女嫌いの氷の公爵子息に「勘違いでは?」と言ったら、なぜか毎朝挨拶されるようになりました
放課後の生徒会室は、春の日差しが降り注いでいるにもかかわらず、ひんやりとした静寂に包まれていた。
長机の向かい側に座っているのは、この学園の女子生徒たちから『氷の王子』として崇め恐れられている公爵家嫡男、エリオット・グレイシア様。
そして、その向かいで黙々と書類の束と格闘しているのが、平民出身で特待生の私、アンである。
今年の生徒会役員に補佐として抜擢されてから、私は生徒会の業務で今日、彼と組むことになってしまった。
容姿端麗、成績優秀、家柄も完璧。
どこを切り取っても絵画のようなお方だけれど、致命的な問題が一つある。
そう、極度の女嫌いなのだ。
私は特待生としての立場もあるし、何より仕事は円滑に進めたい。
だから毎日、顔を合わせれば「おはようございます」「お疲れ様です」と礼儀として挨拶をしている。
だが、返事が返ってきたことは、ただの一度もない。
他の女子生徒も同様である。
なんでも昔から女性にしつこく追い回されてきたとか、どれだけ断っても嬉々として近寄ってくる女性たちに嫌気が差しているとか……。
とはいえ、あまりにも見事な無視っぷりに、腹が立たないと言えば嘘になる。
けれど、私は別に彼に好かれたいわけじゃない。
同じ空間で仕事をする者として、最低限のコミュニケーションさえ取れればそれでいいのだ。
が。
沈黙が重い。
二人きりのこの空間は、あまりにも重すぎる。
喋らずとも彼からは、言い知れぬ圧を感じる。
息が詰まりそうになった私は、ペンを置き、仕事の合間の息抜きとして、本当に何気なく世間話を振ってみた。
「そういえば、グレイシア様。今日、歴史学の小テストがあったんですけど、とても難しくて」
「…………」
返事はなく、手元の書類から視線すら上げない。
それでも私は、めげずに言葉を続けた。
「私、実は歴史学が少し苦手なんです。グレイシア様は得意だと小耳にはさみまして。何か勉強のコツはあるんですか?」
媚びを売るつもりも、特別な好意をアピールするつもりもなく、職務上の先輩に対する、ただの雑談。
……本当に、ただそれだけだった。
だがその瞬間、ピタリとグレイシア様の手が止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、まるでひどく厄介な物でも見るかのような、冷え切った瞳で私を射抜く。
そして深く、ものすごくうんざりしたようなため息を吐き出した。
「……女子というのは、どうしてそう、こちらの興味のない話を振ってくるんだ」
顔にはあからさまな嫌悪感と疲労感を浮かべ、声の温度は氷点下だった。
そのまま彼は続ける。
「頼むから、静かに仕事だけさせてくれないか。君の苦手科目に俺はまったく興味はない。……そういう、点数稼ぎのための取り繕ったような雑談は疲れる」
その冷ややかで、なおかつ上から目線の言葉に、私の中で、何かがブチっと切れる音がした。
彼のファンを自称する周囲の令嬢たち――冷たくされて喜べる嗜好の方々なら、この反応すら、素敵! となるのかもしれない。
あるいは、それ以外の女子なら、傷ついて泣き出してしまうかもしれない。
けれど、私はそのどちらでもなかった。
私は静かに姿勢を正し、まっすぐに彼を見つめ返した。
「あの、グレイシア様」
私の言葉に、グレイシア様は綺麗な顔を歪め、舌打ちでも打ちそうな顔でちらりとこちらを一瞥する。
「なんだ。まだ何か——」
「もしかして、世の女性が全員、あなたに興味を持っていると勘違いしていませんか?」
私は彼の台詞をばっさりと遮る。
と、グレイシア様の端正な顔が、ピシリと固まった。
けれど気にせず、私は淡々と続ける。
「私はグレイシア様を口説いた覚えも、特別な好意を示した覚えもありません。同じ生徒会の一員として、コミュニケーションは大事です。なので、この重苦しい空気を少しでも和らげ、円滑に仕事を進めようとしただけなんですが」
「な……」
「あなたが女嫌いなのはご自由です。ですが、特に何もしていない相手の挨拶を無視したり、迷惑そうな目を向けたり、勝手に言い寄られていると思い込んで不機嫌になられると、こちらが困るんです。もう少し、大人になっていただけませんか?」
生徒会室の空気が、先ほどとは違う意味で完全に凍りついた。
グレイシア様は完全に言葉を失い、目を見開いたままこちらを凝視している。
おそらく、これまでの人生で女性からこんなことを言われた経験などないのだろう。
私はそれ以上何も言わず、再びペンを握った。
「失礼しました。作業に戻ります。今日の分の集計終わらせてしまいますね」
その後、二人の間には一切の会話もなかった。
帰り道、私の方こそ少し大人げなかったかなと反省はしたけど、胸の奥はとてもすっきりしていた。
別に、彼に嫌われたところで困ることは何もない。
まあ、ちょっとだけ一緒に部屋にいると居心地が悪くなるかもだけど、これまでだって似たようなものだったのだ。
ただ、胸のもやもやを吐き出せただけマシというものだ。
翌朝、私はいつものように登校し、教室へ向かう廊下を歩いていた。
前方から、学園中の誰もが振り返るような、美しく冷たいオーラを放つ見慣れたグレイシア様が歩いてくるのが見えた。
昨日の今日である。
だけど私は特にやましい気持ちもないので、すれ違いざま、いつもと変わらない事務的なトーンで声をかけた。
「おはようございます、グレイシア様」
当然、返事は期待していない。
足も止めず、そのまま通り過ぎようとした、その時だった。
「……おはよう」
低く、けれどはっきりと声が降ってきた。
空耳かもと思い振り返ると、グレイシア様は確かにこちらを見ていた。
少し眉間を寄せ、どこかバツが悪そうな、気まずそうな表情を浮かべている。
いつも見下すような冷たい目をしていた彼が、ほんの少しだけ視線を逸らしがちにしながらも、更にもう一度おはようと告げる。
聞き間違いではなかった。
思わず私が固まっていると、周囲の空気も完全に凍りついていることに気がついた。
「今、グレイシア様が……」
「女子に挨拶を返した……?」
廊下中が、ざわざわとどよめきに包まれる。
挨拶を返しただけで大事件みたいになるなんて、普段の態度が悪すぎるのでは?――内心でそう突っ込んだものの、口には出さない。
私は表情を崩さず、ただ一言、普通に返した。
「はい。おはようございます」
そして軽く会釈をしてから、足早に教室へと向かった。
背中に彼の視線を感じたような気がしたけど、気にしてはいられない。
放課後、生徒会室の扉を開けると、すでに朝の騒動、もとい、『グレイシア様が女子に挨拶を返した事件』は生徒会内に知れ渡っていた。
「いやあ、グレイシアが女子に挨拶を返す日が来るなんてな。しかもアンに」
気さくな生徒会長でグレイシア様と幼馴染のダニエル・ヒューストン様が、ニヤニヤと笑いながらグレイシア様をからかっている。
「氷の王子にも、ついに春が来たか?」
