4 もう一人との出会い
この日の夕方は地獄のような晴天だった。セミの鳴き声やアスファルトの熱気が逃げ場を失い、空気が熱く澱んでいた。
東川はアルバイト帰りで汗だくになりながら裏道を歩いていると、男の押し殺したような呻き声が聞こえた。
声の方に目をやると、30代くらいのチェックシャツを着た男が仰向けに倒れ、その上に若いメガネのスーツ姿の男が馬乗りになっていた。
東川は逃げるようにその場を離れ、道を引き返した。
息が上がり、頭が熱くなる。
…関わりたくない、逃げたい。
だが、同時に脳裏に浮かんだのは、昔の後悔の記憶だった。
もしここで彼を助けなかったら。…『あの時』のようにずっと引きずるかもしれない。
せっかく佐倉ちゃんを助けたのに、間違えた選択肢で上書きしてしまうのか?
ふと背後の二人を見る。メガネ男はチェックシャツの男の首元を締め上げていた。チェックシャツ男は咳き込みながら苦しそうに暴れていた。
その姿に東川は胸を痛め、歯を食いしばる。
チェックシャツの男の顔を見つめていると、既視感に東川ははっとした。
あの人――佐倉ちゃんの懐中時計の人だ。
気付いた時にはメガネ男を蹴り飛ばしていた。メガネが吹っ飛んで道路に落ちた音がする。東川は倒れていたチェックシャツ男の腕を掴む。
「一緒に逃げましょう。立てますか?」
メガネ男を蹴り飛ばした左足が鈍く痛むが、気にしている場合ではない。チェックシャツ男に目をやると、彼は咳き込んでいたが、なんとか歩けるようだった。
そのまま彼の腕を引っ張る。
「お兄さん、走れそうですか?」
チェックシャツ男は頷いた。彼は疲れたように目を伏せながら、口元は微かに笑っていた。東川はチェックシャツ男から手を離し、後ろを振り返りながら走る。
「あいつ、強いから気を付けて…」
息を切らしながらチェックシャツ男は言った。
東川は視線を前に投げる。道はまっすぐ進めば丁字路、そして右の道は大通りに通じている。大通りまで行けば状況はマシになるだろう。
「あそこの突き当たりまで全速力で行きましょう!」
東川は肩で呼吸をしながら叫ぶ。まだ追っ手は来ない。
全速力で突き当たりまで進む。あとは右に抜けて裏手から回れば大通りだ。
その時、背後から靴音が迫る。メガネ男が数メートル後ろにいた。
「右に抜けて大通りまで行ってください!後で追います!」
道を指しながら東川は叫んだ。
「ありがとっ」
チェックシャツ男は東川の右に抜けて走っていった。
そして東川は逃げたチェックシャツ男を庇うようにメガネ男の前に出る。
メガネ男のメガネを目掛けて一発入れると、歪んだメガネが宙を舞い、道路に落ちた。そのまま落ちたメガネを蹴り飛ばして側溝に落とす。
メガネを失った男に迫り、さらに一発入れようと拳を引く。
一瞬だった。
視界は空を仰ぐ。咄嗟に受け身を取るが、アスファルトに叩きつけられた背中に痛みが走った。
「あ?」
東川は何が起きたのか分からないまま、仰向けになって倒れていた。
メガネだった男は東川を一瞥し、
「なんでトロ助が…」
と呟いて姿を消した。
「なんで俺が…」
東川は仰向けのまましばらく思考停止していたが、ふと先ほどのチェックシャツ男のことを思い出す。
「そういえば、さっきの人、無事か?!」
飛び起きて走り、大通りに向かった。
大通りに出ると、コンビニの前でチェックシャツ男が神妙な面持ちで屈んでいた。
「ご無事でよかったです…」
東川は息を切らしながら男に声を掛ける。男は東川に気づくと立ち上がり、目と口を大きく開けて東川の全身を見つめた。
「大丈夫だったか?怪我してない?いやしてそうだな」
「俺は大丈夫です。そこの店で休憩しましょう」
東川は自分の背中をさすりながら馴染みのアルベルトを指した。
「さっきはありがとう。助かった。マジで死ぬところだった」
アルベルトのソファー席で、チェックシャツ男は東川に頭を下げた。
「構いませんけど。あの、あなたはそっちの人ですか?」
東川は小声で男に尋ねる。男は一瞬首を傾げるが、質問の意図に気づくと首を激しく横に振った。
「僕はヤのつく人とか関係ないよ!さっき殺されかけたやつも別にヤの人じゃないから!」
男が大声で答えると、店内の客の冷たい視線が集まる。
