5 メカ野郎
男はメガネを拭きながら、レンズの向こうの白い天井を眺めていた。
ドアのノック音が響き、男はメガネを掛け直して「どうぞ」と声を掛ける。
薄毛の男が応接室に入り、緊張混じりに報告する。
「失礼します。技術部からの伝言で、デストラクターの改造が完了したとのことです。うろ覚えですが、神経なんちゃら機能の先行搭載と、それ用の隠しボタンを追加したと……後ほど現物が支給されます」
「分かりました」
メガネ男は眉一つ動かさず、短く答える。薄毛の男は踵を返して応接室のドアに手を掛けた。その時、メガネ男は何かを思い出したかのように薄毛の男を引き留める。
「そういえば、加納の代理の件は?」
薄毛の男は困惑を浮かべながら言葉を詰まらせる。
「いやー……条件を満たす執行官が誰もいなくて。ただ、研修中の新人……五島藍という子が唯一該当してまして、その、彼女を執行補佐官とするのはどうでしょうか。歴代研修生の中でも相当優秀らしいので……。ご検討いただけますか……?」
薄毛の男の歯切れの悪い返答と対照的に、メガネ男は目の色を変えてスマートフォンを取り出す。人事データベースにアクセスし、五島藍という新人の評価データを探した。ページをスクロールする指は速く、視線は獲物を狙う猛禽のようだった。
画面にかじりつくメガネ男の顔を薄毛の男はまじまじと見る。
「……メガネ変えました?」
「うん」
メガネ男は五島の評価レポートに記載されている一字一句を読み込んだ。
「不足ない。すぐに彼女と会わせてください」
五島は突然の人事抜擢に放心していた。
ROSAを目指すきっかけになった憧れの人の補佐官として、新人の自分が指名されたことがにわかに信じられなかった。
応接室に通された五島の足はガタガタ震えていた。ドアを開けた先は、真っ白な壁に囲まれた静かで殺風景な部屋だった。足を踏み入れた瞬間、息が詰まる。
「失礼します……五島、です。よろしくお願いいたします」
声が震える。すぐそこに憧れの人がいるという現実に、緊張で心臓が爆発しそうだった。
目線の先に立っているメガネの男は微笑み、
「五島さん、明日からよろしくお願いします」
と、無機質な声で言った。
その声を聴いた瞬間、五島は首筋からかかとまでがピタリと凍り付き、表情を失う。
「まあ座ってください。今日は顔合わせのつもりで」
男のメガネの奥の目は笑っているが、目線には一切の温もりがなく、声にも感情が乗っていない。
五島は息を吞み、全身を強張らせた。男に促されるまま、安物のロボットのようにぎこちない動作でイスに座る。
「明日からの君の業務内容だ」
男は五島に資料を手渡す。そこには五島のこれからの役割、すなわち前任の加納から引き継がれる業務内容が記載してあった。
パラレルメーターの確認と解析、報告書の作成、パラレル現地調査、除外対象の調査と追跡……それぞれ詳細に手順や水準が示されている。
「……これ、全部ですか?」
五島は資料を埋め尽くす文字に圧倒されていた。五島の反応に対して、男は左手の中指で机をコツコツ叩きながら答える。
「もちろん。正直、加納が抜けた穴は私にとって痛い。特にパラレルでのフィールド作業は複数人原則だ。一度は特例で出られたが、今後私が出るためには頭数が必要になる。さらに連携をとるためには判断力が必要だ。認知テストでAランクを超える水準がないと使えない。そのほかにも、文章処理能力はROSA-AI評価基準でA以上、身体能力テストもA以上、その中でも射撃はSランク欲しい。加納は満たしていたが、他の執行官を当たっても無能しかいなかった……君以外は。五島さんは加えて学習能力がSランク。物理学なんて知らなくても仕事ができるとか言ってるようなアホとは違う。君がいてよかった。そうでもないと埋め合わせが見つからずに途方に暮れるところだったよ」