他の生徒会メンバーたちも面白がって同調している。
当のグレイシア様はというと、朝と同じような居心地の悪そうな顔をして、不機嫌そうに言い放った。
「……礼儀を改めただけだ」
その言葉を聞いて、私は積まれた書類を整理しながらごく自然に頷いた。
「おかげで、今日は平和に仕事ができそうです」
「ぶっ!」
私の返しに会長が吹き出す。
他の先輩たちも肩を揺らして笑いを堪えていた。
グレイシア様は、何か言いたげな目でこちらをじっと見てきたけど、特に何も言わなかった。
代わりに、
「仕事を始める」
そう言って書類の束を渡してきたので、私はそれを受け取って黙々と作業を始めるのだった。
◆
あの挨拶事件から数日が経った。
グレイシア様が私に挨拶を返したという事実は、あっという間に学園中を駆け巡る大ニュースになったらしい。
だが、本当の問題はそこからだった。
なぜか、グレイシア様との距離がわずかに近くなったのだ。
「アン」
「……はい、グレイシア様。なんでしょうか」
放課後の生徒会室で私が資料をまとめていると、気がつけばすぐ横に彼が立っていた。
以前なら、最低限の業務連絡以外は口を開かず、離れた席から視線も合わせなかったというのに。
「その集計作業だが、俺が半分引き受けよう。君一人では負担が大きいだろう」
「いえ、もうすぐ終わりますので」
「……そうか」
グレイシア様は引き下がるものの、なぜか自分の席に戻らず、私の手元をじっと見つめている。
顔が良いのでただでさえ圧がすごいのに、無言で見下ろされると変な緊張感がある。
会長に助けを求めるように視線を送ると、彼は爆笑していた。
当然手助けはなかった。
後で会長の机の上にだけ、面倒な未処理書類の束をそっと積み上げておいた。
また別の日、廊下でグレイシア様とすれ違った時のことだ。
「おはようございます」
と、いつも通り挨拶をして通り過ぎようとすると、彼もピタリと足を止めた。
「おはよう。……次の授業は政治学か?」
私が抱えた教科書を見つめながら、そう尋ねてくる。
「え? あ、はい。そうですが」
「あの教授は提出物の期限に厳しい。気をつけることだ」
「はあ……ご忠告ありがとうございます」
……と、こんな具合である。
挨拶だけでなく、ちょっとした雑談(?)まで振ってくるようになったのだ。
あの日、私が正論で殴ったことで罪悪感を抱いたのか。
それとも、生徒会役員として円滑なコミュニケーションをとるべきだと彼なりに心を入れ替えたのか。
詳しい理由は分からない。
ただ、以前のような見下すような冷たさはなくなり、不器用ながらも普通の歩み寄りをしようとしているのは伝わってきた。
私としても、無視され続けるよりはずっと仕事がやりやすい。
だけどだ。
グレイシア様が私に話しかけたり近づいたりするたび、周囲の令嬢たちからの視線がチクチクと突き刺さるのだ。
「なんで平民の特待生なんかに、グレイシア様が……」
「生意気よね。自分から擦り寄っているんじゃないの?」
直接文句を言われることはないが、廊下や食堂で、そんなひそひそ声が聞こえるようになった。
当のグレイシア様本人は、自分の行動がどれだけ周囲をざわつかせているか、そして私がどれだけ微妙な目で見られているか、全く気づいていないらしい。
だけど、睨まれたところで別に物理的なダメージがあるわけじゃない。
まあ、痛くも痒くもないしと思いつつ、私は冷ややかな視線を完全にシャットアウトして、いつも通り気にせず学園生活を送っていた。
◆
私が挨拶されるようになってからしばらく経った頃、登校して自分のクラスの扉を開けた時のことだ。
やけに教室内が静まり返っている。
中にいたクラスメイトたちが、一斉に私と、そして黒板の方を交互に見ていた。
「え、なんですか? 私の顔に何かついてます?」
聞いたが誰も答えないので、彼らに視線の先を追うと、黒板の中央に、白や赤のチョークでこれ見よがしな大きな文字が書かれていた。
『アン! グレイシア様に声をかけられたくらいで調子に乗らないで!』
『グレイシア様が、あんたみたいな孤児の女を好きになるわけないんだから!』
「…………」
私が無言で黒板を眺めていると、クラスの女子の一人が憤ったように声を上げた。
「ちょっと、いくらなんでもやりすぎじゃない!? 孤児とか、出自のことは全然関係ないのに!」
「そうだよ、書いた奴誰だよ。陰湿すぎるだろ」
周囲のクラスメイトたちも同調して怒り始める。
なんと根がいい子たちなんだ。
けれど、当の私はといえば、なんというか……。
犯人はおそらくグレイシア様のファンの子なんだろうけど、嫌がらせの類があまりにも生ぬるい。
確かに私の出自は孤児である。
幼い頃に私が生きていた裏路地では、何もしてなくったって言葉ではなく暴力がいきなり飛んできた。
パンの欠片を奪い合い、容赦なく蹴り飛ばされるのが日常だったのだ。
それに比べたら、わざわざ文字で分かりやすく悪口を書いてくれるなんて、なんて平和で親切な世界なんだろう。
教室中が息を呑んで私の反応を窺っている。
泣き出すか、怒って消すか、それとも――。
取った選択肢は、当然三番目である。
私は、黒板の前にツカツカと歩み寄ると、チョークトレイから白のチョークを一本手に取った。
そして、その悪口の下に、さらに大きな文字で堂々と書き足した。
『ご安心ください。私の好みは「年下で可愛いわんこ系」なので』
書き終えてチョークを置き、パンパンと手の粉を払う。
一瞬、教室が水を打ったように静まり返り――直後、クラスメイトたちが盛大に吹き出した。
「た、確かにグレイシア様は年上だし……」
「わんこ系とは真逆よね」
「むしろ猫系の美人顔じゃない?」
私は同意するように頷く。
そして、猫は猫でも、絶対に懐かない気難しい高級猫の類だと思われる。
すっかり毒気の抜けたクラスメイトたちの笑い声を聞きながら、私は満足して次の授業の準備を始める。
「ところで、もう行かないと一限目の移動教室に遅れますけど」
私の言葉に、クラスメイト達は慌てて準備を始めた。
黒板の文字を消す暇もなかったので、そのまま教室を後にした。
帰ってくると、黒板はきれいさっぱり消えていた。
犯人が読んでくれてたらいいんだけど。
で、願わくばこっちのことは放置してくれると助かるなんて、そんなことを思っていた。
が、その黒板の事件と私の書き込みは、ものの数時間であっという間に新たな噂となって学園を駆け巡っていた。
話が早いことだ。
みんな暇なんだろうか。うん、暇なんだろう。
そして昼休み。
なんと、グレイシア様本人が、私の教室に直接やって来たのだ。
「アン。少し顔を貸してくれ」
『氷の王子』の降臨に、教室は今朝以上のパニック状態に陥った。
私はため息をつきつつ、廊下に出る。
グレイシア様は少し硬い表情のまま、私の前に立つと、深く頭を下げた。
「すまなかった」
「……はい?」
唐突な謝罪に、私は首を傾げる。
「なぜグレイシア様が謝るのですか?」
「俺のせいで、君が心ない嫌がらせを受けたと聞いた」
嫌がらせ……?
