第60話:離さない、永遠のぬくもり
大聖堂を光の雨で染め上げたあの奇跡の婚礼から、早くも一月の月日が流れていた。
冬の盛りを迎えたはずのアルジェント帝国において、厳しい吹雪の気配はどこを探しても見当たらなかった。
大公城の中央にそびえ立つ「白銀の古代樹」は、いまなお天を突くように満開の銀の花を咲かせ続け、城壁を包む絶対浄化結界の光膜は、帝都全域をあたたかな春の陽だまりのように優しく包み込んでいる。
城下の穀倉地帯では、エリアーナが【万物最適化】を施した肥沃な黒土から、湯気を立てるように瑞々しい冬野菜や穀物がたわわに実り続けていた。市場には活気ある笑い声が満ち、市民たちは誰もが笑顔で手を取り合い、新しく迎えられた「豊穣の聖女」への感謝の祈りを日々の糧としていた。
そんな穏やかな帝都の営みを遥か眼下に見下ろす、大公城最上層――東翼の張り出しテラス。
陽光が燦々と降り注ぎ、白大理石の床を蜂蜜色に染め上げるその場所には、二人きりの甘美で静謐な時間が流れていた。
「……ん」
ふわりと、手元に落ちていた本の頁の上に、白銀の髪が一筋、影を落とした。
エリアーナ・ヴァン・ベルク――いまや正式にアルジェント帝国大公妃となった彼女は、大きな革張りの長椅子の上で、文字通り「すっぽりと」一人の男の腕の中に収まっていた。
座っているのは、椅子の上ではない。
大公クロード・ディス・アルジェントの、引き締まった逞しい太腿の上であった。
彼の長い両脚の間に包み込まれるように腰を下ろし、背中はクロードの広い胸板へと完全に預けられている。クロードの太く逞しい左腕は、彼女の細い腰を逃がさないようにしっかりと抱きかかえ、右腕は彼女の肩越しに伸びて、膝の上に広げられた本の端を優しく支えていた。
身に纏っているのは、コンスタンスが「日常の最高のリラックス」を追求して仕立ててくれた、淡いクリーム色のカシミアニットドレス。
首元や袖口には柔らかなレースが施され、締め付けなど一切ないその布地は、触れるだけで温もりを与えてくれる。
左手の薬指には、大聖堂で誓いを交わしたあの「星光氷晶石」の指輪が、七色の光彩を優しく揺らめかせていた。
「クロード様……少し、重くありませんか? 私、ずっとこのままお膝の上に乗せていただいていて……」
エリアーナが琥珀色の瞳をわずかに伏せ、肩越しに見上げながら恐縮したように囁いた。
だが、耳元に落ちてきたのは、低く甘い、心底から満ち足りたバリトンの笑い声であった。
「重いものか。君の身体など、摘みたての綿毛のように軽いよ。……むしろ、こうして私の腕の中に隙間なく閉じ込めておかなければ、城のあちこちへ散歩に行ってしまうだろう?」
クロードは愛おしそうに目を細めると、エリアーナの編み下ろされた栗色の髪に深く顔を埋めた。
すうっ、と彼女の甘い体温の匂いを吸い込み、ふうと温かな吐息を首筋へと吹きかける。
「ひゃっ……くすぐったいです、クロード様」
「ふっ、首筋が弱いね。可愛い人だ」
他国で「氷の魔将」「歩く天災」と恐れられ、敵軍ごと大地を凍土へと沈めてきた冷酷無比なる覇王。
その男が、いまや自分の妻を膝の上に抱き上げたまま、片時も離れようとしない極上の過保護夫と化しているのだ。
執務室での公務を終えれば、一秒の迷いもなく飛ぶようにして私室へと戻り、食事の一口から就寝の前の語らいに至るまで、すべての時間を彼女を甘やかすためだけに費やしている。
「本を読むのは構わないが、あまり目を酷使してはいけないよ。疲れたら、すぐに私の胸で休むんだ」
