6 違和感
佐倉が朝食のトーストを齧っている隣で、東川は漫画の『カラードット』4巻をちょうど読み終えたところだった。閉じた本を、部屋の一角にある漫画本を積まれたスペースに戻す。積まれた本の中から続きの5巻を探り始めた。
「青海ってアツい奴だよなあ。人助けの行動力がありすぎて、なんか眩しいわ……」
東川は感想を言いかけたところで佐倉と目が合う。
「あー」
佐倉がぽつりと零し、麦茶のグラスを手にする。東川は佐倉の曖昧な返事に戸惑いながらも、言葉の続きを待った。これからの展開をネタバレしてくるのか、と一瞬身構えた時。
「それ、本棚買って整理しない?床に積んでると、崩れてきて危ないし……なんか、落ち着かないんだよね」
佐倉は淡々と言った。
その事務的な言い方に、東川は思わず眉をひそめた。
二人はショッピングモールへ向かった。店内は人がまばらだったが、子供や学生の声が時折響いていた。
「ここ広いから、迷子にならんように気をつけてや」
東川が冗談っぽく言うと、佐倉は口を尖らせながら隣を歩き続けた。
ゲームセンター付近に出ると、急に行き交う人の数が増えた。前方から歩いてきた学生の集団とぶつかりそうになり、間を縫うようにすれ違う。
ふと佐倉の姿が見えなくなった。東川は慌てて周囲を見渡す。人混みの中を探るように目を動かすと、佐倉は数メートル先の通路脇で立ち止まっていた。
「……佐倉ちゃん」
声をかけると、彼女はゆっくり振り向いた。その姿が一瞬、世界から浮いてしまった異物のように見えた。
東川は胸の奥がざわつく。彼女が消えてしまうのでは――そんな予感が走った。
なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。だが、彼女が目の前からふっといなくなることが不安になり、『彼女がここにいる証』を残したいという、説明のつかない衝動があった。
東川は佐倉を見つめたまま言葉を探した。やがて深呼吸をして、ゲームセンターを指す。
「……写真とか、撮ってく?撮ったやつ、スマホに貼ったりとかしてさ、記念に残すのどうかな。……あ、今の若い子ってそんなことしないんだっけ」
「もしかして、プリクラのこと?……この歳だとちょっと勇気要るなあ。普通にスマホで撮ればいいじゃん」
佐倉は嘲笑するように答えた。東川は佐倉の言い方にほんの少しムッとしたが、同時に胸を撫で下ろした。
その声の輪郭、目の前にいる彼女の肩の力の抜け方、目の中にちらつく小さな遊び――どれも、『彼女がここにいる証』だった。彼女が消えてしまうという根拠の薄い不安は、彼女のありふれた仕草であっさりと溶けていくのを感じた。
「……まあ、佐倉ちゃんが俺なんかの写真持っててもなあ」
東川は言いかけたところで佐倉の懐中時計を思い出す。そこには衛藤の写真が挟まっていたはずだ。
「懐中時計のやつさ、やっぱり大事な人なのかな」
東川は佐倉に尋ねる。
尋ねながら、加納明那のことをふと思い出していた。一生忘れてはいけない名前。佐倉の懐中時計に入った衛藤の写真も、ひょっとしたら同じような意味を彼女に与えているのではないか、と思ったのだ。
佐倉は戸惑ったように首元を探る。
「もしかしたらそうなのかもしれないけど……分からないなあ」
佐倉が淡々と言うと、東川が揶揄うように言う。
「佐倉ちゃんの配偶者とか、恋人とかさ。……イケメンっぽいし」
佐倉は否定も肯定もせず、眉間にしわを寄せて目を伏せた。その表情に、東川は言葉を飲み込む。
「思い出せない、ってことは、大した関係じゃなかったのかも?」
そう言った佐倉の胸の奥には、胸が痛んだ記憶がじわりと蘇った。それは恋愛感情だったかもしれないが、相手の顔も声も曖昧で、輪郭がぼやけていた。
しかしその痛みも、雑踏の中に溶けるように消えていった。
家具屋に入ると、佐倉は真剣な顔で本棚を選びはじめた。サイズと値段を確認し、候補を絞り込んでデザインを見比べた。この間ほんの1分程度だった。
「これがいいと思うけど、どう思う?」
佐倉はある棚の前で立ち止まった。東川の部屋に馴染みそうな、落ち着いたデザインの棚。それは東川にとっても模範解答のような品選びだった。しかし、解答に最短距離で辿り着いたような道のりに物足りなさを感じる。選ぶまでに“遊び”がもう少しあった方が楽しかったなと、苦い笑みが零れる。
「俺もいいと思うけど……もうちょっと迷ってもよくない?」