もしかして今朝の黒板のことだろうか。
こちらとしては特に害もないので、嫌がらせにすら値しないことだと思っていた。
「えーと、グレイシア様が黒板にあの文字を書いたんですか?」
「……違う」
「でしたら、謝っていただく理由がありませんが」
「しかし、俺が原因で――」
「いいえ」
私は彼の言葉を遮った。
「確かに、書いたのはグレイシア様のファンの方かもしれません。ですが、それなら悪いのは書いた本人だと思います。グレイシア様は、私に嫌がらせをするよう、誰かに指示したんですか?」
「っ、そんなことは絶対にしない!」
力強く否定する彼を見て、私は小さく息を吐く。
……まあ、そもそもの原因を辿れば、最近グレイシア様が不器用に距離を詰めてきたことに行き着く気もするのだが。
だからといって、彼を責めるのは筋違いだ。
彼は他意があって私に近づいているわけじゃない。
今まで女子を一瞥もしなかった氷の王子が、ただ普通の人間として友好的に接するようになっただけなのだ。
願わくば私以外の女子にもそうしてほしいところだけど、まあ、女子生徒の大半は、黄色い悲鳴を上げ続けるか、恐怖で怯えて動けなくなるかどちらかなので、難しいところかもしれない。
ファンが勝手に暴走した責任まで、彼に背負わせるわけにはいかない。
「グレイシア様が加害者であるかのように振る舞う必要はありません。悪くないことまで背負い込まないでください」
「…………」
グレイシア様ははっとしたように目を見開き、少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「……すまなかった。だが、もしまた何か実害が出た時は、遠慮なく言え。俺が対処する」
「自分でなんとかできますが、お気遣いは感謝します」
そう返すと、彼は一つ頷き、踵を返して去ろうとした。
しかし数歩歩いたところでピタリと立ち止まり、恐る恐る振り返る。
「……ところで。君は、本当に犬が好きなのか?」
「え?」
突然の質問に首を傾げる。
どうして急に犬の話?
けど、犬は好きだ。
「そうですね。犬は可愛いですし、好きですよ」
昔、孤児院で飼われていた大きな犬のことを思い出す。
もふもふしていて、冬は寄り添って寝るととても暖かくて、一番の遊び相手だったのだ。
自然と頬が緩むのを感じながらそう答えると、グレイシア様はなぜか、この世の終わりのような絶望した顔になった。
「……そうか」
ひどく沈んだ低い声でそれだけ言うと、彼は今度こそ重い足取りで去っていった。
その後ろ姿には、いつもの『氷の王子』の覇気は微塵もない。
「……?」
私はただ首を傾げて、うなだれる彼の背中を見送るしかなかった。
◆
黒板事件から、さらに数日が経過した。
あの後、グレイシア様はなぜか少しだけ哀愁を漂わせるようになったものの、相変わらず私の周囲によく現れる。
ただ、彼のファンからの嫌がらせは、黒板の一件で終わるほど甘くはなかったらしい。
放課後、私が帰る準備をしようと自分の机の中に手を入れると、指先にカサリと慣れない紙の感触が触れた。
引っ張り出してみると、それは上質な便箋だった。
しかし、差出人の名前はなく、ご丁寧に封すらされていた。
私は無表情のままそれを開けると、四つ折りにされていた紙を取り出し、ゆっくりと開く。
『これ以上グレイシア様に近づくなら、次はないと思いなさい』
そこには、赤いインクで、いかにもおどろおどろしい筆跡を装ってそう書かれていた。
私は眉ひとつ動かさず、その紙をまじまじと見つめた。
字体の崩し方からして、利き手とは逆の手で書いたのだろう。
しかし便箋の紙質が良すぎるし、インクからは微かに高級な薔薇の香水が匂い立っている。
隠しきれないお嬢様感が滲み出ていて、なんだか微笑ましくすらある。
「アン」
そんな分析をしていると、教室の入り口から声がした。
顔を上げると、いつものように――そしてなぜか最近は私の教室までわざわざ足を運ぶようになった――グレイシア様が立っていた。
「そろそろ生徒会室へ……アン、君が手に持っているその紙はなんだ?」
私の手元を見た瞬間、彼の眉間が分かりやすく険しくなった。
「ただの紙ですよ。メモ書きです」
「……嘘だな」
グレイシア様は長い足でツカツカと歩み寄り、私の机の前に立った。
以前の彼なら「見せろ」と頭ごなしに命令してきただろう。
いや、むしろ毛ほども興味がなかっただろうから、見向きもしなかったか。
けれど今の彼は、どこか焦ったような瞳で私を見下ろした。
「アン。頼むから、俺に見せてくれないか。君がまた何か理不尽な目に遭っているなら――」
言いながら、彼がすっと手を伸ばしてくる。
それが純粋な心配からくる行動だとは分かっている。
けれど、これを見せて犯人探しをされても面倒なだけだ。
「嫌です」
私は彼の手が届くより一瞬早く、その便箋を両手で掴み――ビリッ! と真っ二つに破いた。
「なっ……!?」
驚いて目を丸くするグレイシア様の前で、私はさらにビリビリ、ビリビリと、文字の原型がなくなるまで便箋を細かく引き裂いた。
そして、教室の窓をガラリと開け放つ。
ちょうど吹き込んできた強い風に乗せて、手のひらの上の細かい紙片をふっと外へ飛ばした。
花びらのように細かくなった紙切れは、西日をきらきらと反射しながら、中庭の空へとあっという間に散って消えていく。
「はい。これで何もなくなりましたね」
私が平然と窓を閉めると、グレイシア様は完全に絶句していた。
「っ、き、君は……正気か……?」
「至って正気ですが?」
「なぜ破った!? 中身は見ていないが、また君に対する嫌がらせの類だったのだろう!? 証拠を残して犯人を探さなければ――」
「そんな犯人探しに時間と労力を使うほど、私は暇ではありません。話があるなら向こうから直接来るでしょうし」
「だが、もし君の身に危険が及んだら……」
「ご心配なく。内容はありふれた文句でしたし、実害も危険もありませんよ」
私は呆れたように息を吐いた。
「それに、本当に危険な人は、わざわざ予告なんてしてくれません」
そう、本当に殺意や悪意を持った人間は、足音すら殺して背後から殴りかかってくるのだ。
警告の手紙をくれる相手なんて、優しい方である。
ブラックコーヒーのお茶請けになりそうなほど、甘くて上品すぎる行動だ。
「さあ、早く行きましょう、グレイシア様。今日は、婚約者様を怒らせてしまって頭を抱えている生徒会長のお尻を叩かないといけませんから」
「……あいつのあれは、本人の自業自得だ」
「だからこそ、私たちがしっかり叩かないと。いい加減仲直りしてもらわないと、仕事が滞って仕方ないじゃないですか」
生徒会長様は、愛しの婚約者様に余計な一言を言って怒らせてしまい、もう一週間も口をきいてもらえてないらしい。
それ以来うじうじしっぱなしで、かといってまた怒られたらどうしようと不安がって何の行動にも出ない。
面倒なので、もはや物理的にお尻を叩いて強制的に婚約者の元へ向かわせるべきかと、頭の中でそんなことを考えながら、私が鞄を手にして促す。
グレイシア様はまだ何か言いたげに唇を噛んだが、結局は小さく頷いた。
◆
手紙を破り捨ててからしばらくして。
嫌がらせは、ついに古典的な物理手段へと移行したらしい。
ある朝私が登校して自分の席に着くと、机の中に入れていたはずの教科書がごっそりと消えていた。
「えっ、アン! 教科書がないじゃない!」
いち早く気づいたクラスメイトの女子が悲鳴を上げ、周囲もざわつき始めた。
授業前に教科書を隠して困らせよう、という魂胆なのだろう。
「ね。見事に空っぽですね」
「呑気なこと言ってる場合じゃないよ! 探すの手伝うから!」
