8 トロ助
この世界では、正しいことをやっていれば褒められた。称賛され、居場所を与えられた。正しいことを実行すれば満足できた。だから大事なのは――『何が正しいか』を知ることだった。
正しいことを実行するために、勉強もした。身体も鍛えた。学力テストは常に満点。体力テストも満点。でもなぜか喧嘩が絶えなかった。ただ、それも負けたことはない。
やがて『正しくないこと』もこの世界にあると気づいた。
感情を発露すること、努力を怠ること、そして無益なことに時間を割くこと。
それは間違いだと、俺は学んだ。
13歳でROSAの立ち上げに加わり、15歳で本格始動した。
初めてパラレルの自分を観測したのもその頃だった。
ROSA懐中時計を観測装置に装着し、“µ世界の俺”の目線を脳内に同期した。
――唖然とした。
そいつは自堕落だった。感情だけで動き、勉強もせず、時間を浪費している。
これが、俺と同じ“東川賢人”なのか?
その日から、心の中で彼を“トロ助”と呼ぶようになった。トロ助は、親友の加納明那を事故で失ってから変わったらしい。努力をやめ、受け身でやり過ごす。
すべての選択が、同一人物と思えないほどに俺と正反対だ。
俺は何度もパラレル同期を繰り返した。だがトロ助の生活は変わらない。
それはµ世界に限らず、他のパラレルでも同じように見えた。
だから思ったのだ。異常なのは俺の方かもしれない、と。
そして、たまたま運が良かっただけで、俺は『正しい人生』を歩めているのかもしれない、と。
それでも、このまま正しい実行者でいれば良い未来が待っている。そう信じていた。
……つい最近までは。
衛藤を殺害する重大任務で、あと一歩まで追い詰めたとき。
目の前に、トロ助が現れた。
完璧なはずの人生が、狂い始めてた。
見下していたはずのトロ助から計画を妨害され、信頼する部下に怒鳴られた。正しくないことをしたのに感謝された。
そして気づいた。
――トロ助から生き方そのものを否定されているのではないか。
俺は彼のことを知っているつもりだった。
だが、本当は何も分かってないのかもしれない。
だから、俺はトロ助を知らなければならない。
東川にとって、久しぶりに一人で自宅にいる日だった。
佐倉は「身体を動かさないと落ち着かない」と言い残し、アルベルトへアルバイトの面接に向かった。
「こんな日は執筆活動が捗るなあ」
東川はラップトップを開け、エディタを開いた。
今日は『上昇鬼竜』の続きを書こう。キーボードに指を置く。1分。3分。……10分。
……何も、書けない。
ケイイチが、レイカが、俺が、何者だったか分からなくなっていた。
書きたい場面は確かにあった。それなのに言葉が浮かばない。
ケイイチの動機が見えなくなっていた。彼は何を信じ、何を守り、何と戦ってきた?そもそも、彼の内側に『何か』があったのか?空っぽの器に都合を詰め込んで、強く見せかけていただけじゃないか。
レイカもまた、“強いケイイチ”を成立させるための装置だった。彼を強くする理由、悲しみを乗り越えるきっかけ――便利な役割として置いただけで、彼女の言葉や行動に、彼女の気持ちを乗せたことはあっただろうか?
