優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫だよ。大丈夫だから」
私の頭を掻き抱く掌の大きさと温かさに、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。
「ナナ、落ち着いて。落ち着いて何があったか教えてくれ」
「わ、わたっ……こ、コーム、くんっ、たお、たおれ、のにっ、は、はさみ、なんか……」
言葉が痞えて上手く伝えられない。それでもセニングは頷きながら「分かった、大丈夫だから」と私の背中をとんとんと優しく叩き続ける。
「ナナ、顔をこっちに向けて」
身体を放したセニングが、腰に下げた巾着袋から小瓶を取り出して栓を抜き、私に向けて差し出した。
「深呼吸しながら中の匂いを嗅いで」
ふぅーはぁー、と繰り返してからセニングの手の中の緑色した小瓶に顔を近づけると、ミントっぽい刺激臭に思わず咽こんだ。
「ちょっ、なにこれ!?」
「南の森に生えるエルヴンミントから抽出した気付け薬。魔導院で貰ったんだ。良く効くだろ?」
言われてみれば、咳が収まる頃には意識がはっきりしていた。そうだ! コーム君が――――
「脈も呼吸も安定している。命の心配は無いよ」
セニングは床に膝を突いて、血の気の引いたコーム君の首筋に手を当てながら、私を安心させるように深く頷いた。
「コームは、俺が怪我したときに世話になってる病院に連れていくから。お前、今日は休め」
セニングはそう言って、ぐったりしたコーム君の身体を、ひょいっと肩に担いだ。
「待って。わたしも行く」
のろのろと立ち上がりかけた私に、セニングは「お前、よーく鏡見てから言え」と苦笑いを浮かべた。
「必ず戻ってくるから待っててくれ」
そう言い残してセニングは、小柄なコーム君とはいえ、人をひとり担いでいるとは思えない素軽さで駆け出して行ってしまった。
彼なりに気を使ってくれたのかな。一人残された私は、そう思いながら店の壁に取り付けたカット用の姿見で自分の姿を確認した。あぁ……何て姿だ。もう、何も言うまい。
でも、良いんだ。セニングになら、どんな姿を見られても構いやしない。私がどれほど汚くて浅ましい姿でも、彼は受け入れてくれるから。「ナナ、酷いツラだな」って笑いながら。
鋏や櫛が散らばった床に目をやると、忘れていったのか、それとも置いていってくれたのか緑の小瓶が置いてあった。
私はそれを手に取って瓶の栓を抜いた。立ち昇るミントの清涼な香りは、私に勇気を与えてくれる。
すっきりとした気持ちになってミスリル銀の鋏に手を拾い上げ、何度か鋏を開閉させてみると、動刃と静刃が合わさった部分に微妙な引っ掛かりを感じた。
一瞬、こめかみの辺りが、すうっ、と冷たくなる。
「欠けちゃったか」
窓際まで歩き、日の光に鋏の刃を翳してみる。最後の確認に、私は目を閉じて刃を人差し指でなぞってみた。
指先に残る微かな違和感と鋭い痛み。目を開けると、人差し指に血が滲んでいた。
切れた指先を口に含み、美術品のように美しい鋏を眺めた。
――――良い髪結いはね、真心で髪を切るの。鋏なんてただの道具に過ぎない。
口の中に残る血の味に、母の言葉を思い出した。
そして、親友を失う切っ掛けになったあの日のことも。