慌ててくれるクラスメイトたちを、私は手で制した。
「大丈夫です。少し待っていてください」
私は自分の鞄を開けると、中から何冊もの古びた教科書を取り出し、ドンッと机の上に積んだ。
表紙はすり切れ、角も折れている年季の入った代物だ。
「な、なにそれ。アン、それ古い教科書?」
「はい。卒業した特待生の先輩から譲っていただいたものです。学園の教科書はここ数年改訂されていないので、内容は同じなんですよ」
私はパラパラとページをめくって見せた。
そこには、赤や青のインクでびっしりと書き込みがされている。
「むしろ、新品よりこっちの方が先輩たちの過去問の傾向や、分かりやすい解説のメモが書き込まれていて便利なんです。今度からこっちを使おうと思っていたので、ちょうどよかったです」
私の言葉を聞いて、クラスメイト達は何とも言えない表情でこちらを見やる。
「……アンって、ほんと逞しいよね」
「感心していいのか呆れていいのか分からなくなってきたわ……」
クラスメイトたちはすっかり毒気を抜かれたように呟く。
犯人がどこかで私の困る顔を見ようと隠れているのだとしたら、さぞかしがっかりしていることだろう。
だが、嫌がらせはそれで終わらなかった。
翌日の昼休みに、私が中庭の噴水のそばを歩いていた時のことだ。
背後から、不自然に近づいてくる気配がした。
普通に歩いているのではなく、明らかに私を標的にして小走りで距離を詰めてくる気配と足音。
私は歩調を変えず、ギリギリのタイミングですっと右に半歩ずれた。
「えっ――きゃぁぁっ!?」
私を背後から突き飛ばそうとしていたらしい女子生徒が、空振りの勢い余って、そのままバシャァッ! と盛大な水しぶきを上げて噴水の中に落ちた。
幸い噴水は浅く、彼女は腰まで水に浸かった状態で呆然としている。
「大丈夫ですか?」
私は噴水を見下ろし、極めて冷静に声をかけた。
「水場では、足元に気をつけた方がいいですよ。滑りやすいですから。あ、タオル持ってます? ハンカチでよければ貸しますけど」
女子生徒は顔を真っ赤にして立ち上がり、ずぶ濡れのまま泣きべそをかいて逃げていった。
あれは確か、隣のクラスの伯爵家の令嬢だった気がする。
いつも黄色い悲鳴を上げている、グレイシア様のファンの一人だ。
その少し先で、もう一人、同じクラスの女子生徒が慌てて一緒に逃げていくのも見えた。
一応、あの二人の弱みでも握っておくべきだろうか。
自衛のためにも。
というわけで、放課後の生徒会室で、グレイシア様が席を外している隙を見計らって、私は生徒会長に声をかけた。
「会長。私の隣のクラスの伯爵令嬢と、いつも一緒にいるもう一人の子について、何か弱みを知りませんか?」
「は? 弱み? いきなり何? ……そういや黒板になんか書かれたりしてたよな」
「いえ、全く問題はありません。ただの実害のない嫌がらせを受けているだけなんですが、念のために弱みの一つや二つは握っておきたいなと」
「いや、まあ情報くらいなら教えてもいいけど。なんなら俺から注意しようか?」
「結構です。喧嘩を売られたのは私なので、私が返します」
私のきっぱりとした返答に、会長はくっと噴き出して笑ったあと、真面目な顔になった。
「……ところで、エリオットには言わないのか? あいつなんだかんだでお前のこと心配してたけど」
「言いません。多分その話をすると、あの方はいちいち自分のせいだと責めまくりそうなので」
「実際あいつのせいでもあるけどね。最近あいつがお前に寄って行ってるのは事実だし」
「なんでいきなり友好的になったんでしょうか。不思議ですよね」
まあ前よりも今の方がやりやすいので私としては構わないんだけど。
「これまであいつの周りにいた女子とは、アンは明らかに毛色が違うからなぁ。ま、でかい猫に懐かれたとでも思っておけ」
「……猫じゃらしでも用意すべきですか?」
「あはは、いいなそれ! ……まあ冗談はさておきだ。これまでどの異性に対してもツンツンしていた氷の王子がお前にだけは普通に接してくるんだ。面白くないと感じる女子たちはいるだろうよ」
それが今の結果に繋がっているということは、身をもって分かっている。
「だけど一言だけでも伝えておいた方がよくないか? 何なら俺からあいつに話を――」
なおも心配そうに眉を寄せる会長に、私はにっこりと微笑んだ。
「会長。先日会長が婚約者様とようやく仲直りできたのは、一体誰のおかげでしたっけ?」
「っ……分かった、分かったよ! 俺からはあいつに言わないから」
降参したように両手を上げる会長を見て、私は満足して頷いた。
ついでに弱みになりそうな情報も手に入れることに成功した。
しかし、その数日後。
事態は少しだけ洒落にならない方向へ転がった。
私が資料を抱えて薄暗い東棟の階段を下りていた時のことだ。
踊り場に差し掛かった瞬間、死角に隠れていた生徒が突然飛び出し、私の肩を強く押してきた。
教科書や噴水の時とは違い、ここは階段だ。
落ちれば大怪我では済まないかもしれない。
私は反射的に体を捻り、突き出された手を躱した。
「あっ……!」
私を押そうとした女子生徒の悲鳴が響いた。
例の片割れの子だ。
彼女は完全に体勢を崩して階段の下へと前のめりに倒れ込んでいく。
落ちる――そう認識した瞬間、私の体は勝手に動いていた。
「危ないっ!」
私は持っていた資料を放り出し、彼女の制服の襟元を力一杯掴んで背中側へ思い切り引き戻した。
ドン! という鈍い音を立てて、私たちは同時に踊り場の床に尻餅をついた。
助けられた令嬢は、顔面を蒼白にしてガタガタと震えている。
私も、内心では少しだけ冷や汗をかいていた。
今のは本当に危なかった。
「アン!!」
そこへ、階段の上から切羽詰まった声が響いた。
見上げると、血相を変えたグレイシア様が階段を駆け下りてくるところだった。
「大丈夫か!? 怪我は……っ、お前たち!」
グレイシア様は私の無事を確認すると、へたり込んでいる令嬢たち――いつの間にか、隠れていたらしいもう一人も一緒にそこに座り込んでいた――を、凍りつくような鋭い目で睨みつけた。
「グ、グレイシア様、これは……っ」
「何でもありません」
言い訳しようとする令嬢たちの言葉を遮り、私は立ち上がりながらスカートの埃を払うと、平然とした顔を作ってグレイシア様に向き直る。
「何でもないようには見えない。今、君は階段から――」
「本当に何でもありません。私たちは、ちょっとじゃれ合っていただけのお友達です。……ね?」
私が令嬢たちを振り返り、にっこりと笑って同意を求めると、彼女たちはひぃっと喉の奥で悲鳴を上げ、青ざめた顔で何度も頷いた。
私はそのまましゃがみ込み、へたり込んでいる例の令嬢たちの耳元に顔を寄せた。
そして、誰にも聞こえないよう声を潜めて囁く。
「実はとある方からあなたたちのとっておきの秘密についてお聞きしました。裏庭で人知れず、『氷の王子様と私』という自作ポエムを作って読み合っているそうですね。もしこれ以上、少しでも私に関わるようなことがあれば……そのことを学園中に公表しますけど、よろしいですか?」
「っっっ!!」
その瞬間、二人の顔から完全に血の気が引いた。
とある方とは当然生徒会長である。
生徒会の仕事をさぼって裏庭の木の上でお昼寝中に、二人が件のポエムを音読し合ってたのを聞いてたそうだ。
サボりは褒められたことではないけど、どうやら会長が教えてくれた弱みは彼女たちにとって特大の爆弾だったらしい。
「も、もうしません! 二度と、絶対にいたしませんっ!!」
「ごめんなさいぃっ!」
彼女たちは半狂乱でそう叫ぶと、文字通り脱兎のごとく立ち上がり、階段を駆け下りて逃げていった。
