第2章
〜第2章〜
「ただいま。」
「おっせぇよぉぉもぅすげー腹減った!」
「あ・・・そうだった。ごめん。」
家に帰ると、啓太がギラギラと怒っていた。
啓太は3つ下で、本当なら1年生なのだけれど、予備校の1年生だ。
先月私の部屋に転がり込んできた、かわいくない弟。
ただでさえ気力がないのに、余計に5月病が増長しそうなこの同居。
どうしてうちはお金持ちじゃないんだろうって、心底思った。
弟じゃなかったら、男の人となんか絶対住みたくない。
「もぉさぁぁ、マジでオレめっちゃ待ってんだよ?」
「わーるかったってば。」
「飲み会1次会だけだからとか言ってこんな時間だしさぁぁ。」
出て行く前にご飯のことを訊かれて、節約、と思って作ると言った。
そんなことすっかり忘れていたのは悪かったと思うけれど
自分でもまさか午前様になっているなんて思わなかった。
そりゃ、怒るのは当然かもしれない。
もう一度だけごめんと言って、さっと親子丼を作った。
姉弟で食べる親子丼って、なんか不思議だと思う。
いつもどうしても、不思議な話になる食べ物なのだ。
「もー、うまいから許してやるけど勘弁しろよー?」
「うん、ごめん。ちょっとぼーっとしてたら時間経っちゃった。」
「相変わらずだなぁ・・・気をつけろよな。まだ失恋中なの?」
「ん。まへ。」
ほわっと熱いとろとろ卵が、返事を曖昧にしてくれた。
まだ良く掴みきれていないから、ちょうど良かった。
啓太は昔から脈絡がなくて、けれど場違いでもなく話す。
頭の中にいっぱいの事件があって、だから脈絡がなくなるけど
それでも外れてしまわないのは、心が優しいからだと思っている。
啓太は、いつだって私を直球で心配する。
「良さん、まだ見つからないの?」
「ん。相変わらず。」
「もう、一年になるね。」
「そう、だね。いちねん、かぁ。」
「姉貴もさぁ、わざわざ留年まですることなかったんじゃないの?」
「浪人してる人に言われたくないね。」
「留年は就職に響くんだってさー?」
「就職なんかしないもん。」
「じゃあ何になるの?」
「ならないよ。私はずっと、私のままだよ。」
「それで食ってくの?すげぇ。」
最後はこう。いつもこう。啓太の「すげぇ。」で終わる。
たいてい、どこもすごいところなんかない。
けれど、小さい頃から啓太の「すげぇ。」がとても好きだった。
どうしてか、元気が出る。
けれど、ナオが消えてしまったことで留年したのは事実。
ナオのせいというわけでは全くないのだけれど
幸いナオが休学届を提出したという事実を耳にしたから。
退学届ではなく。
「いつかオレにもわかるのかな。」
「なにが?」
「大切な人を想う気持ち。」
「気持ち、かぁ…。」
「うん。オレにもさ、姉貴みたいに一生ものの人、できるかな?」
「なんで、一生ってわかるの?」
「だって姉貴、かわいいもん。それって、すげぇよ。」
どきりという音を聴いたのは、ひさしぶり。
「へーぇ、かっこいい!」
「実の姉に向かって言うことじゃないと思うんだけど…」
「いーぃよーぅ。だって、蓉が心から恋してる証拠でしょ?」
「こ…恋っていうのかなぁこれは。なんだかもう思い出みたい。」
「それでも、だよ。良くんしかだめなんでしょ?」
「結婚、できないだろうねぇ、私。あはは。」
「見つかると、いいね。早く。」
明日はどうしても朝起きてテストを受けに行かなきゃいけないから
里佳の部屋にお泊まりにきた。来て、女の子の会話をしている。
私と里佳の二人でいると、どう転んでもナオの話になるけれど
里佳はそれを難と言うことなく、元気付けるでもなくいてくれる。
もちろん、啓太と不思議に話すのも大好きなのだけれど、啓太は男。
弟と言えどわかってもらえないことだってたくさんある。
里佳がお風呂に入ると言うので、窓を開けて空をみた。
もう少ししたら梅雨空に変貌してしまうだろうに、とても美しい。
昨日啓太に怒られる直前に彷徨った街と同じとは思えないほどに。
今の季節が一番素敵。
確か、一年前まではそう思っていた。
「空いたよ。はいる?」
「うん、ありがと。今行く。」
里佳の部屋はお風呂が広いのが一番好きなところ。
広くて、きれいで、とても可愛い。まるで、里佳みたいだ。
シャンプーはCMで流れてたりしないなんだかいい匂いのするものだし
入浴剤はアプリコットソルトとかいう甘いんだか辛いんだかのもの。
けれど、私がその中にいてもちっとも可愛くなんか思えない。
鏡を覗き込んでみても、啓太の言っている意味が全然わからない。
里佳のような娘が可愛いというのは当り前で納得がいくことだけれど
今の私が可愛いなんて、どうして言えるんだろう。
甘くてしょっぱいお風呂は、少しオレンジ色に輝いている。
ナオがいなくなったあの日に、それは良く似ていて。
けれどそれは、ナオと初めて会った日にも良く似ている。
3年と4ヶ月と7日前。
「ばっかだなぁ。ほんと、ばっかだなぁ。」
21回目の失敗。
肩越しに振り向くと、ひょろひょろっとした優男が立って見ていた。
髪の毛はふわっとしていそうなストレートの黒髪で、きれい。
背を伸ばしたい私なんかの気持ちはちっともわからなさそうな長身。
