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コルトハイドの子供

作者: 灰撒しずる

 長い長い巻紙の読み上げが終り、金管の音が講堂を埋める。勇壮に響き渡る音楽の中、人々は順に裾を翻し、講堂から四方に伸びた渡り廊下へと引き上げていく。釣鐘型のマントを揺らした彼らは皆男だが、年齢にはかなりの開きがある。上は皺だらけの老人、下は、やっと十二を数えたばかりの子供たちだった。

 エイルス・ジャンハットは東にある建物へと進路をとる、最年少の一団の一人だった。緑色のリボンを首元に飾った先輩が先導する後ろを、遅れないようにとついていく、赤いリボンの第二十二期生たちの一人。

 大きめで長すぎ、肩がずり下がりがちのマントを押さえながらも姿勢を正して、顎を引いて前を見て歩く。金髪碧眼の華々しい容姿とは裏腹に、周囲の浮き立った空気とは違う少しばかり硬い雰囲気を纏っている。緊張しているのともまた違う、むすりとした雰囲気だった。

「エイルス」

 彼の背に追いついてきたのは、エイルスと同い年で赤い髪の少年だった。貴族らしく背中まで伸びた髪を、マントと同じ色の黒いリボンで纏めている。その後ろにもう一人、背の低い、エイルスよりもだぶつくマントを持て余した少年がいる。少々俯き加減で、栗毛の旋毛がよく見えた。

 ルナキース・ジル・スタバレーとヴェルトン・レクトラ・ケニーワース。二人ともエイルスの昔からの友達だ。

「イーブーリさん、かっこよかったよな」

 三人は横並びになって小声で話し始める。ヴェルトンが夢見る調子で言うのは、先程講堂で楽を奏でていた金管隊の先頭にいた花形のことだ。三人とも知り合いで、物腰穏やかな好青年、貴族の次男坊。今年この城を出て王都に戻り、宮廷楽士になることが決まっている才能の持ち主だ。

「こいつさっきからこればっかり。楽器もいいけどさ、才能ないと精々趣味じゃない? そろそろ俺らも仕事のこと考えないとさー……お前、授業なにやるか決めた?」

「とりあえず、歴史と経済と、政治」

 友人の言葉に頷いていたエイルスは、迷わずにあっさりと口にした。とりあえずとは言っているが、彼は既に教本を持ち込んでいるから、候補ではなく決定だ。友達相手の冗談でもなんでもない。

 顔を顰めたルナキースの横でまだぼんやりしたヴェルトンがうんうんと頷きながら呟く。

「僕、やっぱり音楽もやりたい」

 繋がらない話題に、ヴェルトンの頭が小突かれた。顔を上げた彼の視界に友達の呆れ顔が入る。

「お前はもうちょっとさ、こいつ見習えよ。先輩たちが言ってる面倒臭いの上から三つじゃん」

 趣味に傾倒したがる貴族の一人息子と、先輩たちの話をよく聞かされる社交界出入りの多い貴族の長男と。

 ベクトルは違えどらしい二人をちらと横目で見て、此処では珍しく貴族の子息ではないエイルスが首を傾ぐ。

「キースは?」

「やっぱり歴史は必須かなって。他はまだちょっと、検討中」

 ルナキースは頭を掻いて答える。彼も一応は授業の一覧に目を通してはいるのだが、あまりに数の多いそれに目移りしていた。なんと言っても、授業一覧は先ほど学長が読み上げた巻紙よりも更に長い。先輩たちからのありがたいお言葉も、色々と決めかねる要因になっている。

「あっ、僕も歴史やるよ。一緒に受けよう、授業」

 やっと話題に追いついてヴェルトンが言う。そうしていつものように友達の背中あたりを叩こうとしたが、柔らかく余分の多いマントの生地に阻まれて上手くいかなかった。

 うん、と先に頷いたのはエイルスで、ルナキースは迷っている。ヴェルトンと共に授業を受けること、ではなく、歴史の授業を受けるか受けないか、だが。

「あとは――……」

 エイルスが何か話の続きを言おうと口を開いたが、その声は彼自身予期せぬほど小さな声となった。大勢の靴音に紛れて分からなくなってしまう。ルナキースもヴェルトンも気づかなかった。

 横を向いて歩いているうちにとろとろと続いていた新入生の行進が更に遅々となって、三人は前にいた同輩たちにぶつかりそうになった。彼らは奥を見ようと背伸びしてみたが、前でも同じようにしている学徒が多いので無駄だった。

 聞こえてくる声の様子だと、どうも目的地の手前までは着いたようだ。階段と扉で人の流れが滞っている。

「皆入って説明聞いて! 私語は部屋に入ってから!」

 張り上げる声は先輩たちのもの。前から引き込み後ろから押し込み、新入生の引率を任された彼らは躍起になって、自分たちよりいくらかだけ小さい体を宿舎に詰め込んでいく。


 コルトハイド丘陵地帯、広大に青い草原が続くそこに、国境を臨んで聳える城がある。コルトハイド城、と土地の名前そのままに呼ばれるその城は、昔には王族の祖が住んでいたという。辛うじて記録の残る、昔の話だ。

 時は流れて現在、コルトハイド城は多くの男児たちが集う大きな学び舎となっている。主には貴族の子息たちが、時には民衆出で立身した政官や武官の子息たちが。国のため、何かを学ぶために遥々やってくるのだ。

 城から見下ろす、なだらかに続く丘の先。国境の奥にはこんもり深く生い茂る森が見える。

 森は城を、彼らを見守っている。



 城の設備や授業の概要、宿舎の規則を簡単に説明されて夕食を終え、新入生たちはやっと自らの部屋に落ち着いていた。

 三人一部屋。エイルス、ルナキース、ヴェルトンは纏めて三階突き当たりの部屋に案内された。彼らは「初対面の相手と同じ部屋にされなくてよかった」と安心する反面で、「多分父親たちが融通したんだろう」とも冷静に考えていた。彼らは親の付き合いで友達になった幼馴染たちだ。何事にも親の息がかかっているのに、そろそろ厭いてくる年齢でもある。

 しかしながら、そんなことをぐちぐちと言っている暇はなかった。新しい生活は忙しい。

 三人は夕食の味や量、近いところに座っていた子供たちの素性についてを口にしつつ、手始めに届けられた荷物を片付けることにした。

 寝台だけ衝立で区切られた部屋は、普段彼らが自宅で与えられているスペースよりは手狭だが、十二歳の子供には十分な広さがあった。これから六年、此処で過ごす事になる。過ごすうちには少し窮屈になるかもしれない。

「コレ、どこにしまったらいいかな?」

「どうせすぐ使うんだからその辺立てかけとけよ」

 床に座りカードとボードゲームを両手に、ヴェルトンが問う。答えたのはルナキース。彼は綺麗に畳まれたシャツを手に。エイルスは本棚に並べた本の順番を確認しているところだった。

 三人揃って重いマントを脱いでベストとシャツの姿になると、丈が合っている分、新入生らしい幼い印象は少なくなる。胸のリボンタイも外せばこなれた雰囲気さえある。しかし、それで中身が変わるわけではない。廊下を歩く時はともかく部屋の中では揃っていつもどおり、まだ彼らは子供のままだった。

 教本の類を前に考え込むエイルスの姿は大人びていると言えなくもないが、彼だってただ几帳面なだけで、今から本の内容について思考しているわけではない。本をタイトルで揃えるか、著者で揃えるか、はたまた大きさで揃えるか吟味しているだけだ。

「終わった」

 今は著者で揃えることにして、ぽんと背表紙を叩いて一区切りつけたエイルスは椅子に腰を下ろした。ああだこうだと言い合いながら物の整理に勤しんでいた二人が顔を上げる。

「やっぱりエイルスは早いなー。部屋きれいだもんな」

「にしたって早い」

 感嘆の声を上げたヴェルトンはようやっと玩具の類を手放して、筆記用具と教本をベッドの上に並べ始めた。彼はこのあたりでようやく半分。ルナキースにしても三分の二というところだ。

「最低限しか持って来てないから。早くしろよ。なんもできないだろ」

 エイルスは結局机の横に投げ出されているカードの束に目を向けながら言う。一人だけ早く終わらせてしまって、あからさまに暇を持て余した顔だ。

 頬杖ついた彼は、他の二人が片付けるのを待ちながら机の上に置いた授業の一覧に目を向けた。ぼうっとしたのは束の間、いくつもの丸印に挟まれたインクの滲みを見つけ、視線がその横の文字を捉える前に顔を下へと背ける。

