言葉が通じないキュ
待機生活が始まりました。
小屋で引きこもってても仕方ないと思った聡美、街に出るが・・
第4話 言葉が通じないキュ
爽やかな鳥の囀りで、聡美の異世界二日目の朝が明けた。
「……Wi-Fiの通知音もない世界って、静かすぎて逆に不安キュ。スマホ依存症の自覚はあったけど、ここまで落ち着かないとは……」
朝一番にスマホを確認する習慣が、異世界でも抜けない。
画面を開く。もちろん圏外。通知はゼロ。
バッテリーは七十六パーセント。
「……充電できないの、じわじわ恐怖キュ」
コンセントも、モバイルバッテリーもない世界。
スマホはいつか必ず、ただの四角い板になる。できるだけ節電するしかない。
聡美は諦めて画面を消し、布団から這い出した。
生活のリズムを整えるため、まずは竹ぼうきで小屋の前を掃く。
サワサワと掃きながら、聡美はぼんやりと考えた。
(今日はどうするキュ)
神の「上に確認中」という言葉を信じるなら、しばらくはここで待機するしかない。
だが、何もしないで小屋に篭もっているのも限界がある。
「……人の顔を見るだけでもいいキュ。せめて外に出るキュ」
掃除を終えると、聡美は意を決して結界の外――人里の方へと足を向けた。
* * * * *
しばらく歩くと、石畳とレンガ造りの小さな街並みが見えてきた。
市場は活気に溢れ、色とりどりの看板がずらりと並んでいる。
果物、野菜、焼きたてのパン、干し肉、魔法っぽい光を放つ瓶。
見たことのない素材で作られた衣類。用途不明の金属器具。
目に飛び込んでくるもの全てが、異世界だった。
そして、聡美は大事なことに気づいた。
「……字が、読めないキュ」
そこに書かれているのは、ミミズが踊ったような未知の記号の羅列。
パン屋なのか武器屋なのか、看板の絵から推測するしかないが、その絵柄すら独特すぎて判別が難しい。
楕円に毛が生えた絵は何を示しているのか。
三角が重なった模様は何屋なのか。
「……これはもはや暗号キュ」
さらに、人々の会話が耳に入る。
「グリャ・ハルミド・セラ〜?」
「フムリ、ラッカ・ヴォルノ〜」
「……何ひとつ、単語が拾えないキュ」
英語でも中国語でも韓国語でもない。
大学で少しかじったドイツ語でもない。
完全に、聞いたことのない言語だった。
なろう系小説の知識を総動員する。
普通はここで自動翻訳スキルが発動するはずだ。
気づいたら相手の言葉が分かるようになっている、あの定番の展開。
慌ててステータス表を確認する。
──【言語スキル:なし】──
「……ないキュ!!! 設定漏れキュ! さすが役所仕事キュ!!!」
* * * * *
絶望が顔に出たのか、通りすがりのおじさんが不思議そうな顔でこちらを見た。
聡美は慌てて表情を取り繕い、何事もなかったように歩き出した。
「……みっともないとこ見せたキュ」
とはいえ、落ち込んでいても始まらない。
絶望しつつも、空腹には勝てない。
香ばしいパンの匂いに導かれ、それらしき店へ入る。
薄暗い店内に、棚いっぱいのパンが並んでいた。
丸いパン、細長いパン、平たいパン。見慣れた形と、見たことのない形。
窯から出したばかりのものもあって、湯気がふわっと立ち上っている。
「こ、これキュ」
必死の指差しジェスチャー。
カウンター越しに、茶色い丸パンを示す。
聡美は、リュックの奥底にあった銅貨を差し出した。
店員は怪訝な顔をしながらも、パンを袋に詰めてくれた。
「グル・ナッサ〜」
「……ありがとう、たぶんありがとうキュ」
なんとか買い物を成立させる。
聡美は袋を受け取り、丁寧に頭を下げた。
店員は少し驚いた顔をして、それからにっこり笑った。
「……笑顔は万国共通キュ」
その笑顔が、少しだけ胸に温かかった。
* * * * *
外のベンチでパンをかじる。