『ケイイチの人生薄すぎ』という、かつてのコメントが頭の片隅に浮かぶ。
――俺の人生が薄いから、薄い人生しか書けなかったのだ。
それは、いつも間違いと後悔の連続だった。
11歳の夏、親友を最悪の形で失った。そこから自己嫌悪が始まった。中学では勉強なんて手に付かず、高校受験は失敗。滑り止めに入った高校でもなんとなく過ごし、恋愛も縁がなく、大学も滑り止め。大学を卒業して、目標もないままフリーターになった。怒りに任せて小説を書き始めた。
ほとんど惰性で、生きるエネルギーはなかった。なんとなく死にたかったのに、死ぬ理由もなかった。
それが俺の人生であり、ケイイチの人生であり、俺が描いてきた物語の主人公たちの人生だった。
ケイイチを通して理想を描いていたはずだった。
でも、その理想を今は気持ち悪いと思ってしまう。
……執筆が進まないときは、外に出るしかない。
東川は玄関を開け、アパートの階段を駆け下りる。
アスファルトが熱気を吐き出し、東川の足元を焼いていた。
東川は汗だくになりながら歩き続けた。公園の脇を抜ける裏道に差し掛かり、公園から目を背けながら道なりに歩く。
「コンビニでアイスでも買おうかな……」
コンビニを目指して進む。人通りがない道を、街路樹の下の日陰に入りながら歩く。セミの悲鳴が体感温度を上げ、喉がひどく乾いていた。東川は苛立ちながら足を引き摺っていた。
コンビニに辿り着くと駆け足で入店し、心地よい冷気に包まれながらアイスコーナーに向かった。『ガリチョコバー』の新作が、ラスト1本だけ置いてあった。
東川は思わずそれに手を伸ばすと、横から伸びてきた手とぶつかる。
東川がふと手の主を見ると、そいつと目が合った。
「……メカ野郎」
「……トロ助」
「半分こするか?」
「ふざけるなや。譲る」
東川はガリチョコバーを勝ち取った。負けたメカ野郎は隣のレモンバーをかごに入れ、激辛唐辛子味の菓子をついでに買っていた。
二人は会計を終えると、店の外の手すりに並んでもたれかかった。その場で二人は同時にアイスを開封する。
「一人?」
東川はメカ野郎に尋ねる。
「昼休憩。あと30分くらいは自由行動」
メカ野郎はレモンバーの半分を一気に口に入れる。
東川は開封したガリチョコバーの冷気を浴びながら、口を開く。
「あのさ、この前の手帳返して欲しいんだけど」
「お前もあの子みたいになりたいのか?」
「んなわけ。持ち主に返したいだけや」
東川はガリチョコバーを一口食べる。期待外れの味に思わず苦い表情をする。
「衛藤か?」
その言葉に東川の手が止まり、目を見開いてメカ野郎を見た。
「図星か。返さん。手帳がお前の手に渡ると困る」
「何で俺が持つとダメなんだ?藤崎さんみたいなことになるからか?」
「そうだが」
「なんで俺や藤崎さんは手帳を持つとドローンに狙われるんだ?その手帳、やばいやつなのか?」
問いかけながら、東川の胸の奥にざらついた感触が広がった。身体に滲む汗が、熱さのせいなのか、胸のざわめきによるものなのか、分からなかった。
ふと手元に視線を落とすと、ガリチョコバーも汗をかきながら角から崩れかかっていた。
アスファルトから反射した熱が身体を焼くようだ。ここで話を続けてると頭が茹ってしまう。
「暑いな……」
メカ野郎が呟くと、東川は項垂れるように頷いた。
思わず東川は声を上げる。
「……うち来る?」
メカ野郎を見ると、彼は無表情のまま固まっていた。
「……失礼します」
メカ野郎は不思議な感覚を抱えながら東川の自宅に上がる。
東川の部屋を見回すと、自堕落な生活をしている割にはそれなりに整理されているようだった。
「ま、座って」
部屋の中心にあるテーブルに通される。エアコンの風がちょうどダイレクトに当たる位置だった。
メカ野郎がテーブル脇の座椅子に座ろうとしたとき、一瞬ふわっと覚えのある香りがした。だがその正体は思い出せなかった。
「生き返るぅ」
東川は仰向けに寝転がった。
「お前は、俺のことが嫌いじゃないのか?」
メカ野郎は目の前で無防備に伸びる東川に尋ねる。
「嫌いと思えるほどお前を理解してないけど」
東川は寝転がったままスマートフォンをいじり始めた。メカ野郎は東川の動きを監視ロボットのように目で追い、口を開いた。
「お前、一人で暮らしか?」
東川はうっかり佐倉のことを口走りそうになり、飲み込む。