クロードはそう言いながら、卓上に置かれていた白磁のティーカップへと手を伸ばした。
手際よく注がれたのは、天藍草の若葉と蜂蜜をブレンドした、湯気立つ特製ハーブティー。
一口含んで温度が完璧であることを確認したクロードは、そのカップをエリアーナの桜色の唇の前へと運んだ。
「さあ、一口飲むといい。喉が渇いていただろう?」
「あ、自分で持てますわ……」
「駄目だ。本を持つ手が塞がっているだろう。……ほら、お口を開けて」
有無を言わせぬ甘やかし。
観念したエリアーナがおずおずと唇を開けると、温かなハーブティーが喉を滑り落ち、疲れた身体の芯をじんわりと潤していった。
「……ふふ、美味しいです。ごちそうさまでした、クロード様」
「よくできました」
クロードは満足そうに微笑むと、リネンのナプキンで彼女の唇の端を赤ん坊のように優しく拭い、そのついでとばかりに、彼女の柔らかく色づいた頬へとちゅっと音を立てて口づけを落とした。
テラスの円卓には、今日も山のような贈り物が届いていた。
コンスタンスからは「春の新作サロン着のデザイン画」と、帝都最高峰の菓子職人が焼き上げたばかりの果実タルトの木箱。
近衛騎士団長バスティアンからは、北方国境の警備任務の合間に自ら採取してきたという、純白の「氷晶百合」の瑞々しい花束。
宮廷筆頭魔導士のニコラからは、「お姉さまの安眠を守る特製のアロマ加湿魔導具」の改良版。
そして諜報部隊長ロヴェルからは、南方の島々から空輸させてきたという、甘美な香りを放つ極上の星露葡萄。
「皆様……本当に、毎日毎日、たくさんの贈り物を届けてくださいますね」
エリアーナは円卓の上に並ぶ品々を見つめ、目を細めた。
かつてロシュ侯爵領にいた頃は、贈り物どころか、部屋の暖炉の薪の一本すら与えられず、古びた毛布にくるまって震えていたのだ。
それがいまや、帝国の頂点に立つ人々が、競うようにして彼女の笑顔のために心を砕いてくれている。
「ふん。あいつらめ、私が隙を見せればすぐに君の気を引こうとする」
クロードが拗ねたように腕の力を強め、エリアーナの腰を抱き寄せた。
「バスティアンの花も、ニコラの魔導具も、ロヴェルの果物も……すべて事前に私が検分しているからね。変な虫が君に近づくことなど、天地が裂けても許さないよ」
「まあ、クロード様ったら。皆様、とても純粋なお心遣いで届けてくださっているのに」
「純粋だからこそ厄介なんだよ。君のあの無垢な笑顔を見せられたら、誰だって魂ごと奪われてしまうに決まっている。……私だけのものなのにね」
低く囁かれる、蕩けるような独占欲の言葉。
耳元に触れる唇の熱さに、エリアーナの頬がぽっと赤く染まり上がる。
甘やかされ、愛され、世界中の誰よりも大切に扱われる日々。
それは、彼女にとって、あまりにも贅沢で、あまりにも眩しすぎる現実であった。
ふと――。
エリアーナは膝の上の愛読書から視線を上げ、手すりの向こうに広がる澄み渡った冬の空を見つめた。
風が、優しく通り抜けていく。
その穏やかな静寂の中で、彼女の胸の奥底に、遠い日々の記憶がふわりと去来した。
ロシュ侯爵領での、あの暗黒の日々。
朝から晩まで、手元がかじかむ冷たい執務室でペンを握り続け、膨大な帳簿の計算に追われていたこと。
命を削って結界石に魔力を注ぎ、誰にも知られぬよう農地を耕し、どれほど尽くしても『地味で愛嬌のない役立たず』と罵倒され続けたこと。
そして――あの建国記念の夜会で、ユリウスから下された理不尽な婚約破棄。
