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31 君が生きていく世界

 東川は自室で一人、座椅子に座ってテーブルに視線を落とす。

 焼かれるような熱い日差しがカーテンの隙間から入り込み、テーブルに光の筋が入る。その光は東川を避けるようにして部屋の奥まで伸びている。

 息を吸い込むと、どこからか、かすかに甘い香りがふわりと匂った。

 憂鬱を吐き出すように、深いため息をつく。

 佐倉は、メカ野郎に呼び止められてからまだ戻ってきていない。

「あいつと、どんな話をしてるんだ……」

 胸の奥がざわつく。

 ついこの前まで、佐倉はメカ野郎のことを「敵かもしれないから、怖い」と怯えていた。それを知っていたからこそ、さっきは手を引いて一緒に逃げようと思った。

 だが、佐倉は、「大丈夫だから」と笑っていた。その笑顔の奥に強さが滲んでいた。

 それを、信じるしかなかった。


 東川は鼻息を鳴らしながら立ち上がり、部屋の中を意味もなく歩き回り始める。

 漫画本が並ぶ本棚に触れる。もともとは部屋の隅に無造作に積まれていたのを、佐倉が整理してくれたものだった。その上にはアルバイトのシフト表が貼られている。丁寧にピンで止められ、二人のシフトがそれぞれシールで強調されている。佐倉のバイトが始まったときに、彼女が楽しげにアレンジしていた。

 部屋の中央に置かれた座椅子は、彼女の特等席になっている。まだ買って日が浅いのに、使い込まれたように馴染んでいた。

「……あの時、写真、撮っとけばよかったなあ」

 小さく呟き、深いため息を吐いた。


 この部屋に、少しずつ佐倉の生活が宿っていた。


 ただ、無事でいてほしい。

 そう願うつもりだったが、胸の奥では別の声が渦巻いている。

 失いたくない。彼女を奪わないでほしい。

 それが守りたい気持ちなのか、ただの自分のエゴなのか、答えが出ないまま不安だけが膨らみ、押しつぶされそうになる。


 その時、玄関で物音がした。

 東川は反射的に走り出す。

 ドアを開けると、佐倉が立っていた。


「ただいま」

 笑顔を見た途端、胸に安堵が染みわたっていった。

「おかえり。待ってたよ」

 微かに震える声で答える。佐倉の顔を見つめていると、不穏を告げるように心臓が大きく跳ねる。

 彼女の微笑みの裏に影の気配を感じ、胸がざわめいた。



 東川は座布団に尻を沈め、正面に座る佐倉をじっと見ていた。佐倉は何かを言い出そうとして唇を嚙む動作を、何度か繰り返していた。

「ケンくん」

 佐倉はかすかな声で呼びかけ、俯いたまま続ける。

「私が、元々暮らしてた場所の人たちが……私のことを探していたみたい。近いうちに、連れ戻されるらしい」

 東川は思わず息を呑む。

「……そうか、良かった。佐倉ちゃん、やっと元に戻れるのか」

 東川は表情を失ったまま答える。佐倉は力なく微笑む。

「だから……今まで、いろいろ良くしてくれてありがとう」

 その言葉に含まれた別れの響きが、東川の胸に重く落ちる。


 だが、佐倉はそこで終わらせなかった。

「でも、本当は……戻りたくないんだ」

 小さな声だったが、はっきりと聞き取れた。東川は佐倉の顔を覗き込んで尋ねる。

「なんで?」

 佐倉はしばらく沈黙し、震える息を吐きながら答える。

「生きてる意味が分からない場所だから」

 その一言に、東川は言葉を失った。


 重い静寂が二人を包む。


 やがて、佐倉がぽつりと語り始めた。

「もともといた場所のこと、少し思い出した。ただ数字を争うばかりで、機械的なやり取りをして毎日が過ぎていく。実はこう見えて、本気で頑張って仕事してたんだ。私が働いていた場所では、私がどんな人間かなんて、誰にも見てもらえなかった。ただ完璧に振舞わないといけなくて。私の中身なんて、最初から存在しなかったように扱われて。さっき話したやつも、そこの人間だった。……腹が立って、一発入れてきちゃった」

 声には苦笑が混じったが、目は笑っていなかった。

「あそこでは、私はただ無視されてるみたいで、ずっと虚しかった。私なんか必要とされていないんだ、って思った。人間としてちゃんと生きてれてるのかどうかさえ分からなくなった。凍える冬みたいに、寒くて厳しい場所だった」

 そう言って佐倉は唇を嚙む。雑居ビルの屋上の縁に立った記憶が頭をよぎる。その記憶が喉までせり上がるが、飲み込んだ。


「……でも、こっちには居場所があった」

 目を伏せながら佐倉は続ける。

「初めて会った時、何も知らない私をケンくんが助けてくれた。アルベルトでキョーちゃんに『私がいると雰囲気が明るくなる』って言われたときは、死ぬほど嬉しかった。そんなこと、今まで誰にも言われたことなかったから。アルベルトの店長さんも、お客さんも、みんな温かかった。……そしてケンくんは、私の弱いところもそのまま受け入れてくれた」

 言葉の端々が震えていたが、その声には熱が込められていた。

「こっちの方が、私にとっては大事で尊いものだった。だから戻りたくない」

 強い声で言うが、その瞳の奥に、拭えない迷いがちらついていた。


 東川は頭の中で思考を走らせる。

 佐倉が元の場所に戻って辛い思いをするなら、彼女が連れ戻されないように守ってやりたい。でもそれは、自分のために彼女を失いたくないだけなのではないか。


 脳が焼けるように熱い。膝の上で握った両手が汗ばんでいる。

 どうすればいいのか。心の中で何度も問い直す。

 彼女は、戻りたくないから、引き留めて欲しいのか?

 そう自問したところで、佐倉の「戻りたくない」という言葉を思い返す。その強い声の裏に、不安が聞こえた。目の奥に、揺れる影を見た。


 首を横に振る。

 佐倉が本当に望んでいるのは、元の生活に戻っても、その足で進んでいけるようになることじゃないだろうか。

 だから、彼女の背中を押してやらなきゃいけない。


 胸奥を締め付けられるような苦しさを覚えながら、ゆっくりと息を吸う。


「さく」

 口を開きかけた瞬間、東川は佐倉を見て言葉を飲み込んだ。

 佐倉は座椅子を倒して背中を伸ばしたまま、寝息を立てていた。

 昨晩はドローンに追い回され、夜通しで懐中時計を探し続けていた。限界が来て当然だった。そして、丸一日留守にしたこの部屋に戻って来れた安心感もあったのだろうか。


 東川は苦笑し、ゆっくりと目を細める。

 不思議と自分まで眠気に襲われ、身体が傾いた。腰から崩れ落ちるように、佐倉の隣に倒れ込む。

 最後に見たのは、彼女の安らかな寝顔だった。

 東川もまた、静かに深い眠りへと落ちていった。



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