けれど瞳は小動物みたいにきらきらしていた。
そうやって不覚にも見とれてしまっている間に、ぽん、と頭で音がした。
何週間も見るためだけに通って、10日前からやっと決め込んでいた。
一日2回まで、と、自分に言い聞かせて。
なのに、見るともう乗っている。欲しくて仕方がなかった、小さなそれ。
どこのゲームセンターにでも置いてあるような、ふつうの猫。
お団子になってしまったりしている、ただのぬいぐるみなのだけれど。
あんなに頑張ったのに、いつのまにか乗ってしまっている。
「何、するの。」
知らない人を睨むのは慣れてなくて、けれど、
知らない人だから、遠慮なく恨めしそうに見上げて言った。
欲しかったのに。欲しかったのに。
「欲しかったのに。」
「だからほら。」
「自分じゃないと意味がないの。取りたかったの。絶対。絶対。」
UFOキャッチャーで取れるぬいぐるみの原価ぐらい知っている。
けれど、それでもどうしても欲しかった。自分で欲しかった。
あっという間に、本当に魔法のようにぱっと頭に乗っている。
瞳だけもう一度、夕陽を映さないように下からぎゅっと見た。
魔法使いに違いないと疑える瞳を、思いっきり。
ただの、ナンパだったのかもしれない。
ただ単に、不器用な女をからかいたかっただけなのかもしれない。
けれどちょうど大学受験が終わった頃で、発表を待っていたから
私は飽きもせずその小さなゲームセンターに通った。
いつかまた、魔法使いが来るんじゃないかと思って。
毎日毎日、ドキドキしながらぐるぐると時間をつぶした。
でも、それから一度も来ることはなかった。
ちゃぷん。ちゃぷん。ちゃぷん。
オレンジ色の、少しとろっとした液体を上から弾いてみる。
掌に残る感覚が、懐かしいような気がした。
ちょうどナオと手を繋いだ感触と温度。
ちゃぷん。ちゃぷん、ちゃぷん。ちゃぷんちゃぷんちゃぷんちゃぷん。
やめられなくなってしまって、里佳が心配して見に来るまで
ずっとずっと、確かめるように、思い出すように弾き続けた。
けれど、あまりに長い間そうしていたものだから
気が付いたら、すっかり温かくなんてなくなっていた。
そして、ほんのうっかり、ナオが消えてしまった日を思い出して
里佳に返事をしてしまった後もしばらく、お風呂で震えてしまった。
気持ちが、オレンジ色のとろとろに、しとしとと混ざっていく。
まだ、こんなにも想っていた。
もう、こんなにも恋しがっている。
解けない魔法をかけて消えた、罪深い魔法使いを。
おかげで、受けたテストはボロボロだった。
もともと朝起きることを必死でやめていたのを解除したのに。
大事なときに限って、というのが昔から確かにあったけれど。
「どうだった?テスト。」
「撃沈だね。来年取るかなぁ、また。」
「そんなこと言ってると、もう一年延びちゃうよ?」
就職も決まって将来安泰の里佳に言われてしまうと、脅迫もひとしお。
この夏が過ぎたら、私も就職活動をするんだろうか。
みんなが同じように同じものを目指すあんな世界に、入れるだろうか。
少し考えて、おととい啓太に言わしめた言葉を思い出し、笑ってしまった。
結局、私は私でいるしかない。
ううん、そうありたい。
「でね、合宿のことなんだけど・・・」
「うん。埼玉だよね。」
「うん。みんなでサッカー観戦に行こうってことになったの。」
「あー…サッカーかぁ。」
「蓉、興味ないのも知ってるんだけど、多数決だったし。」
「いやぁ、大方、眞依の提案でしょ?大好きだもんね。」
「うんうん。で、その前後でアリーナ借りてみんなでなんかやるの。」
「あ、それは楽しそう。いいね。」
「うん。実は、好みの問題が大きいから、アリーナ以外自由時間なの。」
「へぇ…。え?それをわざわざ?」
「うん、そう。」
里佳が、幅の広い学食のテーブルの向こう側から廻り込んで隣に陣取る。
こんな可愛い娘に見つめられたら男だったらイチコロかな。
と思うくらいじっと瞳を見られた。
「蓉、探してみよう?」
「え・・・」
「良くん、探しに行ってみよう。」
「え、でもそんなわざわざ合宿中じゃなくたって…」
「だから、行くの。わざわざじゃないから、行くの。わかる?」
「あ・・・」
なんて頭のいい娘だろう。なんて心の優しい娘だろう。
里佳は、もしもナオを見つけてしまった時にできる言い訳まで考えていた。
私がただ、寂しがっている間に。
憶えているのだ。あの日私が言われて里佳に泣きながら復唱した言葉を。
本当に、なんて幸せなんだろう、私という人間。
「ね?それならきっと、お互い逃げないで済むでしょ?」
「そう…だね。そうだね。」
「ひとりで探しに行きたいなら、ついて行ったりしないから。」
「うん。…うん、ありがとう。本当にありがとう、里佳。」
思わず、抱きしめてしまった。
ただ動かずにじっとしていた私を気付かせてくれただけでも嬉しい。
それなのに、ずっと先まで考えてくれてたことに感動しすぎてしまった。
あえるかもしれない。
その「かも」がどれほど身近になったか知れない。
合宿までの2ヶ月は、あっという間に過ぎていった。