 押しやられた授業一覧の端がくしゃりと曲がったのと同時、彼の視界の端には鮮やかな緑色が入り込む。

「俺が余分な物持って入ってるみたいな言い方するなよ。本でも読んでればいいだろ」

 その様には気づかず、レターセットの束を机に投げ出し、ルナキースは溜息を吐いた。鞄の隅に入れた覚えのない砂糖菓子の包みを発見してそれも机の上に置く。

 その奥にまた覚えのない、小さい、書き損じを丸めたような雑な包みを見つけて首を捻る。疑問符付きの顔は紙を開く数秒の間に顰め面になった。

「あーっ、やりやがった。今頃泣いてんじゃないだろうな」

「余分な物ばっかりじゃないか」

「俺じゃない、家族だよ」

 唇を尖らせ、紙の中から出てきた小さな指輪をベストのポケットにつっこむ姿にヴェルトンが笑う。玩具のような指輪の持ち主がスタバレーの姫――ルナキースの六歳下の妹の持ち物なのは明らかだ。

「あれ、エイルスなにそれ」

 一頻り笑ったヴェルトンがなにか言葉を求めて後ろを振り向くと、椅子にしっかりと座り込んだエイルスは机上の灯りに身を寄せて何か手を動かしていた。

 細い指が摘まんでいるのは紐の結び目。握りこまれているのは緑色の小さな巾着袋だった。

「式典の時、配られただろ」

 答えが返るとヴェルトンの視線は自分の腰に向く。エイルスが手にしている物とまったく同じ、手に隠せるサイズの袋がベルトに括りつけられている。

「お守り? 開けちゃいけないんじゃないの、それ」

「中身気になるし。危ないものは入ってないだろ。元に戻せば大丈夫だよ」

「その結び目じゃ解けないって。誰も開けられたことないって先輩たち言ってたし」

 ルナキースも振り向いて、二人の視線が集中している手の中を覗きこんだ。袋を閉じた紐は確かに飾るような難解な結び目を冬の蕾のように固く噤んでいる。そうそう解ける、そして戻せるものではないのは明白だった。

 ただ、エイルスは同年代の子供の中でも――大人と比べても飛びぬけて器用で、記憶力も優れている。やってできないことはない、と彼は確信していた。

 片づけ中の品々を手に隣へとやってきた友達二人も、エイルスならできるのではと思っている。学長が上げた一つの規則「袋を開けてはならない」も勿論覚えてはいるのだが、今この場に監視の眼は無く、二人とも中途半端に牽制をかけるだけだ。なんとなく、袋が開かれるのを期待してもいた。

 エイルスは暇潰しにしては真剣な表情で結び目と格闘している。かれこれ一分は経っているが、紐が解けそうな気配は微塵もなかった。

 片付けに戻った二人はちらちらと彼の手元を窺っていたが、とうとう立ち上がってまた傍に寄る。

「やっぱりお前でも無理じゃない? やめとけよ」

「無理じゃない」

 ルナキースが言うが、エイルスは頑なだった。揺れた灯りに眉を寄せつつ、指の腹で結び目を解し、爪で摘まみ――

「あっ」

 声を上げたのはヴェルトンだった。次には三人揃って口を開けて、ぽかんとしている。

 当のエイルスといえば、紐の端を掴んだまま固まっていた。

「開いた」

 呆気にとられての呟きは間抜けな感じになった。彼の手の中できっちりと袋を閉めていた紐は緩く横たわっている。結構長さのあるそれは、今は袋の口を縮こまらせているだけだった。

 三人は更に身を寄せ合ってその状態を注視して、やがて一斉に身を起こした。

「いやいや、開けちゃ駄目だって……というか、開くなんて。さすが?」

「僕が開けたのかな」

 ルナキースの間を持つ言葉に、エイルスがぼそりと言う。エイルスを挟んだ二人は揃って彼の顔を見た。

「はっ?」

「少しずつ解こうとしてたのに、なんか急に緩くなったみたいで……」

 エイルスだけが自分の手の中、袋をじっと見つめている。勿論袋は、紐は、だんまりで動く気配などない。ゆるりとした紐が虫のようにのたうつことなどなかった。

「怖いこと言うなって!」

 臆病な性分のヴェルトンは大きく、プライドの持ち合わせのあるルナキースは僅かに身を引いた。

 また一瞬静かになったが、構わず、エイルスは袋を摘まみ上げて裏返してみたり揺らしてみたりして首を傾げている。やはり何の変哲もない。

「……どうなってたか見えなかったから、戻せないし……」

 小さく呟きながら、エイルスは袋の口に手をかけないでいる。規則を破って開けてしまった上、結び目が戻せそうにないとあって怖気づいたのだった。ことは既に遅いのだが。

 そのまま時間は過ぎ――少し時間を置いて、エイルスの背を叩いたのはヴェルトンだった。彼の丸い碧眼はじりりと好奇心を滲ませて袋を見ている。

「戻せないなら、見ちゃおうよ」

 臆病で引っ込み思案な割に、好奇心旺盛なのも彼だった。

「囃すなよ」

「キースは気になんないの?」

 その足を軽く蹴ったルナキースに、袋を握りながら訊くのはエイルスだ。ヴェルトンの言葉にまた、袋の中身が気になるという思いが身を擡げてきた。彼の視線はどこか咎めるようだった。

 二種類の、印象の違う碧眼に見つめられて。ルナキースは一度ぐっと言葉を飲みこんだ。

「ならない」

「嘘だ」「嘘だね」

 きっぱりと返した言葉はしかし、二人の言葉に跳ねつけられた。

「……なるけど、見るなって言うし、誰も見たことないんだろ、駄目じゃん!」

 幼馴染ながらしっかりと本心を見透かしてくる言葉に詰まり、彼は首を振った。結われた赤毛の先がゆらゆらと動く。

 駄目駄目、と繰り返すルナキースに、エイルスは一度黙り込む。ヴェルトンもそんな友達の顔を窺って黙り込んだ。

 三度、部屋はしんとした。隣の部屋での話し声や物音が聞こえてくるが、場所と時間を弁えた坊っちゃんが多いのか内容が分かるほど明瞭ではなかった。

「……」

 反論に構えているルナキースをちらりと上目に窺って、エイルスは握っていた袋の口に手をかけ、一息に引っ張った。

「あっ」

「それは袋が開けなかったからじゃない? どうせ怒られるとしても、見なかったら損だよ」

「開いたら見たいよなぁ」

 紐よりも随分と簡単に袋は口を開けてしまった。ルナキースが止める間もない。

 エイルスはもっともらしく言って、わくわくと身を寄せているヴェルトンに同意を求める。ヴェルトンは頷き、更に同意を求めてルナキースを見た。視線は一周し――三人は早くなる胸を押さえながら、そうっと顔を突き出した。

「……何、だろう。これ」

 じっと十数秒分析し、呟いたのはエイルス。

 緑の小さな袋の中には、つやりと光る乳白色の粒が息を潜めていた。


「なんかの歯じゃないかな」

 エイルスが言う。

「根がない。穴も空いてないし、歯にしては大きすぎない?」

 ヴェルトンが顎に手を当てて訊ね、

「というか……なんで歯を入れるんだよ、これに」

 ルナキースが彼に同意を示す。

 三人の視線はやはり一点にまとまっている。ただし、それはもう袋ではない。

 机の上、火の横の明るいところに転がされた袋の中身は、白っぽくつややかで半透明で、形は歪にぼこりと膨らんだりした雫型。細めに尖ったほうと、ぼってりと膨らみやや丸く尖ったほうとがある、丸を摘まんで引き伸ばしたような形だった。確かに形は何かの牙のようでもある。

 子供の親指の先ほどの大きさでころりと転がっているそれは、下手をすればどこかの隙間に落ちて失くしてしまいそうだ。

「そういう生き物もいるかもしれない。……君たち、他の生き物の歯って見たことある?」

 二人の意見にううんと唸りながらも、エイルスはただでは引き下がらない。彼は政官の父と、その補佐をしている兄に鍛えられている身だ。他の二人より何かを言うときに強気で、簡単には自分の主張を翻さない。

 逆に返ってきた問いかけにルナキースとヴェルトンが顔を見合わせる。

「鹿とかなら」

「でもこれ尖ってるから、肉食べる奴じゃない?」

「狼とか?」

 森で鹿の髑髏を見たことがある、と言ったルナキースにヴェルトンが意見すると、エイルスが食いつく。頷くヴェルトンと彼の間に割り入って、ルナキースは首を振った。

「だから、何で狼の牙を入れるんだよ、これに」

 話を元に戻す発言に、確かにそうかも、とエイルスも考え直す。歯と決まったわけでもないのに何の歯か考えるというのは早すぎるだろう。

 眉を寄せ、難しい顔になって再び考え始めたエイルス。彼からの更なる提案が無いので、今度はルナキースが白い塊に指を触れさせて言った。

「大体、歯にしては透けてつるつるしすぎてる。宝石っぽくない? 真珠とか月光石とか、こんな色してる」

 感触を確かめて指を擦り、その指をピンと立てて。貴族の彼はよく見る品を、具体名も出し、どうだ、と。

「宝石、か……」

「でも、つるつるしてるのはいいとして、この形は?」

 言われた物を想像してエイルスが呟くのを、ヴェルトンが遮る。

「……僕のも同じだけど」

 言ってから自分の腰に手を当てて、袋を、外から念入りに触って形を確かめる。袋を作っている布がなかなか厚いので絶対とは言えないが、大まかには同じ形であることは確かなようだ。