「…メガネのやつはヤクザっぽかったですけどね。ところであなたは何をしてらっしゃる人なんですか?」
東川は小声で男に問いかける。
「並行世界の研究者をやってるよ。…あっ、僕、衛藤って言います」
衛藤と名乗った男は東川を見ながら微笑む。
「へいこうせかいのエトーさん」
東川は眉間にしわを寄せながらメロンソーダに口をつける。
衛藤の顔をよく見ると、丸みを帯びた目が理知的に光り、清潔感を放っていた。その優等生感のある整った顔立ちに、東川は黙って見とれてしまう。
衛藤は東川の視線を一切気にせず、ニヤニヤしながらアイスコーヒーにガムシロップを3個投入した。
「見て、シュリーレン現象」
「シュリ…何ですか?」
東川はぽかんとして衛藤を見た。研究者というのは謎の単語を話す生き物なのだろうか。
「ああもう、一瞬しか見えないんだから注目してくれよぉ」
そう言いながらも、衛藤はどこか楽しげだった。
「透明な飲み物にガムシロップを入れた瞬間にもやっとしたゆらぎが見えるだろ。あれ、シュリーレン現象って言うんだよ。屈折率の違いがもやみたいになって見えるんだって。本当は飲み物だけじゃなくて、空気の流れとか熱でも起こるんだ。…こうやって『目に見えないはずのものが見えるようになる』って、なんかワクワクしない?」
衛藤の目は子供のように無邪気な輝きを放っていた。
東川は衛藤の言ったことに共感はできなかったが、なぜかその言葉が胸に染み付くような感覚がしていた。
東川は返答に困り、彼の表情を曇らせまいと作り笑いをした。
気を取り直して東川は尋ねる。
「衛藤さんが命を狙われてたのは、その並行世界ってやつと関係あるんですか?」
「君、鋭いね。並行世界のことを我々はパラレルと呼んでるんだけど…。あんまり詳しく話せないけど、この世界にもパラレルの観測所を立ち上げようと思っていて。そのせいで、僕は怖い人たちに命を狙われてるんだよねえ…」
衛藤の胡散臭さに呆れつつ、東川はメロンソーダを喉を鳴らしながら飲み干した。
東川は空いたグラスを持ちながら衛藤に目を移すと、彼は黒い手帳を取り出していた。手に馴染むような年季の入った表紙がちらりと見え、衛藤はそれをパラパラとめくるように弄ぶ。東川はその手帳の存在感に目が釘付けになった。
「…パラレルの観測所って何するところですか?」
「パラレルを観測するところだよ」
衛藤の言葉に、東川は目が点になって固まった。
「まあ聞いてくれよ東川くん。この世界は平均的な確率をなぞって均衡を保っている。いや、平均的な結果が今の世界である。もし、外れ値を積み重ねた異常なパラレルがあったとして、もしその世界が…。うん…話はここまでにするか」
「結局何を説明したいんですか?!」
東川は持っていたグラスをテーブルに強く置いた。
「要するに僕はこの世界を守りたいんだよ」
衛藤は真顔でそう答え、アイスコーヒーにようやく口を付けた。東川はアイスコーヒーを飲む衛藤を宇宙人を観察するかのように凝視した。衛藤の現実離れした話に困惑しながら、彼が自分のウェブ小説のネタになるだろうかと考える。
衛藤がアイスコーヒーを飲み終えると、東川は「俺はそろそろ」と席を立ち、財布を手にする。衛藤は右手で東川を制止して言った。
「あ、さっきのお礼に出すよ」
「なんかすみません。ありがとうございます」
東川は一礼してアルベルトを去ろうとすると、衛藤が呼び止める。
「せっかくだから連絡先も交換しようよ。もしも君が僕の思いをもっと知りたいと思ったらいつでも連絡してほしいなあ」
衛藤は笑みを浮かべて東川を見つめた。
東川の目に映る衛藤は、胡散臭さも虚構も感じさせない、ただ純粋な目をしていた。
店を出た東川は、夕方の蒸し暑い空気を吸った。外はまだ明るく、セミの声が周りの建物から反響する。スマートフォンを取り出し、連絡先に登録された『衛藤裕丞』の名前を見る。
「えとう ゆう…なんて読むんだろ?それにしてもなんだったんだ、あの人…」
頭の片隅ではまだ彼の「パラレル」や「観測所」、「世界を守りたい」など、ふわふわした単語が回っていた。頭がぼーっとするのは、その謎の世界観のせいか、それとも蒸し暑い空気のせいか。だが、彼の真剣な目だけは嘘だと切り捨てられず、脳裏に張り付いていた。
