9 守れなかったもの
佐倉は座椅子の上で初めてのアルバイトに向けて荷物整理をしていた。
「制服はあっちにあるから……あれ、何も要らないじゃん」
佐倉は座椅子に背中を預けたまま仰向けに倒れ込んだ。
「佐倉ちゃーん、もうバイト出る時間よ」
東川が立ったまま佐倉を見下ろして声を掛ける。
「行きましょう。初出勤。今日のシフトってケンくんは夕方までだっけ?」
「うん」
佐倉はスマートフォンを取り出す。何かのウェブサイトを調べているようだった。
「今日の夜、川沿いで花火やるんだってー。一緒に冷やかしに行こう」
佐倉は割れたスマートフォンの画面を見せる。
花火大会の案内だった。
「……花火なんて何年ぶりだろ。20年近く生で見てないかもな」
「マジ?じゃあ行くしかないじゃん!そうだ、ケンくんのバイト後、16時に公園集合にするか!」
佐倉は口元をニッとさせて視線を東川に向ける。
「――16時……公園……」
東川は足元のさらに下を見つめていた。額や首元には冷や汗が滲み、呼吸が浅くなる。
思い出したくないのに、忘れてはいけない記憶がちらつく。
目の前が真っ白になり、意識が遠のきそうだった。
「ケンくん、大丈夫?」
佐倉は東川の肩を軽く叩く。東川はハッとして佐倉を見つめる。
「ケンくん都合悪そうだから花火は止めにしようか」
佐倉はその場を取り繕うように早口で言う。東川は浮かない顔のまま、沈んだ声で答えた。
「…………ごめんな、佐倉ちゃん」
「ううん、具合は大丈夫?」
「大丈夫」
二人はそこから沈黙し、しっとりとした足取りで玄関から出た。
「お疲れ!今日は佐倉ちゃんの初日だから、まかないもオシャレにしてみたよ」
アルベルトの店長が威勢のいい声を上げる。
「ありがとうございます!おいしそう!これからもよろしくお願いします」
佐倉はニコニコしてナポリタンを食べ始めた。
アルベルトのバックヤードで、少し遅めの昼休憩に入った佐倉と藤崎がまかないを食べていた。
藤崎は佐倉の様子を見て安堵したような表情をしていた。
「佐倉ちゃんよろしくね~。今日はお疲れ様。大変だったでしょ~」
「キョーちゃんが色々察してくださって親切に教えてくれたので何とかなりました。」
「も~」
佐倉と話す藤崎はどこか嬉しそうだった。この日は久しぶりに藤崎が笑っていた。
「東川くん、ぼーっとしてるけど大丈夫?」
「あーはい」
東川はホールを見て客がいなくなったのを確認し、バックヤードに入った。
「佐倉ちゃんって東川くんと一緒に暮らしてるの~?同棲?二人ってどういう関係?」
藤崎のいたずらっぽい笑顔を見て、東川は顔が若干引きつった。佐倉と顔を見合わせると、佐倉は感情のない笑顔を作りながら固まっていた。
東川は藤崎を見て口を開く。
「やー、佐倉ちゃんとは幼馴染で。いろいろあって、うちが都合よく使われちゃった感じです。ははは」
視界の端で佐倉がビクッと身体を伸ばした。
隣でやり取りを聞いていた店長が口を開いた。
「まあまあ、藤崎さん。あんまり人の事情に首突っ込まない方がいいよ」
藤崎は頬を膨らます。
「え~。じゃあ二人はただの幼馴染っていう関係だけなの?」
「そうですよ。短い間ですがよろしくお願いします」
佐倉は淡々と答えた。
「よろしくね~。佐倉ちゃんってサバサバしてるけど意外と人懐っこいところあるよね~。そういえば今日の花火見る~?」
「いや、見ないです」
「え~東川くんと見に行けばいいのに~」
「ケンくんちょっと具合悪そうで」
東川は談笑する二人を横目に持ち場に戻った。
時計は14時15分頃を指していた。
東川の胸が冷たいものに締め付けられる。
脳裏に浮かんだのは、小学5年生の夏の午後だった。
あの日。
教室の窓からは雲一つない青空が見えた。
「俺もう6面クリアしたわー」
前の席に座る吉野が俺の方を振り返りながら欠伸をする。
「は?お前、昨日3面って言ってたじゃん。ずるいや」
「ケンちゃんおっそ。俺今日中にラスボス行くわ」
吉野の煽るような言い方に、心の中で「負けてられねー……」という言葉が浮かんだ。
その時、
「ケンくんー、今いい?」
同じクラスの幼馴染の加納明那ちゃんが話しかけてきた。吉野はニヤニヤした顔で俺の顔を見ていた。
「おー……なんや明那ちゃん」
「今日学校終わってから時間ある?アイス食べてちょっと花火見に行こうよ」