 指摘を受けてルナキースも袋に手を這わせた。硬い感触はやはり同じような形をしている。

「あー……俺のも、多分、同じ形じゃないかな」

「全部同じ形の石なんてある?」

「加工してあるんだよ」

 ヴェルトンの言及に答えたルナキースに「なるほど」と納得した様子を見せたのはエイルスだった。

 が、直後にはまた納得いかない顔に戻って首を傾げる。友達二人を交互に見て、机の上の謎の粒に視線を戻した。

「でもやっぱり半端な形じゃないか? 宝石なら丸とか、光るようにカットするんだろう?」

 そう言われてはルナキースも言い返せない。確かに母親を含む貴婦人たちの持ち物は皆、楕円や、光を多く含めるように多面体に整えられている。このような半端な形になっているものは見たことがない。

「それになんか、石にしては冷たくないよ」

 エイルスの冷静な指摘を受けて、ヴェルトンは実物主義に机上のそれを持ち上げてみて言う。

「それは俺たちの体温であったまってるんだよ。ほら、石なら決まった意味とかあるし。お守りには向いてると思うんだけど」

 唇を尖らせたルナキースのそんな言葉は聞こえないように、ヴェルトンは手にした何かをじっと見つめていた。落とさぬように手の平で転がして、その感触を確かめる。

 突然閃いて、彼ははっとして顔を上げた。

「これ、種みたいじゃない」

「種?」

 聞き返す二人に頷いて、開いた手の上を示して続ける。

「やっぱりちょっと大きいけどさ、木の種はけっこう大きいし」

 ころりと手のくぼみに落ち着いているそれは、火の光を受け、少年の手の平の色を透かし温かく見える。とはいえ、元はやはり薄っすらとした白色だ。

 エイルスとルナキースは腕を組んだり天井を見上げたりして、なんとも納得できないという表情で友達の閃きを押さえつける。

「種はこんなに固くないよ。――形は似てるけど」

「透明っぽいしなぁ。似てないとは言えないけどさ……」

 それはどうだろう、と顔を見合わせて。結局、三人の意見は出揃ったがどれも今ひとつ決定打に欠ける。

「僕は種だと思う。埋めてみたら種かどうか分かるよ」

 ヴェルトンは何故だか自分の閃きに自信満々だった。今にも鉢を借りてきて土を入れそうな勢いに、ルナキースが慌てて口を開いた。

「やめろよ、種じゃないだろ――」

「おい君たち、まだ起きてるのかい。もう遅いんだから寝たほうがいいよ。夜は上級生や先生が見回りに来るからね!」

 ヴェルトンがびくりと身を竦ませたのはルナキースの声ではなく、ドアの外からの先輩の声だった。ヴェルトンだけではなく、ルナキースとエイルスも体を硬直させている。

 勿論新天地に興奮して騒いでいた部屋は他にもあり、上級生は隣、その更に隣の部屋にも声かけをして回っていたのだが、三人はそれに気づかないほどこの話題に熱中していたのだ。叱りつけるというよりはアドバイス、明るい声は部屋が静まるとあっさりと引き上げて、廊下を戻って行ってしまう。

 急に水を差されて、部屋は先程までとは違う空気でしんと静まり返った。途端、三人の中に規則違反の罪悪感が芽生え、彼らは誰からともなく視線を逸らした。

 三人とも、上級生の言葉どおりに就寝の準備をしようとからだの向きを変えてうろうろと動き始める。誰の動きも緩慢で、勢いはすべて削がれていた。

「それ僕のだから返せよ」

 エイルスが袋の中身を握ったままだったヴェルトンを小突くと、彼は慌てた早口で「ごめん」と言って手を差し出した。エイルスが受け取り机へと戻ると、空いた手を腰の袋にやって小難しい顔をしている。

 友達から受け取った体温で温かい謎の代物を見下ろして、エイルスはじっと動かないでいた。

 歯、宝石、種。考えてみるとどれも当たりのようで、間違いのような気がしてくる。自分の意見は否定されたし、二人の友達の意見にも「違う」と否定はしたが、少し時間を置くと「本当に違うのか?」と反する問いが湧き上がってくる。

 一体どれを選んで進めば正解に辿りつけるのか――埒の明かない、纏まりの得ない考えに頭を掻き、彼は机の上から袋を取って粒を奥へと押し込んだ。



 この国の歴史に関わる書物の最初は、すべて一言一句違わぬ一説で飾られている。

 初王の御代、忌わしき影、地の果てより来たる暗黒の軍勢が訪れた。

 死と病、恐怖と嘆きが国を埋め尽くした。

 人々は戦ったが、恐ろしき者たちの前には多くの屍が積み上げられるばかりだった。王は苦しみ、国は滅びに向っていた。

 しかしあるとき、王と人々は勇ましい咆哮を聞いた。その声は空に轟き、見よ、森は動き、暗黒の軍勢は打ち倒された。

 森を統べるのは如何なる大樹よりも大きく、如何なる山より重たく、如何なる者より優れた龍の長である。

 偉大なる龍帝に護られ、我らの国は生き永らえたのである――……

「皆よく知っておるように、偉大なる龍帝は今もこの国を見守っておられる。この城より三百西進すれば国境だが、そこから更に進むと、森がある。此処からも見えるだろう。あれこそが龍の森だ」

 豊かな白髭を蓄えた歴史の教師は、マントの下になった手をすっと西へ向けて言う。言葉は恭しく、声は、背筋を伸ばして息を入れた重たいものだった。

 歴史の授業は大きな講堂で行われるが、満員に近く盛況だった。ほとんどの席は埋まり、子供たちは窮屈そうにしながら教本を開き、ペンを動かしている。

 丘陵地帯に薄く広がる霧を幕に、和らいだ斜光は机を照らしている。それが友達の横顔を赤っぽく照らすのを横目に、ルナキースは退屈な基礎知識を耳に入れていた。

 エイルスとヴェルトンは真面目に教師のほうを見て話を聞いている。彼らも知っている――貴族など、教育を受けたことがある者なら誰もが間違えずに諳んじることのできる昔話を、熱心な顔で。

 ルナキースは口の中で半端な溜息を吐いた。

 一日の休みを置いて、授業開始の初日、そして二日目の今日。彼は政治、古典、地方史、音楽……といった授業をエイルスやヴェルトンと共に回っていたが、どれ一つとして面白みを感じられていない。不真面目にしているわけではないがどうにも身が入らない。

 将来、将来と考えれば、貴族の長男である彼の身の振り方などおおよそ決まっている。そのための話を聞いて頭に詰め込んで、ついでに人脈を作りながら六年過ごすのが此処での生活だと、彼は考えている。

 ほとんど決まった将来への文句を言うような相手を、少年はまだ作っていない。似た立場のはずのヴェルトンは分かっているのかいないのか趣味に興じて楽しそうにしているし、エイルスはエイルスで、決められたわけでもないのに当たり前のように政官になる気でいる。エイルスの兄が「もっと自由に生きればいいのに」と零していたのもルナキースは知っているが、言えるはずもない。

 遊ぶわけでもなく何かのために勉強するわけでもなく。どっちつかずな自分に、ルナキースは早くも愛想がつきかけている。その自分の横で何の迷いもなく、まっすぐ真面目に歩いている友達と比較すると、更に残念な気分になる。もし友達も同じように迷っているとしたら、安心もできるところだというのに。

 頬杖ついた彼はちらりと視線を下の方に下ろした。エイルスのベルトに留められた緑の袋が見える。紐は固く、しかし他の学徒たちとは違う普通の結び方で結ばれている。

 一度解いてしまった本人と居合わせた二人以外は、まだそのことに気づいていない。

 あの中身は結局なんだろう――と考えるにも、彼は飽きてしまっていた。なにせ手掛かりはない。人に訊けるものでもない。多分他の二人もそうだろうと勘繰っていた。

 鐘の音が響き渡る。頭上から降ってきたその響きに、転寝していた学徒たちが跳ね起きた。

「ふむ、いい具合だ。それでは今日はここまで。諸君、また次回」

 教師が読み上げていた教本から顔を上げて言う。トン! と勢いよく本が閉じられた音を境に、学徒たちは立ち上がり縮こまっていた体を伸ばし始めた。本を閉じる音も随所で起こる。