大通りにある簡素な時計台の前を過ぎようとしたとき、17時のチャイムが鳴った。驚いて東川は時計台を見る。
「うわ、もうこんな時間か」
ふと、頭の中で何かを忘れているような気がした。
「あ」
佐倉の懐中時計を思い出す。懐中時計に衛藤の写真が入っていた理由――佐倉と衛藤の関係を確かめることを忘れていた。
「やっちまった…。衛藤さんと佐倉ちゃんに関係があるなら、佐倉ちゃんはパラレルとも関係があるのか?…まあ、連絡先手に入れたし、また今度聞けばいいか」
東川はため息をつき、再び歩き出した。ポケットの中のスマートフォンがずっしり重く感じた。
衛藤は東川を見送ったあと、ドリンクバーでアイスコーヒーのおかわりを取りに行った。
店内は夏休みを迎えた家族客が半分くらいを占めており、夕方の割には賑やかだった。衛藤は席に戻るとコーヒーにガムシロップを3個投入する。ふと向かいに残されたメロンソーダの空きグラスに気付き、呟く。
「μ世界の君は甘い物を飲むのか…」
衛藤は十数年前の記憶を思い出す。
落ち着いた喫茶店のテーブル席で、対面には中学生くらいの無表情の少年が座っていた。アイスコーヒーにガムシロップを2つ投入した衛藤を、少年は冷ややかな目で見ていた。
「衛藤さん、そんな甘いもん飲んでたら病気になりますよ。それに美味しくないでしょ」
「ええ?甘ければ甘いほど美味しいでしょ」
衛藤がストローをグラスの中でかき回すと、カラカラという大きい音と共にグラスの中に巨大な渦が発生した。
「ガムシロップの存在意義って、シュリーレン現象を見るための材料でしかないと思ってました」
「えっ、シュリ…何?そんなの大学で習わないんだけど」
衛藤は顔をしかめる。少年の言ってる単語の意味がよく分からなかった。
「透明な物質の中で部分的に密度が異なる時に、光の屈折によってゆらぎが見られる現象のことを、シュリーレン現象って言うんですよ」
衛藤は目を丸くして手前のアイスコーヒーに視線を落とす。
「へぇー。ガムシロップを入れた瞬間にモヤモヤが見える、あれのことか。…なんか、透明で普段見えないはずのものが見えるようになって、面白いよねえ」
衛藤の言葉に少年は一瞬きょとんとしてからウーロン茶を飲む。
衛藤は浮かない顔で少年を眺めた。
「ジュースとか飲まないの?」
「飲料に糖分摂取の機能を求めてないので」
衛藤は声にならない笑いを漏らしながら、少年を慈しむように見て微笑んだ。少年はこっち見るなと言いたげに口を尖らせる。
少年はウーロン茶のグラスを空にした後、衛藤をまっすぐ見つめて口を開いた。
「あなたに協力したいです。俺も世界の観察ってやつに関わりたいです」
その言葉は、衛藤にとって予想外だった。驚きのあまりしばらく放心したが、やがて少年に微笑んだ。
「そう言ってもらえて嬉しい。一緒に、世界を知るためのパラレル観測所――ROSAを立ち上げよう。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
衛藤は少年に向けて開いた右手を差し出す。友好の挨拶を交わすつもりだった。だが、二人の視線はどこか噛み合わないような違和感を残したまま、宙で絡まった。
少年は、握手には応じなかった。
目の前のアイスコーヒーは氷が溶けていた。衛藤はアイスコーヒーをゆっくり飲むと、少し苦味を感じた。半分ほど残ったグラスを置いて、今は誰も座っていない対面の席を見つめる。
「こっちの君も、あんまり幸せじゃなさそうだなあ」
衛藤の目に映っていた東川は、一見“ごく普通の青年”だった。だが、彼の目は暗い過去をずっと見続けているようだった。その目は「早く死にたい」と訴えていた。
「でも君は握手してくれそうだったな」
衛藤はパラレルワールドについて、ROSAについて、東川に詳しく話せないことを悔やんだ。“こっち”の世界――μ世界の人間がROSAの存在を知ってしまうと、その身に危険が及ぶからだ。
衛藤は室温になった残りのコーヒーを飲んで会計をし、アルベルトを出た。
ずっと座っていたせいだろうか、衛藤は席を立った後から尻のあたりがすっと軽くなったような気がした。