いま、あの人々はどうしているだろうか。
先日、ロヴェルが運んできた報告の通り、妹のティファーヌは宝石を持ち逃げして逃亡を図るも、魔獣に襲われて馬車が大破し、奴隷商人に捕まり、最後は王国の司法局によって窃盗と不法逃亡の現行犯で捕縛された。いま頃は、王都の地下牢で冷たい石床の上に座り、己の罪を数えているはずだ。二度と社交界の光を浴びることはない。
そして、元婚約者のユリウス。
母国の国王親書によって爵位を剥奪され、全財産を没収され、名門ロシュ侯爵家は歴史から完全に抹消された。
身一つでこの帝都へ乗り込み、大広間で醜態を晒した彼は、クロードの冷酷なる判決により、帝国最北端の「極北の永久凍土鉱山」へと送致された。
年中吹雪が吹き荒れる暗黒の地の底で、凍傷に爛れた手でツルハシを振るい、配給の硬い黒パンを啜りながら、『エリアーナ、俺を温めてくれ!』と虚空に向かって泣き叫んでいるという。生涯、地上へ戻ることを許されぬ終身重労働の刑。
自業自得。
因果応報。
彼らが自らの手で蒔いた傲慢と強欲の種を、彼ら自身の命と身体で刈り取っただけの結末。
その事実を思い出しても、エリアーナの心には、さざ波ひとつ立たなかった。
ざまあみろと嘲笑うような醜い優越感もなければ、哀れんで助けてやりたいというような愚かしい感傷も存在しない。
ただ、完全に自分とは切り離された、遠い世界の出来事としての「完全なる凪」。
あの日、建国記念の夜会で、彼女はすべてを告げていたのだ。
『私がかけていた付与魔法は、すべて解除して出ていきます。これからはお二人で頑張ってください』と。
彼女は奪ったのではない。
ただ、自らの恩恵を引き上げ、自由の空へと歩み出しただけ。
彼らが自らの手で奇跡の土台を叩き壊し、自滅していったに過ぎないのだから。
「…………」
エリアーナは、膝の上に置かれた自らの両手を見つめた。
白く、滑らかで、手入れの行き届いた指先。
長年の過酷な労働で刻まれていたタコやアカギレの跡は、いまや跡形もなく消え去り、薬指の星光氷晶石が誇らしげに輝いている。
彼女の持つ固有異能――【万物最適化】。
触れたもののポテンシャルを極限まで引き出し、完全なる調和へと導くその奇跡。
かつては「誰にでもできる雑用」だと思い込まされ、すり減るように搾取されていたその力が、いまや一国の古代樹を満開にし、結界を張り直し、荒野を豊かな穀倉地帯へと変え、何十万もの民の命を救い、誇りある「大公妃の庭」を作り上げた。
すべてが、満たされていた。
失われたものは何一つなく、手に入れたものは世界のすべてであった。
だが――あまりにも完璧すぎる幸福の只中で、エリアーナの唇から、ふわりと、小さな、小さな呟きが零れ落ちた。
「……クロード様」
「ん? どうしたんだい、エリアーナ」
クロードが優しく彼女の耳元に唇を寄せ、問いかける。
エリアーナはクロードの逞しい腕に自らの小さな手を重ね、震えるような吐息とともに、心の奥底にあった最後の感情を口にした。
「私……こんなに、幸せでいいのでしょうか……?」
「…………」
「私のような、地味で、何の取り柄もなかったはずの女が……こんなに温かなお部屋で、皆様に愛され、そして……世界で一番素晴らしいクロード様に、こんなにも甘やかしていただいて……。本当に、私なんかが、こんな幸福を受け取ってしまって……罰が当たらないでしょうか……?」
それは、長年否定され続け、暗闇の中で生きてきた少女が、光の眩しさに戸惑うような――あまりにも純粋で、あまりにも愛おしい問いかけであった。