**********
あの遠足の後からクラスの空気が変わった。
まず、あんなに流行ったポニテ病が終息した。真っ先にポニーテールを解いたのはリコだった。
次にクラスの女子に流行りだしたのは『お弁当自慢大会』だ。お弁当箱とその中身を競い合うのが女子の間で流行りだしたのだ。当然、リコとリコ料理会のメンバーが流行の中心になった。
そして、リコは皆の弁当に『リコのお弁当ランキング』なる独自の評価を付け始めた。当然、セニングん家の仕出し弁当なんて論外中の論外。
最初のうちは単に「凄いなぁ。暇人だなぁ」って思っていた私が甘かった。リコの目的はお弁当競争などでは無く、女の子たちの競争心や自尊心をコントロールして、リコ自身がその頂点に立つことだったのだ。
いつの間にか『リコのお弁当ランキング』から除外された数人の女子が孤立した。
経済的に恵まれない家庭、親が忙しくてお弁当に手が回らない家庭、そして、ウチみたいな母子家庭。
でも、私は一向に構わなかった。そんな下らないランキングよりも「ルルちゃんの家もお父さんがいない」という事実に、私は躍り上がるほど喜んだ。
ルルちゃんも私と同じ。それが、ルルちゃんにのめり込む一因にもなっていた。いま思えば、私はルルティアという存在にどっぷりと依存していたんだと思う。
毎日のように私とルルちゃんは校庭の隅っこ、あの蝉の抜け殻の木の元で二人、こっそりと隠れるようにしてお弁当を食べた。私はまるでルルちゃんを独り占めにしているみたいで嬉しかった。
でも、彼女はそんな私をどう思っていたのだろうか。当時の私には、そんなことは頭にも無かったけど。
そして初めての学力テストを境に、クラスの雰囲気が変わった。
予定通りに私のテスト結果は散々だった。でも私には『髪結いになる』って目標があったから、成績が悪くったって別に気にもしなかった。そんなことよりも、ルルちゃんが五教科で何と498点を取って学年トップになったのにビックリした。しかもそのマイナス2点は、目が悪い彼女が数字を一桁読み間違えたケアレスミスだと聞いて、私は自分の事のように誇らしい気持ちになった。満点だよ! 満点! すっごいよ、ルルちゃん!
だけど私のクラスでは、ルルちゃんの驚異的な高得点よりも、私の悲惨なテスト結果の方が話題になっていた。意外にも私の残念なテスト結果を気にしたのは、担任でも母でも、ましてや自分でも無くクラスメイトだったのだ。
いつの間にか私は『有名な髪結いのオシャレな一人娘』から『格好だけの馬鹿女』というポジションになった。
身嗜みに気を使い、髪型に気合いを入れれば入れるほどに、クラスメイトは冷たい目で見て、私を笑った。
「髪型なんてキメてる暇があったら勉強しろって」
「髪結いなんて馬鹿の就く仕事だし」
「頭にいく栄養が身長にいったんだよ」
毎日のようにそんな陰口が聞こえてきた。
得意な体育で活躍したって、合唱でどんなに大きな声を張り上げたって、美術の教師に褒められるような絵を描き上げたって、馬鹿は何したって馬鹿。
私は次第に学校を休みがちになっていった。
***
「ナナちゃん、御指名のお客さんが来てるよ」
大勢の髪結いが慌ただしく行き交う髪結い店の床を掃除していた私に、ママのお弟子さんの一人が声を掛けてきた。お客さん? 御指名? 髪結い見習い未満の手伝いの私に?