嵐が去った薄暗い踊り場には、床に散らばった資料と、私とグレイシア様だけが残される。
私は小さく息を吐くと、何事もなかったかのように床に落ちた資料を拾い集め始めた。
ふと視線を感じて顔を上げると、グレイシア様が、まるで信じられないものを見るような目で私を呆然と見つめていた。
「……なぜ彼女たちを助けた」
「別に? ただ面倒なことになるのは嫌だってだけです。これで彼女たちもおとなしくなるでしょう」
私が拾い集めた資料をパンパンと整えながら答えると、彼は声を荒げた。
「君を落とそうとした相手だぞ! それを君も一緒に巻き込まれて落ちる危険性もあったのに助けて、あまつさえいまだってそのまま帰すなんて」
「助けるのは当たり前です」
私がきっぱりとそう言い切ると、グレイシア様は弾かれたように息を呑み、絶句した。
自分を傷つけようとした相手だからといって、目の前で落ちていくのを黙って見ているだけなんてできなかった。
だから私は、自分の手が届く範囲で誰かが落ちそうになっているなら、それが自分を嫌っている相手だろうと反射的に手を伸ばす。
何もしないでいる自分が嫌だ――それだけのことだ。
「……君は」
グレイシア様が、絞り出すように呟いた。
その瞳には、かつての『氷の王子』の冷たさは欠片もない。
ただ、未知の生き物を見るような、ひどく熱を帯びた眼差しで、私を真っ直ぐに見つめ下ろしていた。
◆
階段での一件以降、令嬢たちからの嫌がらせは嘘のようにピタリと止んだ。
とっておきの秘密(黒歴史)の威力は絶大だったらしい。
その代わりと言っては何だが、私の日常には別の変化が起きていた。
グレイシア様が、前以上に私の近くに現れ、やたらと世話を焼こうとしてくるようになったのだ。
「アン、その資料は俺が運ぶ。君はそっちの軽い方を持て」
「いえ、これくらい自分で……あ、ちょっと」
生徒会室で重い資料を運ぼうとすれば無言で奪い取られ、私が下級生の男子生徒――素直で可愛いわんこ系――に勉強を教えていると、なぜか遠くから絶対零度の視線を飛ばして威嚇している。
おかげで後輩が泣きそうになっていた。
学園中からは、氷の王子が平民特待生に惚れているなどと噂され、私としてはほんのり迷惑なのだが、当の本人はどこ吹く風だ。
まさか大貴族のご子息様が私を好きになるなんて、ありえない話だっていうのに。
友人たちにはありえないと否定しつつ、微妙に居心地の悪い日々を過ごしていた。
その日、私はいつものように中庭のベンチで、質素な昼食にかぶりついていた。
薄いパンに、少しの野菜と薄い塩漬け肉を挟んだだけのもの。
栄養は偏っているかもしれないが、私にとってはこれが普通の昼食だ。
特待生といえど、支給されるお金には上限がある。
食費を多少削り、新しい参考書を買うのが私の日常である。
「アン」
そこへ、グレイシア様が現れた。
彼は私の手元にある食事を見て、眉をひどく顰める。
「噂はどうやら本当だったようだな」
「なんの噂ですか?」
そう尋ねると、グレイシア様は一瞬だけ言葉に詰まった。
それからなぜか気まずそうに視線を逸らし、「……いや」とだけ呟く。
妙な反応だとは思ったけれど、追及するほどのことでもない。
するとグレイシア様は持っていたバスケットから何かを取り出して、私に突き出した。
「これを食べろ」
それは、見るからに豪華な肉入りサンドイッチだった。
真っ白でふわふわのパンに、分厚い高級な肉、そして艶やかなソースがたっぷりとかかっている。
明らかに貴族の厨房で作られたと言える、とんでもなく高級品だ。
「……えっと、いりません」
「遠慮はしなくていい。食べろ」
「遠慮ではなく、もらう理由がありません」
「君は細すぎる。それだけでは栄養が足りないだろう。生徒会の仕事中に倒れられたら困るんだ」
そう言う彼の目が、ほんの一瞬だけ、ひどく痛ましいものを見るように揺れる。
けれどすぐにいつもの仏頂面へ戻ったので、気のせいだと思うことにした。
彼は半ば強引に私の手にサンドイッチを押し付けて去っていった。
残された私は深いため息をつき、まじまじとそれを眺める。
冷めているはずなのに、それでも肉の柔らかさや美味しさが見ているだけで伝わってくる。
思わず喉が鳴る。
廃棄するのはもったいない、そう、それだけ。
そんな風に自分に言い訳をしながら、仕方なくといった感じを装ってそれを口に運んだ。
味は、とんでもなく美味しかった。
だけど――高級な脂が乗った肉と、バターがたっぷり使われた濃厚なソースは、普段質素なものしか受け付けていない私の胃袋には、あまりにも刺激が強すぎたのか。
その日の放課後。
結果として私は生徒会を休み、保健室のベッドの上で丸くなっていた。
胃もたれと気持ち悪さで、脂汗が滲んでいる。
貴族様の食事、半端ない……。
その時ガラッ、と保健室の扉が開き、血相を変えたグレイシア様が飛び込んできた。
ベッドの上の私を見て、彼はひどく痛ましそうな顔をする。
「話は聞いた。その……すまなかった」
「いえ。元はと言えば私の胃が貧弱なだけですから。お気になさらず」
「本当にすまない。俺が無理やり……」
「ですから、気にしていません。ただ、食べ物の差し入れは私の体質に合わないので、今後は不要です。生徒会の仕事も変わらずしっかりこなしますので」
私が淡々と告げると、グレイシア様は苦しげに顔を歪めた。
「だが、俺は……」
何かを言いかけて、彼は口を閉ざす。
その表情を見た瞬間、昼休みに感じた小さな違和感が、不意に頭をよぎった。
私の昼食を見て、『噂はどうやら本当だったようだな』と言ったこと。
そして、ほんの一瞬だけ向けられた、あの痛ましげな眼差し。
「……グレイシア様」
「なんだ」
「昼間に言っていた『噂』って、もしかして私のことですか?」
グレイシア様の肩がわずかに強張る。
その反応だけで、答えは十分だった。
「……誰かから、私の過去を聞いたんですね」
「……ああ」
しばしの沈黙のあと、グレイシア様は観念したように頷いた。
「その、君が、ずっと苦労してきたと聞いたんだ。孤児院に入る前も、その後も、決して恵まれた生活ではなかったと。今日、君の昼食を見て……だから少しでも力になりたいと、そう思って」
その言葉を聞いた瞬間、私の胃の痛みとは別の、冷たくて硬い何かが胸の奥で首をもたげるのを感じる。
「……あの食事は私への施しだったということですか」
「っ、そういう意味ではない!」
「では、どういう意味ですか? つまり私が可哀そうだから、同情したと。そういうこと、ではないんですか」
私はゆっくりと体を起こし、痛む胃を押さえながらもベッドから床へ降りた。
そしてこちらを見つめるグレイシア様の視線を正面から受ける。
彼の瞳に浮かぶ感情……それだけではないけれど、その中には、確かに憐みの色も見て取れた。
――ああ、強者が弱者へ向ける、あの可哀そうなものを見る目だ。
私は乾いた笑いを浮かべながら、ゆっくり口を開いた。
「私の過去、ですか。そうですね、路地裏に捨てられ、ごみを漁って毎日必死に生きてきましたよ。大人に殴られ、自分より体の大きな子どもに蹴られ、パンの耳ひとつを奪い合う毎日でした。冬の寒い日は、凍え死なないようにごみ山の中にうずくまって眠りました」
そのことを知っているはずのグレイシア様だけど、本人の口から知らされるのはまた別なのか、きゅっと唇を噛み締めて痛ましげな視線を向ける。
それを見ながら私は続ける。
「六歳の時、孤児院に保護を求めたことがあります。でも、当時は予算不足で食い扶持がないと断られました。それでも、私は生きることを諦めませんでした」
そう、私は諦めなかった。
捨てられていた本や、店の看板、びりびりに破られて捨てられた何かの書類の束。