悩む。家でゲームするよりも、明那ちゃんとアイス食って花火見るのもいいなーってちょっと思った。
「……いいよ」
「じゃあ夕方の4時に公園集合ね!」
明那ちゃんは用件だけ伝えたらさっさと自分の席に戻って行った。
吉野は「ヒュー」と冷やかしの声を挙げる。
「……そういうのじゃないから。明那ちゃんとは昔から一緒に遊んでるんだよ」
俺は苛立ってため息を吐いた。
家に帰ると、15時前だった。明那ちゃんとの約束の時間まで1時間ある。
俺はリビングのソファーに飛び乗って寝転がった。ゲーム機を取り出し、起動する。
「吉野のやつ、6面クリアしたって言ってたな」
俺は現在……3面の途中。吉野のことだから、今日中に8面までクリアするだろう。
今日の吉野の態度がちょっと癪に障ったから、明日はあいつを驚かせてやりたい。
俺は時間を忘れるくらいゲームに熱中していた。
「3面のボス戦難しすぎだろー。レベル上げ必要か?うわーめんどくさあ」
「賢人、宿題やったの?さっきからずーーーっとゲームしてるけど」
ゲーム機から目線を外すと、母親が不機嫌そうな顔で俺の顔を覗き込んでいた。
部屋のデジタル時計を見る。15時36分だった。あと15分ほどしたら家を出ないといけない。
この瞬間、俺の中で選択肢が浮かぶような感覚があった。
1.ここでゲームを止めて宿題を始める
2.ゲームを続ける
俺は、ゲームを続けることを選んだ。
「あとで宿題やる。今日は宿題少ないから大丈夫」
ソファーに身体が沈み込む感覚がした。
「くー、ボス戦負け……リセット……あッ、レベル上げたのにセーブすんの忘れてた!うわー、あそこでセーブしておけば……」
時計を見ると、約束の時間である16時を少し過ぎていた。
公園で明那ちゃんが一人で待っている姿が脳裏をよぎった。
「やば……まあちょっとくらい遅れてもいいか。レベル上げだけ終わらせてから行こう」
レベル上げ作業に集中する。が、途中で吉野のニヤニヤ顔を思い出し、むかむかしてくる。
そのとき、インターホンが鳴る。
母親が玄関に駆け足で向かう。俺は気にせずゲームを続ける。
「賢人、明那ちゃんだよ。遊ぶ約束してたんでしょ?」
リビングの入り口から母親が顔を出して言う。少し嬉しそうな、ニヤリとしたような表情だった。
その表情に昼間の吉野が重なって、俺は少し腹が立った。
時計を見ると16時15分を指していた。
「あー、やっぱ今日は行けないわって伝えといて」
「はあ?明那ちゃんに対して不誠実だと思わないわけ?」
「―ッ」
俺はイライラしながら玄関に向かった。明那ちゃんが不安そうな顔をしながら玄関先で待っていた。俺の顔を見た途端、明那ちゃんは目がパッと開いて笑顔になった。
俺は胸が潰れるような気分になった。
「あー……明那ちゃん、今日はちょっと急用あって無理だわ。明日遊ぼう。ごめんね」
明那ちゃんは笑顔を崩さなかった。
「……分かった。忙しいのにごめんね。また明日!」
そう言って、明那ちゃんは帰っていった。
俺は明那ちゃんを裏切った罪悪感を胸に抱えながらリビングに戻り、ソファーに寝転がる。
さっきよりも身体が沈み込むような感覚がした。
ゲームを再開する。
もやもやして集中できない。画面を見ているのに、頭の中に浮かぶのはさっきの明那ちゃんの笑顔だけだった。
この瞬間、また俺の中で選択肢が現れたような気がした。
1.家を出て明那ちゃんを追いかける
2.ゲームを続ける
俺は、ゲームを続けることを選んだ。
明那ちゃんとは、また明日会えばいいと思っていた。
「っし!3面クリア!」
時計を見ると、16時40分を過ぎていた。
外では救急車のサイレンが遠くで騒がしく鳴っていた。
俺は妙な胸騒ぎがした。
翌日の朝。教室で、担任から報告があった。
「加納明那ちゃんが昨日の夕方、交通事故で亡くなりました」。
ざわめく教室。泣き出す女子児童。
吉野は口をあんぐり開けて俺の方を見た。
俺は、頭が真っ白になった。
――あの時、ゲームをやめて宿題に取り掛かっていたら?
――あの時、一度帰って行った明那ちゃんのあとを追いかけていたら?
俺は、やるべき行動を『選択しなかった』んだ。
教室の後ろに目をやる。
ロッカーに押し込んだランドセル。その内側に隠すように取り付けられた青いストラップが、陰から俺を睨みつけているような気がした。
それは、16時に公園に行かなかった俺への、一生消えない呪いのように。