男の語り口は淡々としていた。五島は喉が締め付けられ、手先や足先から熱が奪われていくのを感じた。
蛇に睨まれた蛙のようになっている五島を見て、男は微笑みながら声を掛ける。
「五島さんから私に何か聞きたいことはあるかな?」
「あ、私は、加納さんの代理として……その、加納さんとは、以前、うまく連携されていた、と伺ってますが、私は、うまく、補佐官、としてやっていけるか、不安です」
思考が整理できず、喉が渇いて声がかすれる。手足の感覚も薄れていた。
「確かに加納は作業の精度が高く、仕事も早かった。……ただ、ポテンシャルがあるとはいえ、君はまだ新人だ。そのレベルは求めてないよ」
男からは意外と優しい言葉が返ってきた。五島の全身の力が少し緩む。目の前の冷酷な男に垣間見えた人間性に、僅かな期待を持ち直した。
「加納さん、どんな方だったんでしょうか?」
五島にとって加納は超えたい人間だった。彼女の人柄、関係性――加納のことはなんとしても聞きたかった。この男は加納という人間について詳しいはずだからだ。
「彼女は情報処理の速度と判断のバランスが優れていた」
男は淡々と答える。
五島は男の話の続きを待っていた。しかし長い沈黙が続き、違和感とともに男の顔に目線を移すと、男は瞬きしながら不思議そうに五島を見ていた。もう話は済んだと言わんばかりの表情だった。
「……は?」
それだけ?
加納さんはあなたの幼馴染で、大人になってからはROSA執行官の相棒として……人生で20年近く一緒にいた人じゃないんですか?その人が行方不明になって、それで代わりとして宛がわれたのが私みたいな新人で。それで、加納さんのことを仕事できるなーくらいにしか思ってなかったんですか?
五島は喉まで上がってきた言葉を飲み込む。その代わりに頬を涙が伝った。この男に対する恐怖なのか、加納への同情なのか、涙の理由は自分でも分からなかった。
男は五島に感情の無い視線を向けて口を開いた。
「五島さん、最初に1つだけ忠告します。不測の事態が起きた時、感情は判断を歪める。特に連携においては重大な障害だ。君がやるべきことはただ実行すること。それを理解してほしい」
「……精進します」
五島は絞り出すような小声で答える。
「君が泣いてしまうくらい不安になるのは理解に難くない。でも、そこまで気を張らなくていい。私も君のサポートをする。明日はさっそくµ世界に行きます」
男は五島に笑いかけながら言った。
応接室から出た五島は、うまく呼吸できていなかったことに気づく。木目調の廊下の床を見つめ、深呼吸をした。全身に血液が巡り、手足に感覚が戻ってきた。そのまま、その場で立ち尽くす。
――たぶんむりだ。明日から、あの人間のような姿をしたロボットと仕事するの。
東川は食料品を買いにスーパーへ向かっていた。橋を渡ろうとしていたところで後ろから声がした。
「どうも、先日は世話になりました」
この無機質な声に東川は覚えがなかった。後ろを振り返ると、にこやかに微笑むメガネの男と困った表情の小柄な若い女性がいた。
メガネの男の姿には見覚えがあった。
「世話になりました、だと?ふざけんな。衛藤さんを殺そうとしてたくせに」
東川はメガネ男を睨みつけて言う。
「貴様の身体能力を買って頼みたいことがある」
「はあ?」
「衛藤は排除すべき対象だ。この前お前が逃がしたあいつや。あいつを殺すのを手伝ってくれ」
東川は背筋に冷気が走った。メガネ男の顔を見ると氷のような視線が刺さる。男の隣にいる女性は不安げな表情をしていた。まさか。
「まさか、その人は人質か?」
「あほか。部下や」
「ああよかった」