「……おい、立てよ。出れないだろ」

 今日の授業はこれが最後だ。誰もが帰ろうと動き始めた中、エイルスだけは荷物を纏めただけで座ってじっとしている。いつも手際のいい彼らしくない行動だった。

「僕、聞いてこようかと思う」

「何を?」

 ざわつく中でエイルスが言う。ルナキースの後ろで立ち上がったヴェルトンはきょとんとして、椅子と机の間に挟まったマントを引き抜きながら訊ねる。

「袋の中身がなんなのか。先生なら、知ってらっしゃるかもしれないだろ」

 エイルスの視線は、壁に広げていた地図や指示棒を纏めている教師の方に向けられていた。

「はあっ?」

 言葉を聞いて同じほうに顔を向けたルナキースとヴェルトンは大きな声を上げた。何人かの学徒が変な物を見る視線を向けながら、通り過ぎていく。

 その視線も、戻ってきた二人の視線も平然と受け止めて、エイルスは腰の袋を叩き癖のついた金の髪を撫でた。

「……図書館に行って、歯とか石とか、種も一応、調べてみたんだけど、図鑑を全部見ても同じものはなかったんだ。考え直したけど、もしかしたら人が作ったものかもしれない、ってぐらい。でもそうなると本で調べるんじゃ埒が明かない」

 彼は学徒が粗方退出するのを待っているのだった。此処の教師が、家庭教師たちとは違って学徒たちの後に出て行くのを知ってのことだ。

 冗談ではなさそうな口振りにルナキースが顔を顰めた。手にした教本の背を机にぶつけて、エイルスの顔を自分のほうへと上げさせる。

「お前、規則違反なんだぞ。わざわざ怒られに行くのかよ」

「だって、気になるだろ? 分からないことをそのままにしておくのは気分が悪いじゃないか。先生ならご存知かもしれないし」

 それがなんだ、という口調だった。

 平素大人たちに従って枠の中を往く彼は、こういうときだけはまるで融通の利かない頑固者だった。気になったことは調べないと気が済まない。立ち上がり、真っ向から友達の顔を見据えて威嚇する。

「別に君たちも来いとは言ってない。僕一人でも聞きに行く」

 主張の強い碧色の瞳、きっぱりと言い放つエイルスに対峙したルナキースは表情からして賛同しかねているのは明らかだった。彼の目には苛立ちがある。

 不穏な空気がじりりと周囲に滲んでいく。窓枠越しの朱い霧を背景に睨み合う二人。張り詰めた空気を壊せるのは本人たちだけと思われたが、

「君たち、質問でもあるのかね? そうでないなら早く帰りたまえ、此処は夕方冷えるよ」

「すみません、今出ますっ!」

 降って沸いたのは低く響く教師の声。はっとして二人を机の列から押し出したのは、思いもよらない友達同士の衝突に呆けていたヴェルトンだった。そのままエイルスとルナキースの腕を掴み、目を丸くした二人を講堂の外まで引っ張っていく。

「あ――」

 エイルスは慌てて振り向いたが、教師はヴェルトンの言葉に頷いて既に奥の準備室に引っ込んだところだった。呼び止めようとする彼を、ヴェルトンの腕が引いて揺らす。

 廊下に出たところで小柄な少年の勢いは失せ、ふうっと息が一つ吐き出された。彼は荒々しく掻き集めた、自分の分を含める三人分の勉強道具をそれぞれに押しつけ、ぽかんとしている二人の前で腰に手を当てた。 

「なにイラついてるんだよ。エイルスがこうなのは毎度のことだろ。エイルスも急すぎるんだよいっつも。もう、びっくりしたし」

 まずルナキースの腹を小突いて、空かさずエイルスの腕も叩く。しっかり持たれていなかった紙切れが一枚落ちたのを拾い上げて、もう一度押しつけ、ほら、と宿舎のほうを示す。

「とりあえず戻ろう。黙ってても仕方ないし、ここ寒いし」

 言いながら一人先に進んでいく。今度は誰の腕も掴まなかったが、引っ張っていく力のある足取りだった。エイルスが躊躇いながらも足を前に出すと、ルナキースもやや狭い歩幅でそれに続いた。

 最初の角を曲がる頃にはいつものように、三人横並びになっている。広い廊下ではぶつかる物もなく、授業の終わった今は擦れ違う人もなく。

「今日、これからパートの割り振りだったんじゃないの」

 気づけばいつものように真ん中になっていたエイルスが、左隣のヴェルトンを見て呟くように言う。音楽の――授業ではなく、趣味でやる集まりの、一月後の発表会のパート割り。今日の夕食前に、と語っていたのはヴェルトンだった。

 言われた彼は「あっ」と声を上げて立ち止まった。ルナキースも顔を上げて彼の方を見遣る。

「あー、でも、いいや。音楽は趣味だし。楽しいけど……あー」

 ヴェルトンはしばらく迷って視線をさまよわせたりしていたが、友達のほうへと顔を戻すとふっと息を抜いて肩を落とした。なで肩気味のその上を、幅の余分なマントが滑る。

 マントを直しながら言葉を探す彼に、また二人の視線が注がれる。

「ほら、人脈のほうが大事、だろ。二人ともよく知ってるじゃない」

「……なんだよ、それ」

「人脈って、もってまわった言い方だな」

 どこか自信ありげな発言に、ルナキースは呆れ顔、エイルスは無表情に首を傾げて応じた。

 冷たく見えても普段どおりのその対応にヴェルトンはやっと安心した。これで何日も会話をしないような酷い喧嘩にはならないと、彼は経験で知っているのだ。

 こほんと咳払いし、彼は立ち止まったその場の壁に背を凭れる。

「とりあえず。パートはどこでもいいし、行くにしても行かないにしても僕は今日一日二人と一緒にいる。放っといて取っ組み合いで喧嘩されたら僕も困るし――あっ」

 いくらか偉そうに、年長者のように言う。調子を取り戻したエイルスとルナキースを見ていたヴェルトンは言葉の終わりにまた声を上げ、にやりと口元を歪める。人差し指を一本立て、それを頭よりやや高いところまで持ち上げる。

「それで、僕は聞きにいくに一票」

「へっ」

 言葉に、間抜けな声を上げたのはルナキースだった。エイルスは無言のまま、目を瞬いている。

「一人だったら行かないだろうけどさ、エイルスとなら……だって気になるは気になるだろ。エイルスが調べても出てこないなんて、きっとすごい物なんだろうし。埋めて実験してみてもいいなら話は別だけど」

「ええ、お前までそんな……」

 味方側だと思っていた臆病な友人の、まるで冒険探検に浮かれるような熱のある発言にルナキースはたじろいだ。こうなっては雲行きは怪しい――というのは、彼が経験で知っている。

 トントンという音は靴音。エイルスは壁に寄り、ヴェルトンの横に並んでルナキースを窺った。浮かんでいる笑みは、悪童の言葉が相応しい、企みと大胆さを備えた少年の笑顔だ。

「多数決では、こっちだけど、どうする」

 こうなってしまえば自分に軍配が上がるとは、エイルスが経験から導き出した法則だ。三人は今までどおりの流れを踏み、今までと同じような行動に向っていく。

 個人、一人きりであれば大人しく真面目な振る舞いをする少年たちも、集まればこうだ。どのような場所でも、三人揃えば飛び込んでいけるような気になる。

「言ったとおり、僕は一人でも行く。ただし、これの正体が分かっても、他の奴には教えない」

「気になるよな。ちょくちょく袋見てたし。ほら、逃げるのか、キース!」

 渋くなった顔のルナキースに、二人の友達は容赦なく追い討ちをかける。ルナキースの中で、押し込めていた未知への興味が頭を擡げてくる。同時に、彼の唇はむっと尖った。

 こんな言い合いをしているうちに、授業中に考えていた諸々は彼の中からすっかり抜け落ちていた。少年の心とは、元より多くのことに囚われてはいられないものだ。目の前のことこそ、きらりと光って視界に転がりこんだ何かこそ、一番重要なのである。

 いつだってそうした物を取り出してくる友達に感じる嫉妬を飲み込んで、彼は一歩踏み出す。

「いって!」

「ばーか、調子乗るな。じゃあ行くぞ」

 ヴェルトンの頭を叩いて荷物を抱えなおし、ルナキースは体の向きを変えた。釣鐘型のマントの端がくるりと丸く広がる。

 最終的に決めるのはいつもルナキースの仕事だ。真新しい制服に包まれた、しかし見慣れた赤毛の目立つ背を見て、エイルスとヴェルトンは顔を見合わせてにやりと口の端を上げる。

「……よし、じゃ、連帯責任だ」

 再びエイルスは中心に納まって。言いながら指差す窓の外には、日が落ちてきた中にぼんやり影を浮かばせる、大人たちの部屋が集う北側の宿舎があった。



 夕方に入らずとも暗いところの多い城の通路には、火は欠かせない。三十路を過ぎたばかり、去年就任したばかりの若き教師は、年老いて目の悪い上司たちが戻ってくる前にと通路の灯りを点けて回っているところだった。

