第4章
〜第4章〜
「あ、いた!」
改札口を出たあたりからうなじに塩辛い感覚が流れる。
見上げるまでもなく太陽が追い詰めにかかる。
虫眼鏡のようにじり、じり、と黒い毛並みを散らしていく。
あぁ、美容院に行きたい。
手を振る里佳の後ろで、ショーウィンドウに食い入る。
もう、ナオの好きな「おかっぱ」ではなくなっていた。
「おかっぱ」の毛先をくるりと一周して撫でるのが好きだと言ったナオ。
ナオが触ったままの毛先がまだしぶとく残っている。
二の腕が痒いな。いったいどこが根もとだったんだろう。
「おっそいじゃんもー。けっこ待ったよ。」
眞依が可愛らしげにぷくっと頬を揺らす。
本当は私が出るのを少し躊躇ったから遅れてしまったのに
里佳はやっぱりそんなことを一言も話さない。
里佳らしい、そして、それにわざわざ口出ししない私も、私らしい。
真蔵は相変わらず壁に斜めって太陽と友情を確かめ合っている。
夏が似合う男がほんの少し魅力的に見えてしまうのはどうしてだろう。
似合いすぎるものが似合うのと、似合わないものが似合うこと。
いったいどちらが好ましいことなんだろう。
ナオなら、何と言ってこれに呆れてくれるだろう?
「ここからバスに乗るんだよ。ひとり300円ね!」
眞依は大きく振り返ると立てた人差し指を時計回りに揺らせた。
いっせいにごそごそ、ちゃりんちゃりん音が散らばる。
「貸して」「いいよ」「あたしも」。あちこち散らばる。
けれどバスはまだまだ来る気配はなく、私たちは待った。
「ぼうっと」待ったのは私だけだったかもしれないけれど。
夏の暑さにというよりも、空の高さにぼうっとしてしまった。
あまりに突き抜けてしまった空には、たまに何かが見える。
「ほんと?」
「うん。ほんと。」
「うそだよそんなの。だって雲もないんだよ?」
「ないから見えるんだよ。」
「空以外、何もないじゃない。」
「空があるよ。」
「それは、そうだけど、たまに見える何かって、なに?」
「見つけたらまた訊いて。」
見つけたらまた。見つけたら。
ナオにそう言われて初めて、下を向いて歩くのをやめた。
いつもいつも、下ばかり向いていて親に叱られていた私。
「下を向いて歩かないで、背筋をぴっと伸ばす!さっと歩く!」や
「下を向いて歩いていたら不幸になる」とかいうこと、
私が普段信じてしまうジンクスじみたことを散々言われていたのに
ずっとずっと直らなかった。前を、ましてや上を向いて歩くなんて。
ナオには一言もそんなこと指摘されなかったのに、ぱりっと直った。
まるで、魔法をかけられたかのように。
バスがきた。
全員がぞろぞろとバスの前方から乗り込む。
「さいたまスタジアム」と書かれたフロントガラスはぴかぴかしている。
試合開始の2時間前から運行、とも記されていた。
道理であの時間から待ってもすぐにはこなかったわけだ。
バスの中には私たちの後ろに列を成していた子供たちもわらわらと集まる。
お菓子を開けようとして、お昼ご飯は食べたでしょう、と窘められたりして。
席が満席になったところでバスは静かに走り出した。
隣の席には、斉藤先輩が乗っている。あまりおしゃべりをしない人。
おかげでスタジアムに着くまでの20分、頬杖を外す機会はなかった。
窓の外はあかるくて、揺れる若い稲穂がみずみずしかった。
流れていくリアルな景色が、それでも私を懐古に連れ去って行こうとする。
今朝から何度もそんなふうに連れて行かれそうになっては振り切り、
振り切っては連れて行かれていた。
ナオに会いに行く。
その禁忌を犯す恐ろしさと美しさは、もはや体現すらできない。
ちっとも様相を違えない宇宙のしっぽには、何が映るというのだろう。
思い切り睨んでみたけれど、やっぱりそれは空だった。
「やっと着いたね!長かった。」
「試合は何時からだっけ?」
「キックオフは15:00。もう開場するかな。そんなに待たないよ。」
「そっか。じゃあちょっとジュースでも買いに行って来るよ。」
里佳がこちらに走ってくる。
目配せをして、まずは打ち合わせよ、と言う。
本当は一度すら試合を見るなんていう予定はなかったのだけれど
角が立ってもいけないし、一回くらい見てみるのもいいかも、と思って。
だから初日の今日はみんなとおとなしく同じ行動を取ることにした。
まだ、何の準備も、心構えさえできていないのだから。
「蓉、オレンジ?」
「うん。」
「すみません、オレンジとカフェオレ。…なんかたべる?」
