26 記憶
夜になると、雨が止んでいた。
東川は閉店後のアルベルトに足を運ぶ。
バックヤードに入ると、藤崎が一人で帰宅の荷物をまとめていた。
東川は立ち止まり、口ごもりながら「藤崎さん」と言う。藤崎は驚いたように手を止めて東川を見上げる。
東川は気まずそうに切り出した。
「昼間は、不快な思いをさせてしまって、すみませんでした。……その、藤崎さんの気持ちを詳しく聞かせてください。嫌だったら無理しなくていいですけど」
藤崎は息を吐き、気まずそうに東川を見る。
「私も、さっきはきつい言い方してごめん。二人は私にとって恩人なのに」
短い沈黙の後、藤崎の声に微かな震えが混じる。
「春岡さんが亡くなったときのことを思い出したの。あのときは突然のことで、私、何も言えなかった。春岡さんが死んだ理由を、みんなが勝手に探し始めた。『何かあったんじゃないか』とか、『誰かのせいじゃないか』とか。そればっかりで、誰も彼がどんな人だったかなんて、知ろうとしなかった。なんで?って、悔しかった」
東川は無言で深く頷く。藤崎はバッグの持ち手を握りしめて続ける。
「春岡さん、オムライスを嬉しそうに注文しててさ。技術者としてもすごい人で、私じゃわかんないような難しいことをやり遂げて。普段はムッとしてるけど、話しかけるとすごく穏やかな人でさ」
藤崎の声は大きく震える。
東川は頷きながら春岡の姿を思い出す。テレビでは真面目な顔で技術についてを語っていた姿、東川が彼に声を掛けた瞬間の穏やかな表情、謙虚だが芯のある声。
懐かしくなると同時に目頭が熱くなるのを感じた。
「それなのに、亡くなった瞬間に、『死んだ理由』であの人のことが上書きされていくのが、悔しかった」
藤崎は強く言い切った。
東川の胸の奥で、鈍い痛みが広がる。
――衛藤さんの死にも、自分は“意味”を与えようとしていたんじゃないか。あの人の命が終わったことを、自分の人生の一部にしようとしていたんじゃないか。
短い沈黙のあと、藤崎は東川を強く見つめて続ける。
「衛藤さんっていう人も、一緒だよ。その人の人生は、東川くんのために終わったわけじゃない」
言葉が胸の奥に静かに突き刺さり、東川は目を伏せる。
「だから、もう話せない人の“意思”なんて、簡単に語らないでほしい。そんな都合のいい言葉で、人の生き方を消費しないで。……私は東川くんたちの話が聞こえたとき、春岡さんと同じことをされるんじゃないかって思って、つい……」
東川は唇を結んだまま、ゆっくりと息を吐いた。
吐いた息が喉元でつっかえて苦しかった。だが、不思議とその苦しさに救われている自分もいた。誰かに言われなければ、きっと自分は衛藤さんの死に縋り続けていただろう。
そしてそれは、衛藤さんだけでなく――。
東川はゆっくりと重い口を開く。
「気持ちを教えてくれて、ありがとうございます」
東川は小さく一礼すると、藤崎も表情を緩めて言う。
「そういえば、みっちゃんもさっき、私のこと慰めてくれたんだ。……でも、みっちゃん、何か思い詰めてそうだったから、あの子の話も聞いてほしいな」
心臓がドクンと跳ねた。
帰宅すると、部屋は闇を落として静まり返っていた。
東川はリビングの明かりをつけ、深く息を吐きながらテーブルに向かって座る。
静寂の中で、藤崎の言葉を思い返していた。
自分は、なぜメカ野郎の手を取ろうと思ったのか。衛藤さんの意思を継ぐためか。
……ただ、そう思いたかっただけだ。
本当は、自分が何かを守りたかった。それは誰かのためではなくて、自分のために。
偽善的で利己的な自己満足だったのかもしれない。
「……佐倉ちゃんは、それに気づいてたのかな」
答えは返ってこない。
ふと、視線をテーブルの端に落とした。数日前、そこにあった衛藤の懐中時計は、もうここにはない。衛藤の形見だと信じて、指先で何度も確かめるように握りしめてきたもの。失ったときには、胸の中にぽっかりと穴が開いた気がしていた。
今は、汚くて最低な自己満足が、その穴を埋めていた。
形見がなくても、彼の姿は自分の中に息づいている。懐中時計に縋ることでしか彼の存在を繋ぎ止められないと思っていたが、それはもう不要なのかもしれない。
何気なく部屋を見渡して棚の上に置いてある小箱を目で捉えると、立ち上がって歩き出す。
綺麗な小箱を開けると、加納からもらったストラップが静かに横たわっている。そっと頭の上まで持ち上げると、部屋の明かりを透過して青色と白色の透明なビーズがキラキラしていた。それはまるであの頃の空を映しているかのようだった。
しばらく黙って見つめ、やがて目を閉じる。親友を救えなかった自分への戒め、背負い続けるべき罰――
「…………違う」
それはただ、大事な親友が生きていた証であり、思い出の小さな記憶の欠片だった。
自分の人生を、彼女の死で意味付けするのではない。彼女の人生は、彼女のものだった。それを勝手に“自分の物語”にしてしまうのは間違っている。
ただ、彼女の人生が確かにあったことを思い出す。
それでいいのだと、初めて思えた。
目を開けてストラップを見つめる。これまでのような心の重みはなかった。代わりに、かすかな温かさが胸に灯っているのを感じた。まるでこのストラップから“呪い”の意味が剥がれ落ちたようだった。
ただ、それで胸が完全に晴れるわけではない。
衛藤の意思に縋ろうとしたことも、加納の死を人生の言い訳にしたことも、佐倉の身元探しも――結局は、誰かのためを装った汚い自己満足だったのではないか。
その事実は消えないし、これからも背負い続けるしかない。
こんな自分が、この先も生きていっていいのだろうか。理由も正義もなく、ただ利己的な心を抱えたまま。
問いは静まり返った部屋に溶けていき、答えはどこからも返ってこなかった。