 全てを灯すわけではないが、全体的に照らすようにするにはそれなりに時間がかかる。今日も彼は長く、普通の建物より幅広い廊下を燭台片手に歩いていた。

 そんな灯り番の耳に足音が届き、顔はそちらに向けられる。後ろで纏められた金の髪が火の色を含んで揺れた。

「――君たち、何してるんだいこんなところで。此処から先は許可がないと入れないよ」

 自分の灯してきた灯りの中に立つ、予想よりはるかに小さな三つの影に、彼は少々面食らって手を止めた。火を移す手を下ろしてそちらへと歩み寄ると、いくらか緊張した面持ちの少年たちの胸元には赤いリボンが見える。教官はいよいよ目を丸くした。

 新年度が始まったばかりの今時期に教師の宿舎に立ち入ってくる新入りなどそうそういない。

「……先生にお話があって」

 迷ったのだろうか、と考える教師の考えを、少年の声が打ち消す。芯のある、声変わりの前にしては落ち着いた声音だった。

 彼らに歩み寄った教師はまじまじとその声の持ち主を見下ろした。自分と同じ金の髪に鮮やかな碧眼の、利発そうな子供。彼の左右、やや後ろには、目立つ赤毛にヘイゼルの瞳の少年と、栗毛に碧眼の少年が立ってじっとこちらを窺っている。

 教師は、そちらの子供二人には覚えがあった。正確には彼らの家に、だ。

 スタバレーとケニーワースの、と彼は心中で有名貴族の家名を呟いて、視線を手前に戻す。こちらの子供には覚えがない。特に上司から聞いた話はない。

「どなたに? ……授業の時じゃ駄目かい?」

「どなたに、尋ねたらいいのか――ちょっと分からないんですけど……授業には、関係ないので。でもどうしてもお訊きしたくて」

 誰に、と訊かれて、少年たちは途惑った様子で顔を見合わせた。数多くいる教師の中で、誰が答えを知っているものか。さっき思い立ったときに質問しておけば、こんなに迷わなかったのだろうが……

 その心中など察せはしないが、うろたえた様子は見るに明らか。若年の教師は見下ろしていた顔を笑みに変えて、一つ提案する。

「それではひとまず、私でもいいのかな」

「えっ――ええ」

 見知らぬ人の思いがけない言葉に、エイルスは目を丸くした。教師は笑みを深めて首を傾げる。


 アルセルト・リリー・レンバーンと教師は名乗った。二人いる医術の教師の一人で、病気よりは怪我の処置が得意だとも自己紹介する。名前を聞けば、三人も相手のことをおおよそ理解した。授業を取る気はなくても授業一覧で目にした名前であるし、なによりレンバーン家は社交界でも目立つ名門貴族だった。

 教師は学徒たちが三人部屋として使う部屋を一人で使用しているため、部屋の広さは十二分にある。が、勧められた椅子に座った三人は固く身を縮めていた。中央を陣取るのはやはりエイルスになった。

 アルセルトに応じる形で、三人も各々自己紹介をする。縮こまって座った割には慣れた口調だった。

「ああ、お兄さんとお話したことがあるよ。君がエイルス君か」

 うんうんと逐一頷きながら聞いていたアルセルトは緊張を解きほぐすように言い、棚から取り上げた小さな壷をテーブルの上に置いた。蓋を開けて、中の飴玉を三人に勧める。まずヴェルトンが手を伸ばして、ルナキース、エイルスが続く。

 白い小粒を自分も口に含ませながら、教師は再び首を傾げた。

「それで、先生へのお話というのは何かな。私が分かることなら答えるし、分からなかったら他の、分かりそうな先生を紹介できるよ。折角ここまで来たんだから言ってごらんよ。話すのは得意だろう、エイルス君」

 他の年老いた教師たちよりも軽い態度でにこにことしたその様子は、少年たちを安心させるには十分だった。怒っても怖くないルナキースの家庭教師に似ているところもあり、その連想がエイルスを助けた。エイルスは決心してベルトの横に手をかける。

 袋を外し、そのまま、手の中で紐を解く。

 それまでずっと弧を描いていたアルセルトの口元から力が抜け、半開きになる。ともすれば口の中の飴玉が零れ落ちそうな貴族らしからぬ表情ではあった。

 威勢良く振る舞ったエイルスの横で、ルナキースとヴェルトンがじっと事の成り行きを見守っている。こちらは間違って飴玉を飲み込みそうな、ぐっと詰まる顔をしている。

 エイルスだけが普段どおりの淡々とした様子で、ただし時間をかけて、袋の中から例の粒を取り出す。静かにテーブルの上に置かれたそれは、この場の皆が口にしている飴玉にも似ていた。

「これが何なのか、アルセルト先生はご存知でしょうか」

 飴の端を噛んで、ふうっと一息ついてから、エイルスは視線を上げて問いかけた。上辺を繕ってはいるが、彼は自分の心臓がどくどくと脈打つのを耳で聞いていた。その音の中で返答を聞き逃すことが無いように、注意深く顔を上げ周囲に意識を傾けている。

 部屋には沈黙が満ちた。ただ、それは外見に過ぎない。エイルスだけではなく、ルナキースとヴェルトンも自分の激しい心音を聞いていたし、アルセルトの意識は別の場所に立ち返り、いつかの会話を聞いていた。静けさの中で、彼らは暫く、様々な物と向き合っていた。

「規則違反はご家族に連絡を差し上げないといけないな」

 一箇所に視線が釘付けになったのは、時間にして十数秒。その沈黙を破ったのはアルセルトだ。

 独り言のようなその発言に、少年たちはびくりと肩を揺らした。真っ先に口を開いたエイルスを制して、彼は行儀よくしていた足を組む。

「開いたのは君かい? 他の二人は?」

 三人の顔がそれぞれに強張り、唇が引き結ばれる。また長い沈黙が降りるかと思われたが、今度は長続きしなかった。

「……僕です。彼らには、同伴してもらっただけです」

「いやっ、僕たち横で見てて――」

「連帯責任ってやつで、その、」

 真っ先に口を開いたのはエイルスで、それを聞いた二人が弾けるような勢いで口を動かした。ヴェルトンが言葉を縺れさせ、ルナキースが二の句を次げないでいるのを、エイルスが些か驚いた顔で眺めている。

 その三人を順番に見て、アルセルトは肩を揺らした。

「ああ違うよ、怒るのに訊いてるんじゃない。怒るかどうかはこれから考えよう」

 言いながら腕を伸ばして乳白色の粒を指先で取り上げる。暗い褐色の目を細めて、表情はまた先程のような柔和な笑みになった。

「これは、何か。――考えてみたかな? 思いつきで構わない。正解の子がいたら、連絡するのは止めにしてあげるよ」

 続く言葉に、少年たちは顔を見合わせた。

 彼らの視線は一度揃ってアルセルトに戻り、また仲間内に帰ってくる。二人の友達の間でゆるゆると首を振ることになったエイルスは、左右どちらでも促されて、覚悟を決めた。

 一度、味もよく分からないでいる飴玉の舌触りを確かめて。エイルスは自己紹介と同じ毅然とした面持ちで姿勢を正す。

 テーブルの上に戻された粒を見つめ、彼は口を開く。

「最初に三人で話し合ったとき……僕は歯だと思いました」

 言い切り、ルナキースに目配せ。

「俺は、宝石だと。月光石とかに似てるから、色が」

 受けたルナキースが頷いて発言し、

「僕は……種かな、と。二人には違うって言われたんですけど」

 残ったヴェルトンが言う。この場の誰より小柄な彼だが、緊張ゆえか声は逆に大きくなった。

 三者三様の答えを聞き、アルセルトは頷いて、さて、と姿勢を正した。上着の裾を直した手はすっと持ち上げられ、指先はヴェルトンに向けられる。

「ヴェルトン君、握手しようか。私は君と同じ意見だった」

 貴族らしい所作で彼は言葉を紡ぐ。ヴェルトンはうろたえ慌てて、おどおどと手を取った。軽く上下してから小さな手を解放するその姿を見て、落胆したのはエイルスだ。

「意見、ということは、先生もご存知ないんですか」

「いいや、幸いにも私は知っている」 

 些か批難めいた口調と表情に、アルセルトはまた笑ったまま首を振った。離した手もひらりとやって、愉快そうに飴玉を転がして肩を竦める。

「君は当たりを引いたよ。これを知っているのは先生たちの中でも極僅かで――ああはい、ただいま」

 そこでドアをノックする音が響き、アルセルトは言葉を切って立ち上がる。

 エイルスは慌ててテーブルの上に転がっていた粒を手に包み込んだ。横のルナキースはエイルスの膝の上に放置されていた小袋をマントの下に押し込む。何もすることがなかったヴェルトンはアルセルトの背を視線で追って、奥のドアを窺った。