女性が堪えきれず吹き出す。メガネ男は「笑うなや」と女性を小突いたが、彼女はどこか安心したように笑みを零していた。
メガネ男は東川に目線を移す。
「衛藤を殺すのを手伝ってや」
東川は呆然として言葉を失った。この知らない人間の、しかも人殺しという所業を手伝うような義理などなかった。どう考えてもリスクしかない。
……衛藤さんはパラレルの観測をこの世界でやりたいと言っていた。そしてこの世界を守りたいと。それが一体この男とどんな関係があるのか。
「衛藤さんを殺す以外の方法があるんじゃ……」
東川が小声を漏らすと、メガネ男は冷たい視線を東川に向けた。
「あいつを殺すというのが上の命令や。だから殺す」
その答えを聞いて、東川は本能的に衛藤よりもこのメガネ男の方が信用できないと感じた。この男からは人間じゃないような冷気と狂気を感じる。
人間というより、実行マシーンだ。
東川はメガネ男に対してそこはかとなく腹が立ち、彼の胸倉を掴む。微動だにしないメガネ男に東川は一瞬怯む。
「お、お前は意思がないのか?人間の姿をしただけのメカや。メカ野郎」
東川は咄嗟に思いついたメガネ男の渾名を口走った。
「なんやメカ野郎て」
メカ野郎と呼ばれた男の眉がわずかに動いた。
「じゃあお前の名前を教えろ」
「名乗るほどじゃない」
「お前は名乗れない相手に人殺しを手伝わせる気か?」
東川はメカ野郎を睨みつけた。
メカ野郎は東川を睨み返す。
「もう1つ、情報提供してほしい。加納明那という人物を捜している」
カノウアキナ――その名前を聞いて東川は息を吞んだ。それは東川にとって忘れられない人の名前だった。
だが彼女は、15年前に事故死したはずだった。
メカ野郎は動揺している東川を見て一瞬何かを察するが、すぐに無表情に戻る。
「加納とは先週この辺ではぐれてから行方不明になっている。お前と同じくらいの年の女性だ。もし心当たりがあれば教えてくれや」
そう言い残してメカ野郎は東川の横を通り抜け、橋の方へ進んで行った。
メカ野郎の隣にいた部下の女性は東川に一礼したあと、東川に耳打ちした。
「私もメカ野郎さんのこと、あまり信用できないんです」
東川は女性の口から出た『メカ野郎さん』に思わず口元が緩んだ。
「……あいつの名前知ってる?教えてくれない?」
女性が口を開いた瞬間、横から伸びた手で口が塞がれる。
「五島さん、余計なことは言わんでいい」
メカ野郎は驚いた表情のまま固まった五島を引っ張って再び橋の方に向かった。
五島は俯きながらメカ野郎の隣を歩いていた。
「なぜあの人に衛藤さんの任務の協力を……?一般人なら断るのは当たり前だと思いますけど」
「あいつのことは知っているからだよ。それに彼は衛藤とも接触したことがある。彼の性格ならコントロールできると思っていたが、考えが甘かったようだ」
五島はメカ野郎の言葉に愕然とする。善良な一般人が物騒なことに巻き込まれることに身が縮む思いがした。
「えと、ご出身ってどちらでしたっけ」
五島は気を紛らわそうと話題を逸らした。口元が滑るように早口になる。
「東京」
「と、東京なんですね……。メカ野郎さんって素が出たときにエセ関西弁が出るんですね」
しまった――。五島はうっかり漏らした本音がすぐに失言だと気づいた。
メカ野郎は立ち止まる。五島は顔を下げたまま「すみませんでした」と小声で呟き、冷や汗が止まらなかった。
「五島さん、今から衛藤の痕跡を探ろう」
メカ野郎は五島の失言を気に留めていないようだった。五島はほっとしたようにメカ野郎の顔を見上げる。メカ野郎はいつも通りの無表情で、何かを考えている様子だった。その後、五島を見て一言。
「µ世界にいる時は、私のことをメカ野郎と呼んでくれや」
「やっぱり怒ってますよね?すみませんでした……」