「……普通に美味しいキュ」
素材の味がする、素朴なパンだった。
噛むほどに小麦の甘みが広がって、ほんのりとした塩気がいい。
元の世界のコンビニパンよりも、ずっと素朴で、でも悪くない。
ただ、周囲の人々は楽しそうに言葉を交わし、商品を手に取り、笑っている。
自分だけが、透明な壁の向こう側にいるような気がする。
「……なつみちゃんなら、もう友達を作って奢りで甘いもの食べてるキュ……」
陽キャのなつみちゃんなら、街の人達とすぐに打ち解けるに違いない。
深いため息が漏れた。
「……でも、今日のところは、パンが買えただけで合格キュ」
小さな達成感を噛みしめながら、パンをもう一口かじった。
* * * * * *
天界マネーの奇跡
翌日。
現実は容赦なかった。
「……もうお金ないキュ」
手元に残っているのは、昨日のパンの欠片だけ。
異世界生活三日目にして早くも一文無し。
「昨日、銅貨全部使っちゃったキュ……計画性なかったキュ……」
自己嫌悪しても後の祭りだ。
ふらふらと昨日のパン屋の前に立ち尽くし、焼きたての香りを恨めしそうに吸い込む。
お腹が情けない音を立てた。
「……お金さえあれば、言葉が通じなくても何とかなると分かったのに、お金がないキュ」
本末転倒だ。
とぼとぼと帰ろうとした、その時だった。
腕に巻かれた、あの転生神から支給されたリストバンドが、かすかに青く光る。
「……? 今、鳴ったキュ?」
昨日まで何の反応もしなかったリストバンドが、微かに光を放っている。
聡美は恐る恐る、パン屋のレジ横にある石の台にリストバンドをかざした。
「ピッ」
軽快な音が鳴った瞬間、店員の表情がぱっと明るくなる。
「グルナッサ〜!」
笑顔でパンを袋に詰めて差し出してくれた。
「……え? 通ったキュ? 今、普通に買えたキュ?」
視界に半透明のウィンドウが浮かび上がる。
──【天界ウォレット残高:5,000G】──
──(※G=神貨)──
「神貨って、なんかすごくありがたい響きキュ……」
つまりこれは――神様経費、電子マネー方式。
「ゴッドマネー・イズ・キングキュ」
神の評価、わずかに上昇。
「でも先に言えキュ……」
* * * * * *
ニート生活の始まり
天界マネーという経済的バックアップを得た聡美は、翌日から遠慮がなくなった。
「これもキュ、あれもキュ、それもキュ……」
パン屋で三種類のパンを選び、八百屋らしき店で色鮮やかな果物を買い、甘い香りのする飲み物屋にも立ち寄る。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
リストバンドが反応するたびに、不安が少しずつ安心へ変わっていく。
「言葉が通じなくても、お金さえあればなんとかなるキュ……」
この世界の人々は、皆親切だった。
言葉が通じなくても、リストバンドで支払いをすれば笑顔で応じてくれる。
聡美が困った顔をしていると、身振り手振りで説明してくれようとする人もいた。
「……異世界も、人間は優しいキュ」
両手いっぱいの買い物袋を抱え、小屋へ戻る。
机に戦利品を並べる。
•焼きたてパン三種類
•紫色の果物
•甘いドリンク
•謎のチーズ
•瓶入りまんじゅう(補充済み)
「……これで数日は戦えるキュ」
満足げに腕を組む。そして、ふと止まる。
「……私、何と戦う予定だったキュ?」
魔王討伐という使命は、いつの間にか頭から消えていた。
「……これは偵察キュ。グルメ偵察キュ」
自分に言い聞かせる。
橘聡美の異世界生活は、魔王とは別方向に、しかし確実に動き始めていた。
【次回予告】
武器屋で不思議な小刀と出会う。
「なんとなく、呼ばれてる気がするキュ……」
そして、天界マネーに新たな問題が。
第5話「買い物するキュ!」