「なんだ君か。君っていつも何かやってるときに来るよな」

 少年たちの動きも気にせずに開いたドアの先にこの土地では珍しい黒髪の長身が見えると、アルセルトは笑い混じりの言葉を吐きだす。

 体格と姿勢がよい、むすりとした強面の男。色味も雰囲気もアルセルトと対照的な彼は何も変哲のない地味なベストとシャツの姿だったが、腰には曲刀を佩いていた。

「偶然に文句を言うな。そもそも、お前が約束の時間に何かやっているのが悪い」

「約束……なんかあったね、そういえば」

 低く硬い声で言葉を返して、機嫌悪そうに腕を組む。威圧感を生むその姿も、効果を発揮できていないのは前にいる男が締まりのない顔をしているので明白だった。

「まあまあ、今日に限っては丁度いい。入れよ」

 相手の表情などまるで見えていないように、アルセルトは同僚の男を招き入れるのに通り道を開けた。男の眉が僅かに上がる。

「食事をしながらで構わないが――」

 言いかけた彼の口が止まったのは、部屋の中に幼い学徒たちの姿を見つけたからだ。背筋をピンとしたまま固まっている彼らの胸には、今年度の新入生、二十二期生の印である赤いリボンがある。

 エイルスは現れた教師を見て固まっていた。ヴェルトンとルナキースは眼が合う前に顔を下に向けている。

 驚いて動きを止めた男の背を押して無理矢理椅子に座らせ、横に腰を下ろしたアルセルトはパンと手を叩いた。驚いた学徒三人の視線が自分に集中するのを待って、教師は朗らかに口を開く。

「ラーグ・レッツホープ先生。彼と私は此処の同期で結構仲がいい。答えあわせは彼に頼もうか。彼は私より詳しいから」

「えっ」

「何の話だ。まだ三日目だと言うのに新入生を連れ込んで、」

 勝手に紹介まで済ませ、アルセルトは連れ込んだ同僚に話を投げる。息を揃えて驚き声を上げたのはその前に座らされた学徒たちのほうで、当人は驚くというよりは呆れている。武官らしく革手袋を嵌めた手で癖のある髪を梳いて、ラーグの青い目は横を睥睨した。

「くだらない話なら承知しない、かな? エイルス君、手を開きなさい。彼も怒らないから」

 緊張するのは直接睨まれたわけではない少年たちだけ。言葉の端はアルセルトが被せて取り上げる。

 催促され、エイルスはまた「え」と短く呟く。握りこんだままの自分の右手に眼を落として、アルセルトを、ラーグを見て戸惑いながらも、閉じていた指をゆっくりと開く。

 袋を開けるパフォーマンスもなく、部屋は煌々と明るいわけではない。少年の掌に乗ったそれが何なのか、ラーグはすぐには分からなかったようだった。

 不機嫌を増したかのような表情は手元を注視したが故。……「怒らない」との根拠がアルセルトの口約束しかない学徒を萎縮させるには十分なものだったが、無意識のものに過ぎなかった。

 少年たちが身を竦めて数秒、彼の目は薄く瞠られた。まさか、と音もなく唇が動く。

「開けたのか、袋を」

 その声音はやはり低いものだったが、怒気は含まれていない。純粋な驚きだけがある。三人の子供はほうと安堵の息を吐いた。アルセルトだけが微笑んでいる。

「はい、それで、これがなんなのか知りたくて、アルセルト先生にお聞きしたんですが」

 エイルスは頷き、今度こそ、と強い期待を持ってラーグを見上げた。震えそうだった語尾を叱咤してはっきりと言葉を吐きだす。

 蝋燭の光だけでも爛々と輝いて見える少年の眼差しと掌の代物を見て、ラーグは暫く黙っていた。物自体を確かめていたときより短くその観察を切上げて、彼は同僚を横目に見た。アルセルトは斜向かいに座る少年の掌で煌めく粒を眺めて愉快そうにしているだけだった。

 遠く鈍く、ぼんやりと鐘の音が響く。夕食の時間を知らせる鐘の音だった。

「……知りたいか」

「はい。どうしても知りたくて、来ました」

 エイルスに問いかけ、彼がもう一度はっきりと口にして頷くのを待って、ラーグはルナキースとヴェルトンにも視線を向ける。

「俺も」「僕も」

 二人からもはっきりとした返事が返る。その態度は少々怯えを滲ませてはいるが堂々としたものだった。好ましいものとして受け止め、ラーグは長く息を吐いてまた頭を欠いた。

「この子たち自身の考察は聞いたから、答えあわせだ。昔聴いた話を全部順番にしてあげてよ。覚えてるだろ?」

 放任なアルセルトの言葉に何か言うこともなく。彼は襟元をいくらか寛げて、エイルスの膝を指差した。

「それは歴史の教本だな。貸しなさい」

 差し出された分厚いそれを受け取り、ラーグは最初のページを開いた。

 歴史に関する書物の序文は、皆一様に、一言一句違わぬ一説で飾られている。教育を受けた者ならば誰もが違わず諳んじることができる、この地の昔話。

「〝初王の御世、忌わしき影、〟……この話は勿論知っているな――そこの君」

 本をテーブルの上に置いてページを押さえ、最初だけを読み上げてから、まるで授業のようにルナキースを指名する。

 不意打ちに丸くした目を瞬いたルナキースだったが、すぐにまともな思考を取り戻して口を動かす。

「偉大なる龍帝の話、です。三百九十年前の」

「正解。その龍帝に、これは関係ある」

 及第点、と短く言って、ラーグはさっさと本題に手をつけた。少年たちの目が見開かれ、視線は見慣れた本の見慣れた一説に吸い寄せられる。

 この城より西に三百。国境を超えた先にある森で、今も自分たちを見守っているという巨龍――昔々実際に起こった戦いの中、彼らの祖先である人々を護った龍帝の話。色褪せた物語はすでに人々の記憶にはなく、こうして本に記されるのみだ。

 腰を、ベルトにある緑色の小袋を軽く叩き、ラーグは続ける。

「君たちの――私たちもそうだが。コルトハイドの城を通っていった学徒全員が持っている袋の中身。これは、偉大なる龍帝の牙なのだそうだ」

「牙――」

 ルナキースとヴェルトンが、真ん中に挟んだ友達にそれぞれ視線を向けた。当人は呆けたように呟いて、また自分の掌に目を向けた。

「……つまり歯ということになるね。まずはエイルス君が正解」

 アルセルトが口を挟む。ラーグはそんな同僚を一瞥だけして、何か言葉をかけることもなく話を続ける。

「ここからは龍についての授業でやる話だが……いくらかは知っているか。出回るのは王族などの限られた者の間だけだが、龍の体の一部は宝石として珍重される。牙もその一つで、これなどは特に上質な品だ。どのような宝石にも勝る、力を持った珠玉だという」

「ということでルナキース君も正解」

「あ……」

 今度はエイルスとヴェルトンの目がルナキースを向く。熱心に話を聴いていた彼は少し前の自分の発言を今思い出したかのように、はっとして、二人と顔を見合わせた。

「そして龍はこの話にもあるように森だ。……君、龍はどのようにして生まれるか、聞いたことはあるか」

 そうして油断した所に捩じ込むように、ラーグが話を続けて問いを重ねる。今度はヴェルトンに。

 指先を向けられて慌てて背筋を伸ばしたヴェルトンは暫く困惑していたが、龍、と繰り返すうちに顔を明るくした。彼の家庭教師は龍に関しての知識も持ち合わせた優秀な教師だった。

「植物と同じで種から生まれる、と、聞いた事があります」

 はきはきと答えた彼に、ラーグは満足そうに頷いた。

「正解だ。龍は種より生まれ樹と育つという。そしてその種というのが、祖である龍帝の牙、つまりこれと同じ代物だとされる」

 滑らかに説明し、黒髪の教師は一息入れた。そこに言葉を捩じ込むのはやはりアルセルト。

「ということで、ヴェルトン君も正解としていいだろう。……君たち全員に合格点をあげよう。君たちは自分で考え、答えを導いた。確認は手間だったが、どれも間違いではない。素晴らしいことだね」

「お前はさっきから……自分で説明すれば良かっただろうが」

 正解と告げるときも表情を和らげない同僚の代わりに満面の笑みを浮かべて、彼は言う。上機嫌な様子につられることなく、ラーグは頭痛を覚えたように眉間に皺を寄せて溜息を吐いた。その横でアルセルトは首を振る。

 やっと謎が解け、お褒めの言葉まで頂いた少年たちはいくらか頬を紅潮させてそわそわと謎の粒――龍帝の牙、宝玉にして種――を眺めていた。彼らの心には三百九十年前の伝説が、大樹の如き龍帝の存在が、初めてその話を聞いたときのように鮮やかに生じている。国境を超えた先、西の森の姿が急に近しいもののように感じられた。

