第九話 中学生の場合
アドバイスをくれた皆さま、ありがとうございました。
おかげで筆が進みました。
「ごめ……ごめんね。わたっ、わたし、セニングの気持ち……ぐすっ、全然、分かってなかった」
目をつぶってシャンプー椅子に横たわっていたセニングは、薄目を空けて私を見た。
「悪い。泣かすつもりじゃなかったんだ」
そう言ってセニングは手を伸ばして、私の頬に優しく触れた。
子供の頃からいつもそう。セニングはこんな時だけ飛びっ切りに優しいんだ。ずるい、ホントにずるい。
「わたし、セニングの気持ち……知ろうともしていなかったよ」
私はもう、痛いくらいの気持ちに涙が止められなくなって、手の甲で涙を拭った……って、痛い!? なにこれ!? 超痛い! 涙が止まんない!!
「いっ、痛い! 目がっ! 目がーっ!」
「お前……泡の付いた手で目、擦っただろ」
「それだっ!」
ただでさえシャンプーが目に入ったら染みるのに、それが清涼感溢れるスースーするミントシャンプーときた日にはっ!
「痛たた、痛い! いたいよー! めがいたいー!」
「ナナ、落ち着け。とりあえず水で流せ!」
わっ、分かった、とばかりに、お湯を出しっぱなしにしたままのシャワーヘッドを掴んだが、泡で滑ってすっぽ抜けた。
「おわあぁっなんだっ! ちょっ! お湯が俺! 俺がお湯にかかって……いや、俺がお湯? 違う、お湯が俺にかってる!」
シャンプー椅子の上でセニングがジタバタしているみたいだけど、痛くて目が開けられない。
「止めろ! とりあえずシャワー止めろ!」
「あうぅ……レバーどこだ……お湯止めるレバー。あぁ、これだ」
手に触れたレバーを捻ると、シャワーの勢いが弱くなった……でも、お湯は止まらない。あれ? もしかして、これは……。
「うおあちっ! ナナ! お湯、熱いって! お前、ふざけんな! これ熱湯! 熱湯出てんぞ!」
「もういやー! 誰かっ! 誰か助けてぇっ!」
*****
数年振りに首から下が泡ビショまみれになったセニングは、「まあ、気にすんな」と苦笑いを浮かべて帰っていった。さすがに髪を切るどころでは無く、当然、一緒に夕ご飯を楽しむどころでも無い。
溜息吐いて鏡を覗き込む。白目は真っ赤、目の周りも腫れて真っ赤……アイラインが溶けて黒い涙になってる……更に最悪な事に、右目のつけまが額に貼り付いていた。
こんな姿を彼氏に見られたのか。うん、今すぐ死のう。
お腹空いたな。死ぬ前に何か食べたいな。今から化粧直して外に出るのは面倒臭いな。でも、餓死はやだな。
仕方ない。非常食のパンでも食べよう……あれ? この緑色の何? もしかして、カビ!? うぅ、餓死は嫌だけど食中毒で死ぬのも嫌だ。
何か食べる物ないかと台所を彷徨い、休憩室の棚を漁っていると、リサデルさんから貰ったクローバーの缶が目に入った。
明日、一緒に食べようって、コーム君と約束したジンジャークッキー。これに手を出したら、私は食欲にすら負ける最低人間だ。
ま、いいや。どうせ死ぬんだ。食べてから死のう。
大体さぁ、あそこでコーム君が突っかかるのも悪いんだ。セニングが一番悪い、コーム君は二番目に悪い。そして、私は何も悪く無い。だから、私にはジンジャークッキーを味見する権利がある。
缶の蓋を開けると、ふわっ、と素朴な甘い匂いが広がった。うーん、何か懐かしいような匂い。
一枚手に取ると、クッキーは意外にしっかりした感触。いっただきまーす。
暗い部屋で一人、クッキーを貪る女。はははっ……やっぱり死のう。
うーん、美味しいっ! しっかりとした歯触りなのに、口に入れると溶けていくような生地が最高。ジャムを乗せると美味しいってリサデルさんは言ってたけど、いやいやどうして、程よい甘さが心地良いじゃない。
……違う。涙のせいで甘く感じるんだ。
その時、どんっ! と、胸を衝かれるような感情に思わずよろめいた。ぶつけてもいないのに、何だろう。この胸の痛み。
私……これ、食べた事がある。どうして今まで忘れていたんだろう。
これはルルちゃんのくれたクッキーと同じ味。それは、涙の味のするジンジャークッキー。
**********
「え~、で~、あるからしてー、え~君たちは小学生から中学生、え~すなわち子供から大人になる、え~階段をえ~……」
狭い体育館にオッサンのダミ声が響く。校長の長い話はまだ続いている。かれこれ十分は経っているんじゃない? 周りを見渡すと、みんな神妙な顔で前を向いて座っていた。
しっかしダサい。校長もダサいけど、クラスメイトの男子全員がダサい。
なに? その中途半端な丸刈り。
なに? その襟足だけ長い髪型。
なに? その真ん中分け。
揃いも揃って罰ゲームか? もしくは体張ったギャグか?
