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2 佐倉という人

 東川は冷蔵庫脇の段ボールからレトルトの牛丼ソースとレトルト米を取り出し、レンジと鍋に任せた。いつもの手抜き夕食を手慣れたように準備する。

 ふと背後から佐倉の声がした。

「……携帯の充電器貸してください。バッテリー無くなってて」

「座布団の近くにケーブルあるから使っていいよ。……あ、端子合わなかったら教えて」

「ありがとうございます」


 レンジを待っている間、横目でリビングを覗くと、佐倉はテレビをつけて座布団の上に足を崩して座っていた。

 テレビでは夜のニュースが流れ、佐倉は時々座る姿勢を変えながら無言でテレビを眺めている。


 東川は湯気が上がったレトルト米と牛丼ソースを皿に載せ、両手に1つずつ皿を抱えてリビングに向かう。

「佐倉さん、夕食出来たや。簡単なやつだけど」

「あ、ありがとうございます。おにいさ……ケンくん、さん」

 二人は牛丼の前に手を合わせ、箸を進める。


 牛丼の器が空になった後、東川は佐倉を見つめて口を開いた。

「まずは、佐倉さんの素性を明らかにして、元の生活に戻れるようにしようか」

 佐倉は黙って頷く。

「……とは言っても、手がかりが“佐倉美卯”って名前とその懐中時計……だけだとなあ」

 東川は眉間にしわを寄せてため息をつく。


 佐倉は懐中時計を持ち上げて眺めた。蓋の2本のスリットに思わず意識が吸い込まれそうになる。時計を裏返すと抉れたような傷が現れ、佐倉はその傷の深さを測るように指でなぞった。


 やがて佐倉は懐中時計を乱雑にテーブルに置き、足元のケーブルに繋がれたスマートフォンを持ち上げた。

「充電できた。もしかしたらこっちに何か手がかりがあるかも」

 佐倉は淡々と言いながらスマートフォンの起動を試みるが、すぐに手が止まる。

「パスコードなんて覚えてないし……」


 苛立ちと焦りの混ざった声を漏らしながらロック画面を操作し、緊急連絡先を開く。

 すると画面に3つの連絡先が現れた。

『実家』、『ROSA執行部代表』、そして3件目の名前に目が釘付けになる。

東川賢人ケンくん』。

 佐倉は手を止めて目を見開いたまま、対面に座る東川の顔を見る。

「ケンくんさんは、本当に私のこと……知らないの?」

「知らないなあ……」

 佐倉は東川の答えに戸惑いながら、スマートフォンに表示された『東川賢人』の電話番号をタップし、発信した。

 しかしどこにも繋がらなかった。


 佐倉は足元の座布団に視線を落とし、スマートフォンを持つ手がだらりと床に垂れた。

「……なんか私、この世界に存在することを拒否されてるみたいだな」

 その言葉に東川は心臓を針先で突かれたような痛みを感じた。それは普段東川が感じている虚しさを言語化したものだったからだ。

 彼女に掛けてやれる気の利いた言葉が見つからず、東川は俯いたまま黙り込んでしまった。


 やがて東川はゆっくり立ち上がってリビングの端のスペースに敷布団を引き、その上に新しいシーツをさっと敷いた。佐倉の寝床を確保していた。


 佐倉は部屋を見回すと、部屋の隅に積まれた漫画本を指す。

「あれ、『カラードット』じゃないですか。全部読んだんですか?」

 佐倉は興奮気味に尋ねる。それは東川が流行に乗ってなんとなく集めたものだった。気まずそうに東川は答える。

「……3巻までしか読んでないや」

 佐倉は積まれた漫画本に駆け寄り、表紙を見つめる。

「5巻からの展開が面白いのに。赤沢くんと黒部が……」

 佐倉の楽しげな声に、東川は怪訝な顔を浮かべた。

「赤沢って誰や」

「主人公」

「主人公は青海でしょ。赤沢なんてキャラ存在せんや」

 漫画本を手に取った佐倉は、驚いたように口を開けたまま固まった。

 その後、二人はしばらく沈黙した。


 東川はクローゼットを開いて中を覗き、自分がここで寝るには狭いなあと思いながら小さくため息をついた。振り返ると佐倉と目が合い、佐倉が躊躇いがちに口を開いた。

「あー……漫画読んだの昔過ぎて、よく覚えてないかも……」

「主人公の名前忘れるかや。……ふーん、佐倉さんは黒部推しかあ、意外とカタブツが好きなんやな。まあ後で続き読むわ」

「人の趣味を決めつけないで!」

 佐倉がむくれて言うと東川はふっと笑った。佐倉もつられて微笑を漏らした。

 二人を包む部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。


 テレビではちょうどニュースが終わり、深夜のバラエティ番組に切り替わった。

「ケンくんさんは、なんで私を助けてくれたの?」

 佐倉は淡々とした口調で問いかける。


 東川は考え込んだ。

 ……最初は、助けるつもりなんてなかった。でも。

 静かに佐倉の方へと目線を上げる。

「あの時佐倉さんを助けなかったら、自分が生きることを誰かに否定されそうな気がした」

 テレビからドッと笑い声が流れた。東川は小さく舌打ちをして続ける。

「俺はずっと、最悪な選択肢を引き続けてきた。もしもあっちを選んでれば、もしもああだったら、って、後からいつも考えるんだ」


 佐倉は東川を覗き込むような視線をぶつける。

「ケンくんさんは、後悔していることがある……?」

「……あるよ。だから、何ヶ月とか何年後とかの未来に、『今日佐倉さんを助けてよかった』って思えたらいいな」

 テレビから大勢の拍手の音が流れた。東川と佐倉はビクッとしてテレビに目をやる。


「自分を救うために私を助けたのか」

 佐倉は小さく呟いた。その声はテレビの騒ぎ声に埋もれて東川には聞こえていないようだった。

 佐倉はため息をついて足を立て直し、座る体勢を変える。

「もしかして座り心地悪い?」

 東川が佐倉に問いかけると、佐倉はきまり悪そうに下を向いた。

「俺ずっと座椅子欲しかったんや、明日一緒に買いに行こうか。……あと布団も」

 東川は部屋の端に簡易的に敷かれた布団に目をやった。


 佐倉は胸のあたりをすっと隙間風のようなものが抜けたような感覚を覚えた。暑い夏の日なのになぜだろうと考えていると、東川の頭上にあるエアコンが勢いよく冷風を吐き出していた。佐倉は「犯人はお前か」と言わんばかりにエアコンを睨みつけた。


 東川はテーブルに放置された懐中時計を拾い上げて佐倉に手渡す。

「これは佐倉さんがずっと持っておいた方がいい気がする」

 佐倉は口先を尖らせて受け取った。



 東川は台所のシンクで食べ終えた牛丼の食器を洗いながら、ふと考えた。

 存在しない住所、繋がらない電話、噛み合わない漫画の話。

 ――佐倉さんは、本来この世界に存在していない人なのでは……?

 そんな予感がふと脳裏をよぎった。

 東川は皿を擦りながら、不安を水流に押し流そうとしていた。

 やがて水音に紛れ、思考は静かになっていった。

 


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