トイレが無いキュ!
スキル無し、装備無しで始まった、異世界待機生活
聡美に第1の試練が襲う!
第3話 トイレが無いキュ!
「異世界待機」という名の放置状態が始まって、数時間。
勇者としての覚悟を固めるより先に、橘聡美は人間として避けられない現実に直面していた。
お腹が、限界を訴えている。
「……あの、神さま……トイレはどこキュ?」
小屋の中を何度も見回す。隅、机の下、藁布団の裏。もちろん、それらしき設備はない。外にもない。水場も見当たらない。
『え? トイレ?』
どこか間の抜けた調子で、神の声が響く。
「そう、トイレキュ。異世界に来たからって、内臓が魔法仕様になったわけじゃないキュ。生理現象は普通にあるキュ」
これは勇者の問題ではない。人類共通の切実な課題だ。
神は雲のような髪をかいた。その仕草だけで、嫌な予感がした。
『えーっと……この世界、まだ水洗文化が導入されてなくてね。文明レベルは中世設定なんだ』
「えっ……まさかの野外キュ?」
最悪の想像が脳裏をよぎる。森の奥、木陰で、虫に怯えながら――
「ちょ、ちょっと待ってキュ! 二十一世紀の日本で育った人間に、いきなりサバイバルは無理キュ!」
『いや、さすがに野外というわけではないよ』
神は小屋の裏を指差した。
『裏に“聖なる穴”があるから、そこを使って』
「聖なるって言っても、ただの穴キュ!」
小屋の裏へ回る。そこには確かに穴があった。
木の板で囲われた、直径三十センチほどの穴。覗き込むと、暗い空洞が続いている。
「……これ、ボットンキュ」
『正式名称は“自然循環型排泄変換システム”。高次エネルギー循環に基づく魔法的分解機構を――』
「言い方を整えても素掘りの穴キュ!!」
文明の後退を受け入れる前に、さらに追撃が来る。
『紙の代わりにこの“癒しの葉”を使ってね』
差し出された葉っぱを、恐る恐る触る。
ざらざら。ごわごわ。
「……お尻の尊厳が危ないキュ……」
脳裏に浮かぶ、二枚重ねの柔らかなトイレットペーパー。保湿成分配合。
『勇者は試練を乗り越えて強くなる』
「方向性が違うキュ! トイレで強くなる勇者いないキュ!」
ウォシュレット完備の生活を思い出し、深く項垂れる。
「……温水洗浄便座って、偉大だったキュ……」
魔王以前に、生活水準が急降下している。
* * *
神お手製の村外れの小屋。
『結界を張ってあるから、魔物も泥棒も入れない』
「つまり、誰も入ってこれないキュ?」
『悪意ある存在は弾く結界だから……結果的にはそうだね』
「牢屋と同じキュ!」
改めて小屋を見回す。
広さは六畳ほど。天井は低く、背伸びすれば手が届く。窓は一つ。ガラスではなく半透明の素材が張られている。床板の隙間から地面が見える。
藁布団が一つ。ささくれた机。三本脚の椅子。
そして、まんじゅうの入ったカゴ。
「……これが全財産キュ」
机の上には一冊の本。
『異世界生活入門(第2版)』
「第2版ってことは、第1版があったキュ?」
『初版は“勇者は三日断食すべし”と書いてあって、何人か倒れた』
「改訂理由が怖いキュ!」
壁には紙が貼られている。
──上に確認中。結果が出るまで頑張って生きること。──
「仮配属中の新入社員みたいキュ……」
窓の外では、虹色の結界が淡く揺れている。
安心と孤独が同時に押し寄せる。
「……誰もいないキュ」
この世界に、自分を知る人間はいない。
することもなく、本を開く。
第一章:勇者の心得
第二章:基礎魔法
第三章:武器の扱い方
第四章:パーティ編成
第五章:ダンジョン攻略
第六章:魔王討伐への道
「……全部、関係ないキュ」
これは本来ここに来るはずだった誰かのための本だ。
聡美はリュックから名札を取り出す。
橘 聡美。
ウェルシアの制服、レジ、大学の講義、カフェでの雑談。
すべてが遠い。
「私、ここで何すればいいキュ……」
答えはない。
「……とりあえず、生きるキュ」
魔王討伐より先に、生活維持。
* * *
夜。
藁布団に横になる。梁の隙間を光る粉が漂う。
「……寒いキュ」
布団は薄い。藁がちくちくする。
「……お腹すいたキュ」
夕食はまんじゅう一個。残り二個。
井戸水は少し鉄っぽい味がした。
「お腹壊さないといいキュ……」
森は真っ暗。風と葉の音、遠い獣の声。
「……怖いキュ」
スマホを取り出す。圏外。バッテリー78%。
光が温かい。
「……節電キュ」
闇が戻る。
「……帰りたいキュ」
アパート、ユニットバス、Wi-Fi、コンビニ、ウェルシア。
自分が消えたことに、誰か気づいているだろうか。
「……誰も気づいてないかもキュ」
胸が締めつけられる。
泣きそうになる。
でも、泣いても何も変わらない。
「よし、元の世界に返してもらうキュ」
できることは、生き延びること。
「明日は水を確保キュ。食べ物も探すキュ。村に行って情報収集キュ」
橘聡美の異世界最初の夜は、不安と静寂と、小さな決意の中でゆっくりと更けていった。
異世界、思ってたのと違うキュ。
次回、村へ。
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