 不意に、エイルスが掌から顔を上げた。

「あの、どうしてそれが、袋の中に?」

「あっそうだよ」

「どうしてですか、先生」

 そのまま間を作ることなく声にすると、隣の二人も「そうだった」と顔を跳ね上げた。三人の学徒たちの勢いを受けて、二人の教師は姿勢を正した。

 双方を窺って間合いを読み――アルセルトが促す。やはり全てをラーグに押しつけ、語らせるつもりらしい。

「それは――」

 口を開いた教師は、身を乗り出す学徒を眺めて言葉を止める。

 血縁関係にない三人の顔立ちはけして似ていないが、眼差しには皆よく似た、強い探求の光が宿っていた。どこかで覚えのあるその顔は、熱心に授業を受ける学徒たちの顔であり、もっと昔、懐かしむ頃に窺い見た横顔でもある。少年の時分に見た、きらりと光る何か。

 ラーグはしげしげとそれを見、口元を僅かに緩めて、話の続きを飲み込む。

 手は、エイルスを示した。

「では、代表して、袋を開けた君に」

 微弱に過ぎる微笑を乗せ、ラーグはゆっくりと言葉を紡ぐ。きょとんとした少年たちと同僚の視線を受け、授業を終えるときのように、トン、と音を立てて本を閉じる。

「この城を出るまでの課題にしよう。今の話にヒントは含まれている。多くのものを知り、得た後ならば、答えも得ることができるだろう」

 歴史の教本をエイルスに差し出し、教師は言う。

 自分たちが昔に教師から貰った言葉を次の世代に引き継いで、彼は期待した。目の前の少年たちが成長し、この問いに答える日を。

 その顔を見つめていたエイルスは無意識に右の手をきつく握っていた。体温だけではなく仄かに温もりを宿した、偉大なる龍帝の与えた加護を。

 深く息を吸い、吐き、左手はしっかりと差し出された本を受け取る。

「はい。きっとお答えします」

 ぐっと、力を入れて笑んで、エイルスは頷いた。隣に座る二人の友達もエイルスを見て同じような表情でいる。友達に答えを託すのではなく、共に歩んで行こうという意思の現われた、少しばかり大人びた顔だった。

 これからこの城、コルトハイドで、国のために歩んでいく若者たちの面持ちだ。

「……さて、課題も出たところで本日はお開き、にしようか。あんまりのんびりすると食事の時間が終わってしまう」

 すべて見届け、まずアルセルトが立ち上がった。さっと踵を返して彼らに背を向け、ドアへと先導する。

「あの、もう一つ、聞きたいことが。ラーグ先生に」

 ぞろぞろ連れだって立ち上がりドアへと向う、その中で。エイルスは牙と本をきつく胸に抱いたままに声を上げた。声の調子はルナキースやヴェルトンでなくとも分かるほど緊張した、彼らしくないものだった。

 一斉に集まる視線に臆することなく、彼は立ち上がってなお距離があるラーグの顔を見上げる。

「剣術って、僕にもできるでしょうか」

 彼の二人の友達は今日最大の驚きを共有した。予期せぬタイミングでの、まるで予感していなかった友達の発言に衝撃を受けて固まっている。

 ラーグ・レッツホープは剣術と作法の教師だった。古くから武官を輩出する家に生まれた嫡子で、叙任を受けた正統な騎士でもある。同じく武官の家に生まれた子供たちや、騎士になることを望む貴族の次男三男に数々の技術と精神を叩き込む、コルトハイドの城でも少々特別な扱いされる授業を受け持っている。

 そして――エイルスはけして運動が苦手ということはないし、走り回って遊ぶのも好きな子供だが、合理的に物事を考える子供でもある。

 コルトハイドでは将来の目標、政官になるために必要な知識を中心に、他の物事への見識を深める。無駄を作らず重要な部分をがっちりと固める。それが普段の彼のやり方であり、それは本人も前々から口にしていることだ。ヴェルトンに誘われた音楽の授業もそれで断った。

 それが他の、知識を得るタイプの授業ならばともかく、まるで政官の仕事に関わってこない謂わば余分な剣術の授業に意欲を見せるとは。ルナキースとヴェルトンの驚愕を余所に、エイルスは真剣な表情でラーグの返答を待っていた。

 何度も丸を付けかけては取り止めた授業の一覧。父や兄には言えなかった言葉……式典で教師の姿を見つけて喉に詰まらせていた問いを、とうとう声に出して。

 エイルスが袋を開けたのは、一種の願掛けでもあった。何を選び歩めば、納得のいくところに辿りつけるのか。何を選ぶべきなのか。どうするべきなのか。誰も開いたことがないと聞いたその紐を解くことができたなら、答えも得られるかもしれない。紐を解くことができたなら――できないことなど、やってどうにもならないことなど無いのかもしれない。

「待っている」

 返答を、教師はあっさりと口にした。腰の剣に軽く手を添え、エイルスの肩は強く叩き、ドアへと促す。

 大きく肩を揺らしたエイルスは、どこか挑むような顔で教師を仰ぎ見た。じっと、何か射抜きそうなほど強い力をもった青い目が彼を見下ろしている。

「才は努力と共にあるものだ。やる気があるなら来い。明日の昼だ。間違えるなよ。――返事は」

「はいっ」

 目を瞬き、少年は力強く答えた。

 

「また何かあったら明日おいで。夕方にはきっといるから。暗いから気をつけて」

 三人の学徒を廊下に送り出して手まで振り、一旦部屋に戻ったアルセルトはラーグに向き直った。彼の口元には歪みに近い、堪えるような笑みがある。

「君、授業うまいねぇ。子供受け悪そうだと思ってたけど、見直したよ」

「お前こそ教師ならもっとしゃんとして見せろ」

 対するラーグはやはり不機嫌な顰め面だった。本気で批難する声色でぴしゃりと言い、肩を叩いてきた手を緩く振り払う。

 閉じられたドアへと青い目を向け、何か考えてから口を開く。

「あの子供は?」

「エイルス君。ロードイオ政官のご子息だそうだ。……ああ、さっきも言ったけど規則違反、叱るのはなしで。そういう約束したから」

 相手の言動を問いの他はどれ一つとしてまともに受け止めないまま、アルセルトは上着のボタンを順に留めた。この城で一般的な釣鐘型のマントではなく、体に沿うタイプの長衣は彼の目に似た色をしている。

「……叱れるわけないだろう」

「うん、自分も同じことやってると叱りづらいよな」

 返る言葉に笑いながら、彼はラーグのベルトに留められた小袋を指差した。結び目は見えないように括り付けられているが――取り外せばすぐに分かる。ラーグの持つ袋は、他の教師や学徒たちのものとは違う、遊びのない、きついだけの無骨な結び方がされている。

 袋が開かれたのは十六年前。ラーグが十五、アルセルトが十四の頃のことだ。彼らはエイルスたちと同じようにこの城で学ぶ学徒で、同じ部屋を与えられていた。

「これはお前が悪い」

 身支度する友人を待ちながら、ラーグはまるで独り言のように呟く。

「まさか忘れていたわけじゃあないだろうな」

「まさか。ちゃんと覚えてるよ。あれは一番熱心に聴いた授業さ」

 次いだのは問いかけ。髪を結いなおしながらアルセルトが答える。聞こえた溜息に肩を揺らしつつ、彼は閉じたばかりのドアを指差した。

「君に説明してもらったのは――開いた人間が説明するのがいいんじゃないかって思ったからだよ。それだけだ」

「開けさせたのはお前だがな」

「それでも開けたのはやっぱり君なんだから……まあ連帯責任じゃないか。潔くしろよ。この紐を解いて袋を開けたものは大成するってジンクスがあるっていうし、良い事にしようじゃないか」

 小さな燭台を手にしながら顎でも示され急かされて、ラーグは肩を竦めてドアを開く。

 古いドアの軋む音と共、廊下に出たところで会話は一度途切れたが、友人の発言の意味を辿っていた彼は目を瞬いて振り向いた。

「……ジンクス?」

 批難でも説教でもない純粋な疑問。聞き返した声に、横に並んだアルセルトが頷いて応じる。彼の指先は、今度は続く廊下の奥――学長の居室があるほうを示してくるりと円を描く。

 懐かしむ昔、二人に袋の中身について教えた教師の部屋だ。

「学長が言ってた。この前聞いたんだけど、実はあの人も開けたらしいね、好奇心に勝てず。何年かに一度いるんだってさ、開けてしまうのが」

 年老いた白い髭面を思い浮かべながら、アルセルトは愉快そうに言う。自分の腰にもある、これはしっかりと飾り結びを保った緑の袋を叩いて。壁に残る蝋燭に火を移しながら彼は廊下を進む。

 無意識のうちに、ラーグの手も袋に触れていた。龍帝の牙は今も袋の中で息づいている。子供の頃から共にあるその感覚は、今も色褪せず。

「学長は、学長だし。君が開けたお陰で私も途中で城を出ることなく無事授業を修めて、今や教師。あながち冗談でもないんじゃないかな、このジンクスは」

 アルセルトもラーグも、食堂に向って廊下を歩きながら同じ過去を思い出している。城を出る出ないの大喧嘩が捻じれた末に袋を開ける開けないの問答になり、結局開けてしまった昔の話だ。当時の問題児と優等生は肩を並べ、コルトハイドの教師となったが。