読めないなりに、文字という文字を必死に目で追った。
知識があれば、いつかこの泥水の中から這い上がれると信じて、体中を痣まみれになるまで蹴られたって、歯を食いしばってあの地獄を生き抜いた。
「十二歳になって、ようやく孤児院に引き取られました。元教師だった院長先生から読み書きを教わり、死に物狂いで勉強しました。そうやって、私は自分の足で立ち、自分の力でこの学園の特待生になったんです」
私はグレイシア様を真っ直ぐに見据えた。
「辛いことはたくさんありました。でも、私は自分で生き抜き、自分で学び、自分の力でここまで来たんです。私には、その誇りがあります。……だから、私の人生を、私自身を、勝手に可哀想な人にしないでもらえませんか。私は同情されることが――何よりも嫌なんです」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、静かだった。
グレイシア様が息を呑むのが見える。
保健室は、死んだように静まり返っていた。
グレイシア様は、何かを言おうとして口を開き、そしてひどく絶望したように顔を歪めて俯いた。
分かっている、彼に悪気はない。
けれど、彼が向けてくれた優しさは、私にとっては、最も大切にしている尊厳を足蹴にされたに等しいのだ。
「……失礼します」
私はそれだけ告げると、彼を残して保健室を出る。
グレイシア様が追いかけてくることはなかった。
◆
保健室での一件から、グレイシア様との空気はひどく微妙なものになっていた。
朝すれ違えば挨拶はするし、生徒会室での業務連絡も滞りなく行う。
彼の方からあからさまに私を避けているわけではないけれど、かといって、以前のように私の荷物を奪って運ぼうとしたり、意味もなく距離を詰めてきたりすることはなくなった。
なのに、なぜだか前よりも居心地が悪いと私は感じていた。
そもそも、彼が純粋な善意と心配からサンドイッチをくれたことは分かっているのだ。
同情されたことが嫌だった。
その気持ちは今でも変わらないし、あの時に言ったことを間違いだったとも思っていない。
けれど、彼に悪意がなかったことまで分かっていたのに、私は腹を立てた勢いのまま、その善意までまとめて切り捨ててしまった。
冷静になってみれば、もう少し言い方というものがあったのではないか。
私の誇りを分かってほしいと訴えることと、私を心配してくれた彼の気持ちを否定することは、本来なら別の話のはずだ。
だから生徒会室にグレイシア様と二人きりになったタイミングを見計らって、私は自分から口を開いた。
「グレイシア様」
「……なんだ」
書類から顔を上げた彼の声は、どこか硬かった。
それでも私は怯まずに言葉を続ける。
「その……保健室でのことですが、少し言い過ぎました。グレイシア様が純粋に私の体を心配してくれたことには、感謝しています。そのことまで否定するような言い方をしてしまって、すみませんでした」
私が頭を下げると、彼ははっとしたように息を呑み、そして苦しげに目を伏せた。
「君が謝ることではない。俺の独りよがりな行動が、君の誇りを傷つけた。悪いのは完全に俺だ」
「いえ、私も……少し、意固地になっていた部分がありますから」
「…………」
それで、この話は終わった。
少なくとも、お互いに謝るべきことは謝り、表面上の問題は解決したはずだった。
でも私たちの間のギクシャクした空気は、なぜか一向に晴れなかった。
以前のように「氷の王子が平民特待生に惚れている」などという噂が立つこともなくなり、私の学園生活は平和を取り戻した。
ただ、グレイシア様が私に向ける視線には、どこか遠慮がちな、触れるのを躊躇うようなものが混じるようになった。
見かねた生徒会長が、なんとか間に割って入ろうとしてくれたこともあった。
「お前ら、なんか最近空気重くないか? ほら、今日は仕事も早く終わったし、三人で新しくできた街のカフェでも――」
「すみません、私、今日は図書室で調べものをしないといけないので」
「悪いが俺も先に失礼する」
「……お、おう。そうか」
会長の気遣いを、まるで示し合わせたかのように、見事に二人同時で真っ二つに斬り捨ててしまったこともある。
どうすれば元のように、もう少し自然に言葉を交わせる関係に戻れるのか。
私にも分からなかった。
そんな膠着状態が続いた、ある日の放課後。
一人で残りの仕事を片付けて帰ろうとした私を、グレイシア様が呼び止めた。
「アン。少しだけ、時間をくれないか」
廊下に響いた彼の声は、これまでにないほど真剣だった。
私は足を止め、振り返る。
夕日が差し込む廊下で、私たちは少し距離を開けて向かい合った。
「……保健室での話の続き、なんだが」
彼は私から逃げないように、真っ直ぐに私の目を見た。
「俺は、君が苦労して生きてきたと知って、確かに君を『可哀想な人だ』と哀れんだ。そして、俺にとって当たり前に手に入るものを与えることが、君のためになるのだと勝手に決めつけた」
「…………」
「だが、違った。君が怒ったのは、助けられることそのものが嫌だったからじゃない。俺が君の過去を知っただけで、君を勝手に『哀れな人間』だと決めつけたからだ」
私はわずかに目を見開いた。
グレイシア様は、言葉を探すように一度息をついてから続ける。
「俺は君が何を考えているのかも、何を望んでいるのかも確かめなかった。ただ、自分が正しいと思うものを押しつけただけだった。……それでは、最初に君から叱られた頃と何も変わっていない」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
――世の女性が全員、自分に興味を持っていると勘違いしていませんか。
初めて彼に真正面からそう言った日のことを思い出す。
あの時も彼は、私自身を見る前に、『自分に言い寄ってくる女』だと勝手に決めつけていた。
そして今度は、『可哀想な孤児』だと決めつけた。
正反対に見えて、やっていることは同じだったと。
彼は深く息を吸い込んだ。
「だから……これから、君自身のことを知る機会を、俺にくれないだろうか。君に怒られたら反省する。……時間はかかるかもしれないが、俺は、君と対等に向き合える人間になりたい」
それはひどく不器用で、けれど真っ直ぐな言葉だった。
私は少しだけ目を瞬いた。
私の中でくすぶっていたモヤモヤが、静かに溶けていくのを感じる。
本当に、この人は根が真面目なのだ。
無自覚に傲慢でひどく不器用なくせに、自分の過ちを真っ向から認めて変わろうとする強さを持っている。
――なんて、私が偉そうに評価するのも少し違う気がする。
考えてみれば、私だって最初からずっと、グレイシア様のことを『女嫌いで傲慢な氷の王子』だと思っていた。
実際、最初の態度はこう、あれだったので、その評価を完全に撤回するつもりはないけど。
それでも、こうして話してみなければ分からなかった部分がたくさんあったのは、私も同じなのだ。
とはいえ、気になることはある。
「……どうして、そこまで私を気にするんですか?」
この学園には、私以外にも平民出身の生徒はいる。
生徒会だって私以外の生徒もいる。
最初は、私が遠慮なく文句を言ったのが珍しかったからだろうかと思っていた。
でも、それだけで毎朝わざわざ挨拶をして、教室まで迎えに来て、荷物を持とうとして、嫌がらせのたびにあれほど心配するものなのか。
ちなみに生徒会長だって、同じ生徒会の仲間として私を心配してくれていた。
けれど、グレイシア様のそれは明らかに度合いが違う。
何かあるたびに自分のことのように顔色を変え、すぐに飛んでくるのだ。
同じ生徒会の仲間だから?
