第十五話 救いの無い女、の場合
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魔陽灯の放つ夕焼け色にも似たオレンジ色の光が、ポニーテールを無くした私の影を休憩室の壁に薄ぼんやりと照らし出していた。
私はしばらくそれを眺めてから一つ息を吐いて、ジンジャークッキーの缶の蓋を閉じた。甘い思い出を閉じ込めるように。
ルルちゃんと過ごした中学の日々は、つまらない物ですら輝いて見えるような日々だった。
でも、教室で過ごした日々は、救いようのないくらい狭苦しい、窒息しそうな毎日だった。
名残惜しいような、でも、もう見たくないような気持ちで菓子缶を棚に戻し、私は休憩室を立ち去った。苦い後悔から逃げ出す為に。
想像はしていたけど、波立った私の心は簡単には寝付くことを許してくれなかった。セニングとコーム君のケンカのことなんて、大した問題じゃない。そんなの朝になったら忘れているだろう。
頭から布団を被って縮こまった私は、何度も何度も寝返りを打った。そして、肩をすぼめて寂しげに微笑むルルちゃんの姿を思い出しては、枕に顔を埋めて悶え呻いた。
それでも、私は一滴の涙も零さなかった。泣くのが許されるのは被害者だけ。加害者は罰を受けるべきだ。
親友を裏切った罰はこれから先、結婚をして、子供を慈しむ幸福な日々を迎えようが、病に倒れて死の床に臥せようが……目を閉じるその寸前まで、私の胸を、私の心を焦がし続ける。
ごめんなさい。ごめんなさい……ルルちゃん。
許して、なんて言わない。
わたし、この後悔を抱いて生きていくよ……ずっと。
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翌朝、これもまた想像通りだったけど、鏡を見て思わず苦笑い。
ただでさえクセの強い髪はグルングルンでボッサボサ。オデコにはニキビとも言えない吹き出物。両目の周りは赤黒く腫れ上がり、目の下には灰色っぽいクマが出来ていた。これこそアレだ。母に上手く説明出来なかったオバケってヤツだ。
洗面台に水を溜め、冷たい水で何度も顔を洗ったが、腫れは一向に収まる気配は無い。
これはもう、下手にメイクで誤魔化さないで素で勝負してやるか。それでもって御客様にツッこまれたら、親友を裏切った馬鹿な女子中学生の話をするまでだ。
ようし、まずはコーム君をビビらせてやろう。そう思い、私は壁掛け時計に目をやった。
おかしいな。いつもだったらコーム君が「おはようございまーす」って元気いっぱいに入口の扉を開けて、「エルさん!? まだ、そんな恰好してるんですか!?」ってブーブー言いながら、私の髪を梳かしてくれている時間なのに。
いつまで経ってもコーム君は現れる気配が無かった。私は仕方無く着替えを済ませ、仕方の無い悲惨な顔面には適当なメイクを施し、仕方の無い有様の頭髪は帽子を被って誤魔化すことにした。
姿を現さないコーム君が、さすがに心配になってきた頃、カチャリ、と入口の扉が開いた。「すいません……遅くなりました」
「こらあ、遅いぞ。コーム君。って、遅刻じゃないんだけどね」
申し訳なさそうに項垂れて店に入ってきたコーム君に、私は気を使わせないようにと思い「いつも来るのが早過ぎるんだよ、コーム君は」と、フォローしておいた。
それでもコーム君は、「ごめんなさい、気をつけます」と、頭を下げて開店準備に取りかかった。あれ? 私のこの無残な姿にツッこまないのか? なんか、調子狂うなあ。
今日は残念ながら予約が入っていない。月の真ん中は暇になりやすいのだ。それでも飛び込みのお客様が、何時いらっしゃるのか分からないので油断は出来ない。
コーム君は鏡を磨くのに余念が無いようだ。布を手にして一心不乱にキュッキュと鏡を擦り続けている。私もコーム君を見倣って自分の商売道具を磨くとしよう。
仄白く光る愛用のミスリル銀の鋏は、その硬さと対摩耗性から殆ど研ぎを必要としないくらいに長切れする。でも、当然ながら皮脂汚れは付着するので、汚れはマメに拭き取るに越したことは無い。
セーム革(鹿の革)でもって日頃の感謝と愛情を込めて鋏の刃を磨いていると、「あのう、空いてるかしらん?」と、入口の扉から黒髪の女性がひょっこりと顔を出した。
「あっ、はい! 空いてますよ!」
扉が開く音どころか気配すら感じなかったので、御客様の突然の来店に驚いてしまった。でも、「あぁ、良かったわぁ」と言いながら、するりと店内に入ってきた女性の全身を眺めて、私は妙に納得した。
その細長過ぎる手足や人間族離れしたスタイルの良さ、そして、頭に乗っかってる猫耳。この女性、獣人族だ。しっかし背が高いなぁ、私と同じくらい? いや、もっと高いかも?