「彼らはどうなるだろうな」

 過去から立ち返り、先程の少年たちを思い出しながらラーグが呟く。その顔にはやはり微弱だが、確かな笑みが合った。

「――楽しみだな。なあ、先生」

 その横顔を盗み見る隣でからかうように紡ぎ、アルセルトは灯りを点け終えた廊下を眺めた。歩む先は明るく照らされている。


「お前、剣術やるの?」

「そんなこと全然言わなかったじゃないか」

「迷ってたんだよ」

 暗い廊下を急いで往きながら、ルナキースとヴェルトンはエイルスを挟んで浮き立った早口で言葉を紡いでいた。勉強道具を抱えた腕で、挟んだ友達をぐいぐいと押しやるように。

 その二人を逆に肘で押しやって、少しは開いたスペースでエイルスは荷物を抱えなおした。窺う視線を受けて一度黙り込み、ややあってまた口を開く。

「政官には必要ないし。……でも」

 ぼそりと呟いて前を向く。いつものようにはっきりした言葉の後、曖昧な調子で「でも」と足して――急いでいた足が少し遅れる。連れ立った友達の歩調も同じように遅れた間で、止まらないまま、エイルスは緩く前に進みながら言葉を探した。

「僕はずっと政官になるんだって、君たちにも言ってたけど……それはなりたいって言うより、なって当然だと思ってたんだ。なれって言われたわけでもないけど、父さんも、兄さんもそうだから。僕だってそうだろうって」

「うん」

 学徒たちの宿舎、もう皆食堂に赴いて人気のないドアの並ぶ間を、三人は同じ速度で歩いた。

 いつもとは違う、まとまりきらない言葉を吐きだし続けるエイルスに、横の二人がただ頷く。それに頷いて、エイルスは息を吸いなおした。

「でも、なりたいものはもっと別にある気もする。――色々やってみたいと思う」

 辿りついたドアの前で立ち止まり、彼ははっきりと口にする。色々、と大雑把な表現はこれまた彼には珍しいものだったが、今このとき、彼らの心情にはなかなか似合いの表現だった。

 色々。まだ知らぬ多くのものが、この城には転がっているのだ。少年たちの胸にはそれに対する期待と、向きあっていこうという真っ直ぐな意思がある。

「いいよな、六年悩めば」

 ルナキースが笑う。ドアの前で、なにか悪巧みでもするように三人で小さく向かい合って、あとの二人もその発言と声の調子につられて笑った。

 なんとも投遣りな調子だったのだ。「未来の自分は自分ではない」とでも言うような。

「俺もまだ何も決めてない。父さんの跡継ぐのも嫌ってわけじゃないけど、しっくりこないような感じで」

 実際、彼はそんな気分だった。友達も意外と悩んでいたことを知って心が軽くなっていた。

 未来を見据えて動くのもそれは大事なことではあるが、今をひとまず充実させなくては何にもならないのだ。見据える未来が決定するまでは、どっかりと腰を据えずに飛び回ってあれこれやってもいいだろう。

「僕もまだだけど? だって此処さ、家で勉強するより色々やるんだよ。何が見つかるかわかんないし、今決めると後悔するかもって、先生も言ってたしさ」

 ヴェルトンも同意を示して、ハイ、と手を上げながら言う。先生、と言ったのは此処に来る前に教えを乞うていた家庭教師のことだ。

 さっぱり、含むところのない発言にエイルスとルナキースは顔を見合わせて、揃ってどこか神妙な顔になった。

「……君って、考えてないっていうけど意外と考えてるよね。今もさ」

「それ褒めてる?」

 うん、と答え、エイルスはドアを開けた。三人の部屋は出て行ったときと同様の状態で彼らを待っている。

「僕、生物の授業とか楽しみなんだよね。あとうん、医術もやってみるかな」

 それぞれ机に向って勉強道具を置きにいく。図書館から借りてきた読みかけの本が開きっぱなしになっているのをちらと見ながらヴェルトンが言うと、きっちりと置いた物を整えていたエイルスが顔を上げた。

「剣術は?」

「僕は興味ない。痛そうだし大変そうだし、ラーグ先生ちょっと怖いし」

「……キースは?」

 返ってきた包み隠すところのない拒否の言葉に呆れながら、レターセットの散らばった机を整理するルナキースを振り返る。彼も手を止め、天井を見上げ考え始めたが、

「俺は――ああいいや、とりあえず食事先だよ。腹減った」

 解れた髪に手をやって、首を振った。

 育ち盛りの体が空腹を訴えている。時間も時間だから、あまりのろのろとしていると食事にありつけなくなってしまうだろう。人数の多いこの城では食事の時間はそこそこに長いが、それでも晩餐会のように長々としているわけではない。

 それに、明日も学徒たちには授業がある。課題、入浴、多くの考え事……就寝までやることは多い。遅寝だって避けるべきだった。

「同感」

「よし、行こう」

 急いで髪を結いなおすルナキースにエイルスとヴェルトンも賛同して、身繕いや整理もそこそこ、揃って慌しく部屋を出る。

 三人は取って返し、食堂へ向けて走り出す。それぞれにきらりと光るものを持って。

 森は城を、彼らを見守っている。三百九十年の昔から、今もなお。


 

 (みどり)の王の御代、再び忌わしき影、暗黒の軍勢が地の果てより訪れた。

 古き戦を繰り返すように、また多くの屍が積み上げられ、死と病、恐怖と嘆きが国に触れた。

 人々に王の言葉が発されると共、祈りにそうように、勇ましき咆哮は轟いた。

 見よ、再び森は動き出した。


 四百年の時は長く、偉大なる龍帝は年老いていた。西の最果てより湧き出た多くの影の前に、傷つき、苦しみ、膝を折った。多くの龍たちが薙ぎ払われ土に還っていく中で彼は呻いた。天高く茂る木々の狭間で終わりのときを予感していた。

 闇を煮詰めたような黒い影の先陣が、低い唸りと劈く絶叫で体を震わせながら、木立と龍の死体を駆け抜ける。古に自分たちを打ち倒した龍帝の頸を叩き潰さんと、右の大槌を振るった。

 龍帝の牙よりも早く、白銀の剣が闇を引き裂く。断末魔の大音声。

 巨龍は潰れかけた目を開いた。大きな琥珀色の瞳に、泥と草に汚れた人の姿が映る。

「お守りします、今度は、僕らが」

 白銀の剣を持って立つ若い騎士――汚れてなお眩い金の髪をした青年は息を切らしながらも、はっきりと告げた。

 彼の他にも、大勢の人がいた。一様に武器を手に、遠方より来たる黒い邪悪な影を見据えている。四百年の昔に自分たちの祖先を襲った暗黒の軍勢、死を振り撒く恐怖の権化を、今度は自らの手で退けるべく。

「貴方が、我々と共にあったように……我々も貴方たちと共にある!」

 何人かが、立ちはだかるように前へと進み出た。傷ついた龍たちの体に寄り添い、流れ出る蜜のような体液を押し留めようと、手当てを施す者もいる。絶えようとしていた森の命が息を吹き返すのを、龍たちは感じていた。

 偉大なる龍帝は立ち上がり、ざわりと大樹の体を動かした。枝と葉が囁き、森の全ての樹、龍に伝わり、音は広がっていく。見よ、森は――……

 身を包み込むその音の中、コルトハイド騎士団長を拝命した男が剣を持ち上げた。彼の剣もまた、眩いほどの白銀だった。

「今度は、我々も祈るだけではない」

 低く絞り出した声は威嚇するようだった。彼の青い目は迫り来る影を既に射抜いている。横に立つ若き騎士の肩を強く叩き、剣を握る手を、高く上げる。

 剣の切っ先が天を衝く。彼らの握る剣は一様に、白く、力強い光を帯びている。それは偉大なる龍の加護だった。

 龍の牙を芯に入れ、子供たちが鍛えた剣は折れない。剣だけではない。彼らの精神にも同じように、龍帝の牙が、輝く宝石が、希望を抱いた種が中心に据えられている。

 龍の加護を得た彼らの心は折れない。コルトハイドの城で龍に護られ学んだ子供たち、誰もが、強く、広がる闇に閉ざされた空に挑む眼差しで立っていた。

 金の髪に碧い目の若い騎士もまた、剣を強く握り締めてそこに居た。

「四百年前の借りを返すぞ。今度こそ滅ぼしてくれる! 進め、コルトハイドの子ら!」

 人々は龍のように吼え、龍の咆哮がそれに続いた。

 森は動き出した。彼らは巨大な――偉大なる龍帝よりも大きな一頭の龍のように、立ち上がった。

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