人の出入りの激しいエントランスに、ポツンと立っていたのは猫背の制服姿。
「ル、ルルちゃん……」
私は箒を手に立ち尽くしてしまった。
まるで小動物みたいにオドオドしているルルちゃんの姿を見て、涙が出るほど嬉しくなったけど、すっかり学校が、教室が苦手になってしまった私は、中学の制服を見ただけで軽い頭痛と吐き気を覚えていた。
――――でも、あの内気なルルちゃんが、私を訪ねて来てくれたんだ。
私は意を決してルルちゃんに近づき、出来るだけ明るく振る舞った。「や! 久しぶり! ルルちゃん」
「二日ぶりだけど、心配になって来ちゃった。忙しいのにごめんね」
非日常的にゴージャスで、騒々しいってくらいに賑やかな店内に圧倒されたように、小さな身体を余計に小さくしてルルちゃんは言った。
「あー、うん。心配してくれてありがとね。わたし、元気だよ。なんかさぁ、学校行くのが面白くなくってさ」
「私、ナナちゃんがいない学校は面白くない」
寂しげな表情で寂しい事を言うルルちゃんの姿に、喉の奥がグッと痛くなった。
「うん。明日は学校行くよ」
「良かった。待ってるね。……あの、それでね、あの……」
「ん? なに?」
「あのね、私、前髪を切って貰いたいの。ナナちゃんに」
え? 練習用の人形しか切った事の無い、この私にですか? すぐには答えが出せずに絶句してしまった。
「あの、駄目かな?」
「え、あ、だ、駄目っていうか、その……」
戸惑う私の肩に、後ろから手が置かれた。振り返ると、鋏を手にしたママが立っていた。
「良く来てくれたね。あなたがルルちゃんかな?」
ママが声を掛けると、ルルちゃんは猫背な姿勢を正して「はい、ナナエルさんのクラスメイトのルルティアです」と、小さな声だけどはっきりと答えた。
ママは「あらあらあら、ナナと違ってしっかりしてるね」と笑いながら、ルルちゃんの顔をまじまじと見つめ、それから、ぺちん、と私の頭を叩いた。
「ナナ、この子のどこが幽霊じゃ。貴様の目は節穴か。すごい素材じゃないか」
ママはウンウン頷きながら「いいじゃない。ルルちゃんの前髪を切ってあげなさい」と、緊張してカチコチに固まっているルルちゃんの前髪を、七三に分けたり真ん中に分けたりしながら私に言った。「これだけ綺麗な顔をしていれば、どんな前髪でも似合うから」
「うっ、うん。分かった」
綺麗かどうかは良く分からないけど、ママはルルちゃんが気に入ったみたいだ。
「じゃあ、こちらの席へどうぞ」
私はお弟子さんたちの真似をして、ルルちゃんを空いているカット席に案内した。
ルルちゃんを席に座らせて刈布をかける。あ、首にタオルを巻くのを忘れてた。
焦ってタオルを取りに走ると、お弟子さんたちがニコニコと私を眺めていた。きっと子供のお芝居みたいに見えているんだろう。
「はい、失礼します」
改めて首にタオルを巻き、刈布でルルちゃんの身体を覆うと、ただでさえ小柄なルルちゃんは余計に小さく見えた。ああ、ちっちゃ可愛いなぁ。
ベルトポーチから練習用鋏と櫛を取り出し、ルルちゃんの前髪を櫛で整えると、眼鏡のフレームに櫛の歯が当たってしまった。
「あ、そうだ。眼鏡、良いかな?」
私がそう言うと、ルルちゃんは刈布の脇から手を出して、眼鏡を外した。
「はい、お預かりし……ま……」
ルルちゃんの手から眼鏡を渡されて、私は初めて眼鏡をしていないルルちゃんの素顔を見た。
「ナナちゃん。あの、私、眼鏡が無いと何にも見えないから、前髪はお任せします」
目を細めたり見開いたり、パチパチ瞬きするルルちゃんの思いがけない美貌に、私は思わず息を飲んだ。
切れ長の整った目元にムーンストーンのような美しい瞳。筆で書いたような繊細で完璧なアーチを描く眉。そして控えめな高さだけど、細くて真っ直ぐな鼻筋。これが全て度の強い眼鏡の奥に隠されていたんだ。
「ナナちゃん?」
ルルちゃんの訝しげな声で我に返った。女の子の顔にこれほど見惚れるなんて、私、どうかしてる。でも、なんだろう? 胸に湧きあがってきた何か後ろ暗い、感じた事の無いこの嫌な気持ちは。
その時の私は、中学生にしては幼すぎて分かっていなかったんだ。
それは、自分よりも美しい女に対する『嫉妬』という名の感情。