東川が茶化すと、佐倉は淡々と答えた。
「必要なものが買えればいいじゃん。無駄なことに時間割きたくないし」
その口ぶりが、妙に“実行マシーン”っぽく、一瞬、メカ野郎を彷彿とさせた。東川は口を開けたまま黙り込んだ。
佐倉は浮かない顔で東川の顔を覗き込み、陳列棚から箱に入った商品を担ぎ上げた。そして抱えた箱を見ながら小さく呟いた。
「ケンくん、お腹すいた」
ショッピングモール内の喫茶店で東川と佐倉が向かい合って座る。
佐倉はソファー席で背筋を正しながらアイスコーヒーに刺されたストローを啜っていた。グラスからみるみるうちに減っていく佐倉のコーヒーを眺めながら、東川はガムシロップを自分のアイスコーヒーに加える。
「佐倉ちゃん、コーヒーは無糖派なんだね」
「コーヒーで糖分を摂取するのは勿体ないらしいよ」
まるで他人事のような佐倉の返答に、東川は小さく笑いを漏らす。手元のグラスに漂うもやが目に入り、東川は思わず声を上げる。
「これ、シュリ……手裏剣現象みたいなやつ」
佐倉はきょとんとした顔をしながらコーヒーのグラスを空にした。ストローから口を離し、東川の言葉にピンと来たような表情で答える。
「シュリーレン現象」
「それや。よく知ってるな」
「一般常識っしょ」
佐倉がしたり顔でさらりと返し、東川は呆然とした。
固まったままの東川の前にハンバーグステーキのランチセットが運ばれる。立ち上ってくる蒸気の熱さに東川ははっとして視線を落とした。
「うまー」
佐倉に目をやると、彼女はホクホクとした表情でハンバーグを貪っていた。その顔には、先ほどまでの事務的な言動からはかけ離れた、普通の人間のような温度が滲んでいた。
「……いつもそういう顔してくれればいいのに」
東川が思わず口を開くと、佐倉はハンバーグを咀嚼する口の動きを止め、東川を見つめて固まった。
「佐倉ちゃん、嬉しいときはちゃんと笑ってくれるんだな。よかった」
口にした瞬間、東川の胸の奥に強い安堵が広がる。
彼女が笑うのは当たり前のことのはずなのに、これまで見えなかったものがやっと掴めたような気がした。それはまるで、彼女を人間として確かめ直したような感覚だった。
東川は浮かんだ考えを慌てて飲み込むように息を漏らす。
佐倉は首を傾げて東川を見ていた。
東川は「楽しい食事の邪魔してごめん」と小声で呟き、大口でハンバーグを頬張った。
帰り道、東川は歩きながら隣の佐倉の様子をちらりと窺う。
「佐倉ちゃんさ、普段しれっとした雰囲気で話すじゃん。なんか、つまらなそうというか……。それって、記憶がないからかなーと思ってたんだけど」
東川が口を開くと、佐倉は黙って耳を傾ける。
「佐倉ちゃんがもし、思ったことを押さえつけちゃうようなことを無意識にやってるなら、心配なんだよね」
東川の言葉に、佐倉は戸惑ったように俯いた。
「……ケンくんの言ってること、意図がよく分からない」
俯いたまま、消えそうな声で呟く。東川もつられて困ったような顔になり、一瞬言葉に詰まった。
「俺も言いたいことがまとまらないわ。でも、佐倉ちゃんだって、一人の人間だってことよ」
東川は戸惑いながら笑って誤魔化すように話をまとめる。強引だったかな、と自省混じりに佐倉を見ると、佐倉は目を見開いて立ち止まっていた。
『一人の人間』――その言葉が、佐倉にとって欠落していた何かを、目の前に差し出しているようだった。
忘れていた記憶の一部を思い出すように、冷たくて悲しい感情が脳裏を掠める。
佐倉は胸のあたりがすっと冷え込むように感じた。
東川は佐倉を見て、胸のざわめきを感じた。
……何かまずいこと言ったか?
ただ心配しただけのつもりだったのに、彼女の中にある何かを揺らしてしまった気がしていた。もし本当にそうだったら、彼女は何か内側に抱えているのではないか。
「佐倉ちゃん」
東川は緊張混じりの声を掛ける。
佐倉ははっと振り返り、東川を見た。
「……ごめん。宇宙と交信してた」
佐倉の気の抜けた声と斜め上の返答に、東川はふふっと笑いを漏らす。
「まじかよ」
「嘘です」
「知ってた」
東川の笑みを見て、佐倉は周りの空気がふと緩んだように感じた。
東川は背伸びをしながら歩き始める。
「帰ったら『カラードット』の続き見るかあ。あ、佐倉ちゃん、ネタバレはやめてや」
「しないわ。だって赤沢は……」
「だから主人公は青海だって」
二人は平行線のように噛み合わない話を続け、家路についた。