「ねえ、あなたがエルさんでしょう?」
「は、はいっ、そうですけど……」
獣人族の女性は、金色にキラキラ光る目で私の顔を見詰めながら言った。あ、カワイイな。本当の猫みたい。
◇◆◇
学院都市には色んな種族が住んでいたり訪れたりするけど、獣人族の人たちほど多様な種族は他にはいない。
今、私の目の前でニコニコしているこの女性は、間違いなく猫人族だ。猫っぽい風貌だけじゃなく、仕草や立ち振る舞い自体が猫っぽい。
猫人族と「犬+人間」な犬人族の人たちが学院都市で良く見る二大勢力だけど、竜の特徴を持った竜人族や、鳥のような翼を背に持った鳥人族という種族の人たちも年に何回かは見かける。
そして、これはセニングから聞いた、いや、聞かされた話だけど、獣人族には他の人類とは友好的では無い種族もいるらしい。豚と人間を掛け合わせたような豚人族が有名だけど、半魚人としか言いようのない魚人族とかいるんだって。考えただけでも生臭そう。
◇◆◇
心の底まで見透かされそうな金色の瞳に心を奪われかけてしまったが、猫人族の女性の尻尾が床をパタッ、と叩いた音で催眠術から解けたような気持ちになった……催眠術にかけられたこと、無いけど。
「ここ、リサデルって子が来てるよねぇ?」
「あ! もしかしてリサデルさんからの御紹介の方ですか?」
「ん? ごしょうかい?」
一瞬、女性は怪訝な顔をしたが、すぐに「そうそう! ご紹介、御紹介よぅ」と、首を傾けて妖しく微笑んだ。
どうも一瞬の間が気になったけど、とりあえずは席に御通しする。私はカウンターから新規客用のカルテを取り出し、そこに日付を書き込んだ。
「あのう、失礼ですが、ご住所は魔導院の学生寮で宜しかったでしょうか?」と、私がカルテに記入しながら質問すると、また一瞬間があって、「ええ、そうなの女子寮よぅ」と返事が返ってきた。この、一瞬空く間は、この女性の喋り方の癖なんだろうか?
「えーっと、すいません。お名前をお聞かせ願えますか?」
「なまえ? 名前……」
また間が空いた。自分の名前なのに何か変な猫。いや、猫人族だった。
「エレクトラ。エレクトラよ」
「はい。エレクトラ様、ですね」と、私はカルテの名前欄に『エレクトラ』と書きこんでから「では、改めまして、ナナエルと申します」と挨拶をした。「それで、今日はどうしましょうか?」
「今日は挨拶に寄っただけだから。そうね、前髪を整えて貰おうかしら」
エレクトラ、と名乗った女性は、前髪を摘まんで引っ張った。「ちょっと目に入って邪魔なのよぅ」
「はい、では前髪カットですね」
私はさっそく刈布をエレクトラと名乗る女性の身体に覆い被せた。
これくらいですか? うーん、もうちょっと短く、なんて相談している隣りで、まだコーム君は鏡を磨いていた。なんだろう? 今日のコーム君、ちょっと様子がおかしい?
黒くて真っ直ぐな前髪を切っている間、リサデルさんの話になった。ジンジャークッキーを貰った話が出たとき、昨夜、一枚食べちゃったことを思い出した。後でコーム君に言っておかなきゃ。
「うん、良いねぇ」
前髪を切り終わると、鏡を覗き込んでエレクトラさんは満足そうに微笑んだ。
たかが前髪カット、されど前髪カット。彼女の輝く金色の瞳を引き立たせるために、前髪を直線的なラインに整えてみた。その仕上がりに私も満足。
お会計の処理をしていると、カウンター越しにググっとエレクトラさんが顔を近づけてきた。大人っぽい香水の香りにちょっとドキドキする。
「ねえ、エルさん。あの子、あのホビレイルの子」
「あ、はい。コーム君です。あの、何か……?」
違った意味でドキっとして、ちらりと鏡に視線を向けるとコーム君はまだ鏡を磨き続けていた。
「あの子たちはね、限界までストレスを溜めると、ああやってずっと同じ行動を取り続けるのよ。悪いこと言わないから今日は休ませなさい」
「え? あ、はい……」
戸惑う私に「じゃあね」と、エレクトラさんは背を向け、長い尻尾をしならせて店から出て行った。私は失礼ながらも、その黒猫のような後姿に何とも言えない不吉な空気を感じてコーム君を振り返った。
「ねえ……コーム君? いつまで鏡拭いて――――」
布越しに鏡に手を突くような恰好で小刻みに震えているコーム君の姿を見て、私は「コーム君!?」と短く叫び、駆け寄った。
「コーム君! どうしたの!? ねえ、どうしたの!?」
その小さな肩を掴んで揺さぶると、コーム君はボロボロと涙をこぼしながら「ごめんなさい、エルさん、ごめんなさい」と虚ろな目をして同じ言葉を繰り返した。
心臓が、胃がぎゅうっと締め付けられるような思いに、私は思わず胸を押さえた。
「ぼ、僕……朝から、身体が、おかしくて……び、病気、だったら、ごめんなさい」
「ちょ、ちょっと、早く病院行こう! 待ってて! いま、仕度するから!」
とにかく、早くコーム君を病院に連れて行かなくちゃ!
慌てて臨時休業のお知らせを紙に書きこんだけど、手が震えて上手く書けない。くそっ! もう一枚、と震えが治まらないペンを持った右手を、左手で支えながら書き込んでいると、突然、ガシャン! ドン! と、何かが倒れる音がして、私は慌てて顔を上げた。
倒れ伏すコーム君の小さな身体と、横倒しになった作業用ワゴン。床に散らばった道具類。櫛、ブラシ、そして――――
私は短い悲鳴を上げ、駆け寄ろうとして足を止めた。
「い、いやあぁああぁあ!!」
私はいま、倒れて動かないコーム君では無く、床に落ちたミスリル銀の鋏に駆け寄ろうとした。その事実に絶望した。
――――まただ。私はまた間違えた。一番大切な、かけがえの無いモノを取り間違えた。
混乱した私は、コーム君の隣りに膝を突いて悲鳴を上げ続ることしか出来なかった。
助けて! 誰か、コーム君を助けて!
助けて……馬鹿な私を誰か助けて。