あーあ、カッコいい男子、一人もいないなぁ。
女子もそう。みんなショートボブとも言えないオカッパ頭。もしくは三つ編み。
辺りを見渡していると、度の強いメガネを掛けた女の子が私を見ているのに気が付いた。んーだよ? てめーナニ見てんだよ。
「こら、ナナエルちゃん。きょろきょろしない」
「はぁーい、ごめんなさぁーい」
さっき担任だと紹介された、この若い男の先生は良い感じ。イケメンと言うには何かが絶望的に足りていないけど、ばっちりキメた流行の髪型にピンストライプの細身のスーツは悪く無い。しかも、すぐに私の名前を覚えてくれた。悪く無い。さらに私より背が高い。とても良い。
しっかし、こんな所に三年間もいなくちゃならないと言う事実にゲンナリ。魔導院の法律で中学校を卒業しないと髪結いの専門学校に入れない決まりになっている。ホーリツなんだって、法律。
どこの誰が決めたか知らないけれど、どうして小学校を出てすぐに髪結いの修業をしてはいけないのだろうか。いや、何なら小学校に行く必要も無いじゃないか。私は今すぐに髪結いになりたいのに。
「はーい。じゃあ教室に戻ってホームルームだぞー。にれつー、二列に並べー」
気が付いたら校長の長いムダ話が終わっていた。やれやれ、と立ち上がり、だらだらとクラスメイトの行列に加わる。同じ小学校出身の一番仲の良い友だちは、各クラスにばらけてしまっていた。詰まんないの。
「ナナエルちゃん、あ、ナナって呼んで良いかな?」
教室に向かう廊下をチンタラ進む列に並んでいた私の隣りに、例の若い担任が寄り添ってきた。
「はぁい、嬉しいです。わたし、ナナって呼んでもらうの、大好きなんですぅ」
未成年の女の子がこうやって鼻に掛けた声を出すと、大人の男の人は凄く喜ぶって、ママのお弟子さんが教えてくれたんだ。
「先生さ、ナナの店で髪切って貰ってるんだ。俺、ナナの担任になれて嬉しいよ」
「わぁ、ありがとうございます! 先生、これからも宜しくお願いしますぅ!」
さらに接客用に訓練を重ねた笑顔で答えると、「こちらこそ宜しくな」と担任はニッコリ微笑んで離れて行った。
ラッキー! ホントにママが有名な髪結いで良かったぁ! 何にもしないで担任と仲良くなれた! 役得役得。
胸いっぱいに広がる何とも言えない充実感に浸っていると、隣りを歩いていた冴えない顔した女の子が「ナナエルさんのお家って髪結いさんなの?」と訊いてきた。
うん、まあね、って答えると、後を歩いていた同じ小学校出身のクラスメイトが「知らないの? ナナちゃんのお母さんって超有名なんだよ」と、私の代わりに説明をしてくれた。
「すごーい! じゃあ俳優さんとか会ったことあるの!?」
「わたし、ナナちゃんのお店でアイドル見たことあるよ。ね、ナナちゃん」
「私、ナナエルさんのお店に行ってみたーい!」
きゃーきゃーと大騒ぎで、私を取り囲むクラスメイトの女の子たち。
こうして私はなーんにもしてないのに、あーっと言う間にクラスの人気者。ふふふ、人生楽勝。
「おらー! 列乱すなっていただろうがーっ!」
列の先頭の方から担任の声が聞こえた。はーい、と私を囲んでいた女子たちはバラバラと列に戻った。すると、さっきの隣りの女の子が「私、リコって言うの。あの……ナナエルさんと友だちになりたいな」と媚びるような目をして言ってきた。
「うーん、どうしよっかな。わたし、友だち多いからなぁ」
わざと勿体ぶってから「でも、いっか。特別だよ、リコちゃん」って、答えてあげると、リコは両手を胸に当ててピョンピョン跳ねて喜んだ。
なに? その喜び方? 自分、カワイイと思ってそれやってんの? なーんて口には出さないけどね。
やーれやれ、って気持ちで改めて列を見渡す。
あーあ、ロクな男子もいないけど、可愛い女子もいないなぁ。目が覚めるような美少女がいたら、友だちになってあげても良いのに。
また視線を感じる。振り向くと、太いセルフレームのメガネの女の子と目があった。メガネっ子は慌てたように視線を下げる。
痩せっぽっちで猫背気味。硬そうな髪を中途半端に左右に結んで、青白い顔でとぼとぼ歩く陰気そうな子。しかも時折、コンコンと咳き込んでいる。
ホントにいるんだ。こんな絵に描いたような「いじめられっこ風」な女の子。
それがルルちゃんだった。
私の人生でたった一人、本当の親友だった女の子。