それとも、自分に媚びない平民が物珍しかっただけ?
そんな私の言葉に、グレイシア様は一瞬だけ黙り込む。
そして、何か重大なことを告げるような気負いも照れた様子もなく、ごく落ち着いた調子で答えた。
「君が好きだからだ」
「…………はい?」
――思考が、完全に停止した。
好き、すき、スキ………………好き???
あまりにも予想外すぎる角度からの言葉に、私の頭は真っ白になった。
冗談抜きで、一ミリも、微塵も、そんな可能性は考えていなかった。
「へ、あ、えっと……?」
普段なら思ったことは割とすぐ口から出てくるはずなのに、今ばかりは何を言えばいいのか一つも浮かばない。
口が、パクパクと金魚のように開閉するばかりで音を出さない。
そんな私を見て、グレイシア様はどこか晴れやかな、完全に吹っ切れたような顔になり、更にとんでもないことを言ってきた。
「返事はいらない」
「……は?」
「今の俺が、君に今すぐ答えを求めるのは違うと思っている」
彼は私の戸惑いなどお構いなしに、勝手に言葉を続ける。
「ただ、君に選ばれるような人間に、俺自身がなりたいとは思っている。……それだけだ。引き止めて悪かったな。気をつけて帰れ」
そう言い残すと、彼は踵を返し、振り返ることなく足早に去っていった。
夕焼けに染まる廊下に、私一人がポツンと残される。
遠ざかる彼の背中を見つめながら、停止していた私の思考がようやくゆっくりと動き始めた。
「……いや、何を一人で吹っ切れてるの」
勝手すぎる。
勝手に自己完結して、勝手に人の心臓に爆弾を投げつけて、自分だけすっきりした顔で帰っていくなんて。
「……っ、本当に、面倒くさい人!」
誰もいなくなった廊下で、私は自分の顔が熱くなるのを感じながら、一人で頭を抱えた。
◆
あの唐突すぎる爆弾告白の後、グレイシア様がどう出てくるかと内心少しだけ警戒して登校した私だったけれど、その心配は杞憂に終わった。
グレイシア様は、必要以上に距離を詰めてくることはなかった。
だからといって、以前のように露骨に私を避けるわけでもなく、前みたいに生徒会室では普通に仕事の話をするし、手が空いた時にはちょっとした雑談もするようになった。
変わったのは、私に対する態度だけではない。
「グレイシア様、ずっとお慕いしておりました! どうか、これを受け取ってください!」
中庭で彼が他学年の女子生徒から告白されている場面に遭遇したことがあった。
以前のグレイシア様なら、完全に無視して通り過ぎるか、「迷惑だ」と氷点下の声で切り捨てていただろう。
しかし、今の彼は違った。
告白されると一瞬だけ顔を引きつらせてはいたものの、立ち止まり、相手の目をきちんと見てから告げた。
「すまない。君の気持ちは受け取れない。だが……伝えてくれたことには感謝する」
そう言って、小さく頭を下げたのだ。
振られた女子生徒は泣き出してしまったが、どこか晴れやかな表情でその場を去っていった。
この『氷の王子』の変化に、学園中はひっくり返るほど驚いていた。
「いやあ、本当に丸くなったな、グレイシア」
「……礼儀を改めただけだ」
「それで済ませるには、だいぶ変わったぞ。昔のお前なら、告白された女の子たちはショックで三日は寝込んでただろうよ」
生徒会室で、会長たちがニヤニヤと彼をからかっている。
グレイシア様はバツが悪そうにそっぽを向いていたが、否定はしなかった。
私は書類の束を整理しながら、そんな彼を横目で観察する。
以前なら、彼が誰にどんな態度を取ろうと、生徒会の仕事に支障さえなければどうでもいいと思っていた。
それなのに最近は、こうして何気なくグレイシア様の様子を目で追ってしまうことが増えた気がする。
……変わったのは、もしかするとグレイシア様だけではないのかもしれない。
恋愛感情かと問われればまだ首を傾げてしまうけど、人として好ましいかと言われれば、間違いなく「はい」と答えられるくらいにはなっていた。
そんな日々を繰り返しているうちに、いつの間にか、グレイシア様と二人きりで生徒会室に残ることにもすっかり慣れていた。
ある日の放課後も、他の役員たちが先に帰り、生徒会室には私とグレイシア様だけが残っていた。
偶然にも、あの日――私が彼に「勘違いでは?」という言葉をぶつけた日と同じように、二人きりだった。
けれど、あの時のように息が詰まるような重い沈黙はない。
ただ、カサカサと紙をめくる音だけが心地よく響いている。
むしろ今では、この静けさを心地いいと感じている自分に気づいて、少しだけ不思議な気分になった。
ふと、私は手を止め、何気なく尋ねてみた。
「あの、グレイシア様」
「なんだ?」
「私のことが前に好きだと言っていましたけど」
「……ああ」
「あれって、本当の本当ですか?」
ピタ、と彼の手が止まる。
けれど、顔を上げた彼の瞳には、あの日のような冷たい拒絶とは違って、ひどく穏やかな光が宿っていた。
「本当だ」
一切の迷いがない、真っ直ぐな肯定だった。
私が黙っていると、彼はペンを置き、静かに語り始めた。
「俺は今まで、女性から向けられる好意は、すべて同じものだと思っていた。顔や、家柄や、権力しか見られていないと思っていた。だから、全員遠ざければいいと考えていたんだ」
「……ええ」
「だが、俺は何もしていない相手にまで失礼だった。君に言われなければ、俺はあんなふうにふんぞり返ったまま、一生気づかなかっただろうな」
「それは……よかったですね」
私が淡々と返すと、グレイシア様は少しだけおかしそうに笑った。
その柔らかい笑みを見て、私は少し意外に思う。
氷の王子と呼ばれていたグレイシア様は、こんな風に、年相応の青年のような顔で笑えるのだ。
「君は俺に一切媚びなかった。だが、礼儀は欠かなかった。俺が嫌がらせの責任まで自分にあると思い込んだ時には、『悪いのはやった本人だ』とはっきり言った」
「…………」
「君を階段から落とそうとした相手が落ちかければ、迷わず助けた。自分が悪かったと思えば、俺にだって頭を下げた。そして、自分が嫌なことをされた時は、相手が公爵家の人間だろうと容赦なく怒った」
「……そうですね」
確かに全部やった。
でも、どれもグレイシア様に好かれようと思ってしたことではなく、その時の私がそうしたかったからしただけだ。
まるでそれを見透かしたかのように、彼は続けた。
「君は、相手が誰だからという理由で、自分の基準を曲げないんだなと思った」
「…………」
「最初は、それがただ珍しかった。次は、面白いと思った。気がつけば、今日は何を言われるんだろうと考えるようになっていた。姿を見れば目で追っていたし――他の男と話していればその会話が早く終わればいいと思っていたし、割って入りたい衝動を抑えるのに少し苦労した」
まさかそこまでの感情を抱いているとは知らなかった。
けれど、グレイシア様の表情は真剣だ。
「おそらく、一つの出来事がきっかけだったわけじゃない。君と話して、怒られて、呆れられて、時々笑われて……そうしているうちに、君だから気になるようになった」
夕日に照らされた彼の横顔は、とても綺麗だった。