……佐倉ちゃんと衛藤さんの関係が分からない以上、こいつに佐倉ちゃんのことを言うのは危険だ。
「………………まあ、そうだよ」
東川は浅いため息交じりに答える。
メカ野郎は東川の部屋を見回した。
整頓された漫画の本棚、大きめのテレビ、色々な世代のゲーム機、放置されたラップトップ。壁にはピンで中途半端に止められたシフト表。床に乱雑に積まれたテキスト本、棚の中で無造作に散らばる文具や身だしなみ品。
その棚の上の隅に、異彩を放つように丁寧に置かれた小箱があった。
メカ野郎は徐に立ち上がり、小箱に手を伸ばす。
「これ開けていいか?」
「なんで……?まあいいけど」
メカ野郎が小箱を開けると、中にはキラキラ光る青色のビーズストラップが入っていた。
「何だこれ?取ってあるのか?使ってないだろ」
メカ野郎はストラップを拾い上げた。明らかに手作りで、ビーズの並びも少し歪んでいる。留め具も不格好で、所々隙間があった。
メカ野郎はビーズの1粒1粒を数えるように凝視すると、背後から声がした。
「……それ、見るたびに死にたくなるから、その箱に入れてるんだ」
メカ野郎はストラップから目線を外し、東川を見る。
「死にたくなる?なら捨てればいい。使ってなさそうだし尚更や」
「は……?」
東川はメカ野郎が放った言葉を理解できなかった。怒りとも恐怖とも言えない、目の前の人間の価値観に対する拒絶が胸の奥に広がった。
東川は目を大きく開いて叫ぶ。
「それでも大事なものなんだよ!」
それは小学4年生の時、東川への誕生日プレゼントとして親友の加納明那がくれたものだった。
東川はその時の記憶を鮮明に思い出した。
「ケンくん青が似合うと思って、頑張って作ったんだ!私と色違いだよ!」
加納は腰をひねり、背中のランドセルに着けたオレンジ色のストラップを自慢げに見せびらかした。
「明那ちゃん、ありがと」
東川は照れ混じりに笑う。加納が自分のために手作りしてくれたこと、そして彼女とお揃いという特別感に、少しくすぐったい気持ちになった。でもそれ以上に特別な思い入れはなかった。
だが、その1年後に加納を失ってから、このストラップは東川にとって「加納の形見」であり、「東川の罪の象徴」になった。
加納は心を与えてくれた。
でも東川は、間接的だが彼女の命を奪った。
東川は、このストラップからずっと、『生き残ってしまった自分』を責められている気がしていた。「あの時からやり直せ」と言われているようで、けれどそれができない自分が情けなくて。そして情けない自分を見られている気がして。
メカ野郎は持ち上げたストラップ越しに東川を見る。
『使っていない』、『見ていると死にたくなる』、『大事なものだから取っておく』。
この3項が同時に成立するということが、メカ野郎にとって理解できなかった。『使っていない/使えない』時点でモノは不要になるからだ。そして、彼がこのストラップを貰ったとして、おそらく15歳頃には捨てていたのだろう。……いや、捨てたのだ、確か。それで、高校生の時に加納に怒られた。彼女のふくれっ面、少し潤んだ瞳……。
「……君を理解するには、まだ時間が必要かもしれないな」
そう言ってメカ野郎はストラップを慎重に小箱に戻した。
「お前には一生理解できねえだろうや」
東川は口をとがらせて呟いた。
メカ野郎は腕時計をちらりと見て、「時間だ」と呟いた。そのまま急ぎ足で玄関に向かう。
「邪魔した。次衛藤を見かけたら拘束しておいてや」
「断る」
東川は不機嫌な顔で玄関までメカ野郎を見送った。
メカ野郎は黒い革靴を履こうとしたが手が滑っていた。靴を履いて勢いよく立ち上がると、金物が落ちるような音がした。
2本のスリットが入った金色の懐中時計だった。
メカ野郎は獲物を捕食する野生動物のような勢いでそれを拾い、何事もなかったかのように走って東川の部屋から遠ざかって行った。
「……なんでメカ野郎が佐倉ちゃんとお揃いのやつ持ってるんや」
東川は玄関で靴を見つめて立っていた。
しばらくして、東川は引き返してリビングに戻った。
そして棚の上の小箱を手に取り、手前の方に移動させた。
小箱を見つめていると、玄関のドアが開く音がした。
「ケンくんー、明日からアルベルトでバイトやるわ」
いつもの淡々とした佐倉の声が玄関に響いた。