18 内側
アルベルト近くの小さな個人経営の飲み屋に入ると、チーズやバジル、ガーリックなどの香ばしい匂いが店内に広がっていた。店内は観葉植物や木製のインテリアに囲まれた落ち着いた雰囲気で、若い女性客やカップルが席を埋めていた。
佐倉と藤崎はカウンターに並んで腰を下ろすと、藤崎がぱっとドリンクメニューを開いて佐倉の前に置いた。
「ドリンク決まった?」
藤崎は佐倉を窺うと、佐倉は小さく頷いた。
藤崎が手を挙げると、オーダーを取りに店員が駆け寄る。
「ファジーネーブルください」
藤崎が明るく注文する声に、佐倉もメニューを見ながら続ける。
「ビール……あ、いや、ゾンビお願いします」
藤崎が驚いた顔で佐倉を見る。
「ゾンビ?初めて聞いた~。みっちゃん物知りなんだね~」
佐倉は平然とした顔のまま答える。
「私も分かんない。変な名前だったからとりあえず頼んでみた」
藤崎は思わず吹き出した。
すぐに飲み物が運ばれた。オレンジ色のカクテルが2つ差し出される。
藤崎は小さく声を漏らしてファジーネーブルを受け取った。佐倉はゾンビの強烈なラムの匂いに思わず眉をひそめた。
「これ、アカンやつだ」
佐倉が小さく呟くと、藤崎は口元を抑えながら引きつったような笑いを漏らした。
「キョーちゃん」
佐倉はしゅんとして藤崎を見つめる。藤崎は笑いを引きずりながら「ごめん」と呟く。
一呼吸置いた後、二人のグラスが軽く鳴り、乾杯の声が小さく響いた。
しばらくは他愛もない話が続いたが、不意に藤崎の目が揺れた。
カウンターの奥に見える白髪交じりの男性客の後ろ姿に、一瞬大きく鼓動が鳴る。
春岡の姿が藤崎の脳裏をよぎった。無愛想で近寄りがたかったのに、話してみると嬉しそうに目を細める姿。あの表情を思い出して、胸が詰まるように苦しくなった。
「キョーちゃん?」
佐倉が覗き込むと、藤崎は慌てて笑顔を作った。
「……人を観察するのって、面白いなって思ってただけ」
「観察?」
「うん。仏頂面してるのに、好きな食べ物が出ると急に子供みたいに笑う人とか。行動の端っこに、思いやりが滲んでる人とか」
藤崎はグラスを見つめ、声を落とす。
「表面だけじゃ分からないんだよね、人って。それを教えてくれた人がいたの」
寂しげな笑みに、佐倉は思わず口を開く。
「……キョーちゃんは、仕事が楽しい?」
藤崎は迷いなく頷いた。
「もちろん。毎日いろんな人に会えるし」
その即答に、佐倉の胸に微かな痛みが走る。
胸の中でかつての自分を思い出した。それは命令を遂行するだけの存在。人間性を無視され、ただ『ROSAの執行官』としての歯車にされていった日々。楽しいなんて感情は芽生えなかった。
「歯車みたいに、ただ機械のように働いてる人を……キョーちゃんはどう思う?」
思わず問いかけていた。その問いの裏には、かつての自分を否定されるのではないか、という不安が影を落としていた。
藤崎は少し考えた後、真面目な顔で答えた。
「普通のことじゃないかな。組織に属してれば、みんな多少はそうでしょ。大事なのは、それを受け入れられるかどうか、だと思う」
その答えに、佐倉は拍子抜けして目を瞬いた。てっきり『人間らしさを失うな』というような叱責を受けるだろうと思っていた。
「でも……歯車って、摩耗するよ。噛み合いが悪くなったら折れる。人の心も、きっと同じ」
「だからこそ、油を差してくれる存在が必要なんだと思うな。私だって時々すり減るよ、理不尽なお客さんに怒鳴られたりしてさ」
寄った女性客の怒鳴り声が重なり、二人は顔を見合わせて困ったように笑った。
「むかついたら客でも殴るかも」
佐倉の言葉に藤崎は思わず笑い声を漏らした。
「はは。お店の人、大変そう。……そんなことばっかりだからさ、頑張れる存在って大事だよね」
グラスを重ねていくうちに、ふたりの頬にはほんのり赤みが差してきた。
言葉の間に力が抜け、笑い声が混じるようになる。
ふと後ろのテーブル席から、「私たちも将来考えないと」という会話が耳に届き、藤崎がくすりと笑う。
「将来やりたいことが多すぎて、人生を分裂させたい~!」
藤崎は頬杖をついて遠くを見つめた。
「人生を分裂かあ」
「もし別の世界があるならさ、全然違う私が生きてるんでしょ?資格取って専門職とか、真面目に働いてたりして!」
藤崎の無邪気な声に、佐倉の心の中で冷たい空気が広がった。
別の世界の自分……μ世界の自分は、もう死んでいる。
佐倉は目線を藤崎に向けた。藤崎は佐倉を気遣うように、静かに佐倉を窺っていた。
……けれど、こっちの自分がもし生きていたなら――。キョーちゃんと出会って、こうして笑い合っていたかもしれない。
佐倉の胸の奥に切なさが広がった。
気づけばグラスは何度も空になり、二人とも足元がおぼつかなくなっていた。
店を出て佐倉がスマートフォンを取り出す。画面がバキバキに割れたスマートフォンを顔に近づけ、佐倉は東川と通話を始めた。
「ケンくゆ~、むかえひて~」
藤崎は佐倉のスマートフォンを指して「その画面、どしたのん?」と笑いながら尋ねた。
「このスマホ、ケンくゆのお下がりにゃ」
佐倉はしゃっくりをしながら身体を揺らしていた。
二人は店の前でおぼつかない足取りで立っていると、通りすがりのサラリーマン二人組が声を掛けてきた。
「お姉ちゃんたち、これから暇?一緒に飲もうよ」
サラリーマンたちのアルコールの匂いと赤ら顔に、二人は険しい顔でよろけながら退く。
不意に佐倉は腕を掴まれる。腕に食い込む指の力に、酔いの熱よりも不快感が勝ち、軽く吐き気を覚えた。肘で突くように振りほどくと、サラリーマンが怒りの表情を佐倉に向けた。
次の瞬間、サラリーマンたちが後ろから首根っこを引かれて地面に叩きつけられる。
倒れたサラリーマンたちの後ろに、呆れ顔の東川が立っていた。
「ほら、帰るぞ。二人とも」
藤崎を先に送り届け、東川と佐倉は二人で帰り道を歩いていた。夜風が佐倉の酔いを少しずつ醒ましていた。
佐倉が東川の横顔をちらりと見ると、東川は口元を綻ばせながら空を見上げていた。
「ケンくん、なんか嬉しそうだね」
「佐倉ちゃんが楽しそうにしてたからだや」
東川の返答に、佐倉は戸惑ったように口ごもる。
「……ほんとか?」
「本当」
東川はゆっくりと優しい声で答えた。
佐倉はそこから黙って俯きながら歩き続けた。酔いがまだ残っているのか、顔が少し熱かった。
少し間を置いて、東川がぽつりと呟いた。
「みんなが仲良くしてくれるのが、一番や」
その言葉が遠くの誰かに向けられたかのように、静寂の中で広がった。