「ううん。」
言葉少なに里佳からオレンジジュースを受け取る。
まだ今なら間に合う。
みんなと一緒になってチームを応援して、勝ったら泣いて負けたら地団駄。
あとはホテルにチェックインして里佳とお風呂に入って、それから・・・
「まず、教えて。」
「え?」
「良くんが昔住んでいたっていうおうち。」
「・・・が?」
「私ね、蓉に早く会わせてあげたくていろいろ調べたの。」
「・・・うん。」
「けど、そんな住所なんてどこにもなかったの。」
「どういう、こと?」
「良くんは、ウソをついていたことになるの。」
「そんな、違う。ナオは嘘なんかつかない。ついたことないわ。」
「ううん、蓉。そういうことを言いたいんじゃないの。」
「じゃあなに?」
「きっと、失踪のカギが隠されているんだと思うの。そんな気がするの。」
「昔住んでいたうちだけが頼りだったのに、存在すらないってわかっても?」
「うん。ないことがきっとヒントなのよ。」
「でも、もう手がかりなんかないよ・・・」
「手紙があるじゃない。持ってきてるんでしょう?」
「でも・・・でもあれは・・・」
「今は他人の手紙をとか、そういうこと言ってる場合じゃないでしょう?」
「ううん、あれだけはだめなの。」
「どうして?」
「ナオに会って、ナオがいいよって言ったら、その時読むの。」
「何言ってるの。それがないと会うことなんてできないかもしれないのよ?」
「いいの。・・・ううん、良くないけど、でも、勝手には読めない。」
「・・・どうしても?どうしてもだめなの?」
「うん。だめ。」
「はぁ・・・結局、蓉は蓉、か・・・」
「ごめんね。心配ばっかりさせて。」
「うん。それが私の役目なのかも!」
行こう、そう言って里佳は立ち上がる。
後ろ姿をとぼとぼと追いかけながら、里佳に謝った。
ごめん、本当にごめん。何度も、何度も、心の中で。
肝心なことを声にして出せない悪い癖は、まだ直らない。
あの時だって、それさえできていればなんとかなったかもしれない。
「待って」、「行かないで」。
何だって言えたはずなのに、凍った背筋に総てを支配されて
何もかもが時間を止めて、けれど、ナオだけはするりと消えたのだ。
後ろ姿さえ見ることはなくて、ただただ、夜が明けていったのだ。
あの朝。
空白のような夜。
だから私は朝には目覚めず、夜を埋めようと血眼になる。
夜は恐い。
朝は嫌い。
こんなに激しい嫌悪を抱くものがこの世にあるなんて
それこそ嫌悪すべきことであるのに、それでも呪縛は解けない。
魔法使いって、呪詛もできてしまったりするんだろうか。
試合は、思ったより感情を動かされるものだった。
選手の顔も名前も知らないし、サッカーのルールさえわからなかったけれど
それでもみんなが必死になって限られたフィールドの中を駆けていた。
周りで観て応援している「12番目の選手」と呼ばれているのだという観客も。
普段感じることのできない熱気と歓声に、圧倒され、飲み込まれた。
けれどそれは明るい感覚だけではなく、恐怖という感情をも得させた。
流されてはいけない、と、どうしても身構えてしまいそうになった。
知らない世界、理解できない想い。
もしかしたら、ナオもそんな恐怖を私に抱いていたりしたのだろうか。
いや、あったとしたら自分の方かもしれない。
いつだって、ナオの一挙手一投足に踊らされていた。
そしてそれを、望んでいた。
そのことを、恐怖だと感じていた。
ナオにはそれがわかっていたのかもしれない。
確かめなくては。
肩をぽん、と押されてようやく手を振る選手たちの顔が目に入った。
どちらが勝ったにせよ、きっとみんな頑張っていた。
よく観ていないから感情の記憶しかないけれど、きっと素敵だった。
確かめに行かなければ。
眞依は泣いていた。
感動したのか、悔しいのか、思いっきり声を上げている。
声を、上げている。
行こう。
チェックインを済ませると、各々夕食の時間を与えられた。
里佳は、私を誘わなかった。
今がその時だということだろうか。
いや、迷っている暇はない。
せっかくのチャンスは、しっかり掴み取らなければもったいない。
行こう。
久しぶりに握りしめた手をドアノブにかけたところで、真蔵が目に入った。
何か言いたげな、けれど言うつもりなんかないような、静かな瞳。
多分、私も同じ瞳をしている。
そして、同じことを考えていたのだろう。
私と真蔵は、言葉を交わすことなく揃って右足を踏み出した。