「だから、好きになった。今も、好きだ」
甘い言葉でも、情熱的な口説き文句でもなく。
ただの事実を述べるような誠実な二回目の告白に、私はしばらく考え込んだ。
最初に告白された時は、あまりにも予想外すぎて驚くことしかできなかったけど、今は少しくらい、自分の気持ちを考える余裕がある。
たぶん私はまだ、この人に恋をしているわけじゃない。
でも、もっと話してみたいとは思っている。
グレイシア様がこれからどんなふうに変わって、私が知らないどんな顔を見せるのか、それを近くで見てみたくなった。
それに、以前なら二人きりになるだけで息が詰まりそうだったのに、今はこうして向かい合って話している時間を、案外心地いいと思っている。
だったら、今はそれで十分なのかもしれない。
私は少しだけ考えてから、口を開いた。
「では……まずはお友達からではどうでしょうか」
「恋人ではなく?」
「物事には順序がありますよ、グレイシア様」
「……善処する」
彼は少しだけ不満そうに眉を寄せたが、その口元は、隠しきれないほど嬉しそうに綻んでいた。
で、これで話は終わり――かと思ったのだが。
グレイシア様は何か言いたげにこちらを見ている。
「……まだ何か?」
「いや、その……一つ、確認しておきたいことがある」
「なんですか?」
さっきまであんなに堂々と告白してきたくせに、今度は妙に言いづらそうに視線を逸らした。
「君の好みは、今も『年下で可愛いわんこ系』なのか?」
「……はい?」
あまりにも唐突な質問に、何の話をしているのか分からず首を傾げる。
するとグレイシア様は、ますます言いづらそうに眉間の皺を深くした。
「以前、君の教室の黒板にそう書いてあったと聞いた。その……君自身が書いたのだろう?」
「黒板……?」
記憶を探り――数秒後、ようやく思い当たった。
「あっ」
あの嫌がらせの落書きに、私が書き足した一文のことを言っているらしい。
そういえば黒板事件の直後にも、この人はわざわざ『本当に犬が好きなのか』なんて聞いてきた気がする。
あの時はなぜそんなことを聞くのかさっぱり分からなかったけど……まさか、あれからずっと気にしていたのだろうか。
「ええと……まあ、好みという意味では、そうですね」
「…………そうか」
グレイシア様が、目に見えて沈んだ。
「俺は君より年上だし、可愛いもわんこも当てはまらない自信がある。……努力や反省ではどうにもならない部分だな」
「ええと、そうですね」
改めて目の前のグレイシア様を眺めてみる。
艶のある髪に、すっと整った目元。
黙っていれば近寄りがたいほど端正な顔立ち。
わんこというより、どう考えても気難しい猫だ。
それも、触ろうとすれば引っかいてきそうな高級猫。
「…………」
私の答えに、グレイシア様は俯いたまま、なにやらものすごく真剣に悩み始めた。
そんなに落ち込まれても困る。
そもそも好みなんて、絶対にその条件の相手しか好きにならないという意味ではないんだけど。
けれど、私が口を開く前にグレイシア様はぱっと顔を上げた。
「では、他で補うしかないな。俺にできる範囲で好かれる努力をする」
「……お友達から、と言ったばかりなんですが」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ。まずは友人で構わない。君が困った時に真っ先に頼るのも、嬉しいことがあった時に真っ先に話したくなるのも、いずれ全部俺になればいい。その先で、恋人に選んでもらう」
「重いですね」
「自覚はある」
その即答っぷりに、私は思わず噴き出してしまう。
でもまあ――こういう人と友達になるのも、案外悪くないのかもしれないと、そう思った。
◆
あれからしばらくして、学園では妙な噂が定着していた。
曰く、『あの氷の王子を溶かしたのは、平民特待生のアンらしい』と。
私としては甚だ不本意である。
溶かしたつもりなど毛頭ない。
そもそも、変わろうと決めて実際に行動したのはグレイシア様本人だし、私の功績みたいにされても困る。
あと、グレイシア様は毎朝私のもとに、必ず挨拶をしにやってくるようになった。
「おはよう、アン」
「……おはようございます、グレイシア様。あの、挨拶をする距離が近すぎませんか?」
教室の入り口で、彼が無駄に整った顔をすっと近づけてくる。
私が一歩引くと、彼はさらに半歩踏み込んできた。
「俺たちは友人になったんだろう?」
「それは友人の距離感ではありません」
「ダニエルは俺にこの距離感で話しかけてくるが?」
「生徒会長はあなたの同性の幼馴染じゃないですか。あとあの人は基本的に距離感がおかしいので参考にしないでください」
「押して駄目ならもっと押せ、とダニエルに教わったんだが」
「今後、恋愛に関してあの人の助言を聞くのは禁止します」
私がジト目で睨むと、グレイシア様は微かに口角を上げて笑う。
それを見ながら思う。
……この人、最近ちょっと楽しんでないだろうか。
他にも、私が図書室で下級生の年下わんこ系の男子生徒に政治学の勉強を教えていたら。
「よし、ここの年号の覚え方はね――」
「ひゃいっ!」
私がノートを指差した瞬間、後輩の男子がビクッと肩を跳ねさせ、小さな悲鳴を上げた。
彼は怯えたように図書室の入り口の方へ視線を泳がせている。
「…………」
振り返らなくても分かったけど、確認のためにそちらに目線を向けたら、本棚の影から、絶対零度を下回るような冷たすぎるオーラがこちらに向かって放たれている。
私はため息をつき、後輩に「少し待っててね」と微笑んでから、本棚の影へと歩いていった。
そこには案の定、腕を組み、険しい顔をしたグレイシア様が立っていた。
「グレイシア様」
「なんだ」
「何をしているんですか?」
「君と一緒に帰ろうと思って、迎えに来た」
「待ち合わせの約束なんてしてませんよね?」
「していないな」
「…………」
友人から始めると言ったはずなのに、着実に外堀を埋められている気がする。
まあ、それはひとまず置いておこう。
「それで、今ものすごく分かりやすく嫉妬しましたね?」
「ああ」
一切迷わず認めた。
「否定すらしないんですね」
「嫉妬しているのは事実だからな」
堂々と胸を張って言い切る彼に、私はもう反論する気力をなくした。
「……はあ。あの子のキリのいいところまで教え終わるまで待って下さい」
「分かった。待っている」
「あと、威圧するのも禁止です」
「善処する」
「そこは断言してください」
そう言うと、グレイシア様は大人しく少し離れた席に座り、私が終わるのを静かに待ち始めた。
後輩のことが気になるらしく時折視線を向けているものの、こちらへ来ることも、急かすこともしない。
その姿は、主人の帰りを待つ大型犬のように見えなくもない。
年上で、気難しい猫みたいな顔をしているくせに、意外と中身は、重たい大型犬なのかもしれない。
氷が溶けたら溶けたで、グレイシア様は意外と重いようだ。
……まあ、嫌ではないけれど。
私は緩みそうになる頬をごまかすように小さく息を吐き、後輩の元へ戻っていった。