その言葉を聞いた瞬間。
クロードの胸の奥で、何かが激しく音を立てて満ち溢れた。
「…………っ」
クロードは腕の力を込めた。
エリアーナの細い腰を抱き寄せ、自らの広い胸板へと、骨が軋むほどの力強さで、しかし壊れ物を愛でるような優しさで、ぎゅっと強く抱きしめ直したのだ。
彼の大きな手が、エリアーナの柔らかな後頭部をそっと包み込み、自らの首筋へと深く埋めさせる。
二人の肌と肌が触れ合い、混ざり合う吐息。
クロードの切れ長の氷青色の双眸は、いまや言葉を失うほどの情熱と、狂おしいまでの深愛によって、蕩けるように甘く濡れていた。
彼は彼女の耳元へと唇を寄せ、魂の底からの言葉を、揺るぎない絶対の真実として囁きかけたのだ。
「――当たり前だ」
低く、甘く、胸の奥底を直接震わせるバリトンの声。
「当たり前だろう、エリアーナ。……君が幸せでなくて、この世の誰が幸せになるというんだ」
「クロード様……」
「君が、私に生きる意味をくれたのだから」
クロードの唇が、彼女の耳たぶを、そして白磁の首筋を、愛おしそうに甘く撫でる。
「三年前、死にかけていた私をあの一杯の水で救ってくれた時から……そして、国境の森で私の前に現れてくれたあの日から。私の世界は、君という太陽によって初めて色づいたのだ。……君がこの国に温もりをくれた。君がこの大地に春をもたらしてくれた。君の存在そのものが、私にとっての、そして我が帝国のすべての奇跡なのだから」
クロードは彼女の顎を指先でそっと持ち上げ、その顔を正面から見つめた。
至近距離で交錯する視線。
氷の魔将と呼ばれた男の瞳には、かつて戦場で見せた峻烈さなど微塵も残っていなかった。
ただ、世界で最も愛しい伴侶を見つめる、蕩けるように甘い、絶対の誓いの光。
クロードの薄い唇の端が、この上なく幸せそうに、優しく弧を描いた。
「――もう二度と、離してやらないよ」
甘く、激しく、永遠を縛る愛の宣告。
「君がどれほど戸惑おうと、私が一生かけて甘やかし尽くしてやる。君の流す涙は、歓喜の雫以外、一滴たりとも許さない。……私の腕の中こそが、君の永遠の居場所だ。誰にも渡さないし、天地が裂けても手放しはしない」
「…………っ!」
胸の奥で、何かが完全に満ち足りた。
もう、迷うことは何もない。
自分はここにいていいのだ。
この男の腕の中で、世界で一番幸せな女として、笑っていていいのだ。
「……はい、クロード様」
エリアーナはクロードの逞しい首筋へと、自らの細い両手をそっと回した。
指先を彼の白銀の髪の中へと滑り込ませ、自らその唇へと顔を近づける。
その琥珀色の瞳には、春の満開の花が咲き誇るような、世界で一番眩い光が満ちていた。
「私も……もう二度と、離れませんわ。……ずっと、貴方様の腕の中にいさせてくださいね」
「ああ、望むところだ」
二人の唇が、ゆっくりと、自然に重なり合った。
深く、熱く、息を奪い合うような甘美な口づけ。
テラスを吹き抜ける風が、中庭の古代樹から運んできた白銀の花びらをふわりと巻き上げ、二人の頭上へと祝福の雨のように降らせていく。
かつて――地味で愛せないと虐げられ、冷たい石壁の中で孤独に震えていた少女は。
いま、大陸最強の男の、世界で一番甘い腕の中で。
誰よりも愛され、誰よりも輝き、最高の笑顔を咲かせていた。
陽だまりのテラスに満ちる、永遠のぬくもり。
二人の紡ぐ愛と奇跡の物語は、これからも途切れることなく、どこまでも、どこまでも甘やかに続いていくのであった――。




