17 安寧の兆し
ある日のバイト終わり、時刻は夜10時を回っていた。
眠気と空腹が混ざった疲れのような表情を浮かべた東川は、バックヤードのイスで項垂れていた。隣では佐倉が荷物をまとめて帰宅の準備をしている。
藤崎が余ったまかないのチキンライスを持ってきた。
「よかったら食べて~」
東川は生気を取り戻したように立ち上がる。
「藤崎さん、ありがとうございます。佐倉ちゃんも一緒に食べよ」
佐倉は目を丸くした。
「え、私も?」
「当たり前じゃんか~。みっちゃんがいるとなんか雰囲気が明るくなるんだよ~」
藤崎は佐倉の肩を叩いて言う。
佐倉はチキンライスを見つめていた。東川には、その目が少し潤んでいるように見えた。
佐倉がチキンライスを食べ終えて、荷物を肩にかけたタイミングで、東川が立ち上がる。
「じゃ、佐倉ちゃん、そろそろ一緒に帰るか」
佐倉は一瞬躊躇したように立ち止まり、口を開く。
「……ごめん、これからキョーちゃんと飲みに行く約束してて。先帰っててくれる?」
東川は「えっ」と言いかけると、横から藤崎が割り込んでくる。
「急にごめんね~。これからみっちゃん借りるわ~」
東川は少しだけ間を置いて、肩をすくめる。
「女子会かよ。しょーがねーなー」
佐倉は小さく笑って、「うん、気を付けて」と言い残してバックヤードを出ていった。
東川はその背中を見送りながら
「佐倉ちゃんは俺みたいに道端で寝るなよー」
と声を掛けた。
佐倉と藤崎の後ろ姿を名残惜しく見つめ、東川もバックヤードを後にした。
東川が人通りの少ない夜道を歩いていると、目の前に人影が現れる。
「ひぃ」
東川は裏声を上げ、その人影を避けようとした。
「待てやトロ助」
左肩を掴まれた。身動きできずに恐る恐る左脇を見ると、メカ野郎が横目で東川を睨んでいた。
「なんでお前が」
「待ち伏せしてた。お前、夜までシフト入ってるの今日だけだったやろ」
東川は背筋がぞわりと冷えるのを感じた。
「なんで俺のシフト知ってるや」
「……お前の部屋にシフト表あっただろ」
東川は呆然として、白い顔をメカ野郎に向けた。
「……お前、やってることストーカーと一緒だぞ。気色悪すぎるわ。やめや」
メカ野郎は一瞬沈んだ顔をするが、いつもの無表情に戻り東川に言う。
「この前、輩がこのあたりで暴れただろ。あの時ケガしなかったか?道端で倒れていた男の情報を聞いたが、お前のような気がしてて」
東川は一瞬驚いて唾を飲んだ。
「それ俺や。大きなケガしてないしちゃんと帰れたわ。心配ありがとさんっ!」
東川は厭味ったらしく言い放つ。メカ野郎に目をやると、安堵したように小さくため息をついていた。
東川は怪訝な顔をしてメカ野郎を睨む。
「お前、ほんとにメカ野郎か?」
「うん」
東川は浮かない表情のまま首を傾げる。
「お前、俺のこと心配して、わざわざ待ち伏せしてたんか?」
「そうだ」
メカ野郎の返答に、東川は気が抜けたまま沈黙した。東川が目を見開いてメカ野郎を凝視すると、同じ高さの視線がぶつかる。その視線からに東川は頭の中を覗かれているような感覚がして、下を向きながら後退りする。
「……お前に心配されるほど、俺はか弱くない」
東川は弱々しい声を出した。
メカ野郎は何も言わず静かに東川を見つめる。夜道の静かな風音だけが耳に入る。
長い沈黙と頭の先に感じる視線に、東川は思考が溶かされるようだった。
逃げ場を失ったように、口が勝手に動く。
「……でも、お前みたいに強く生きられたらなって、思う」
言ってすぐ、違和感が胸を刺した。
その言葉は、尊敬でも憧れでもなく、ただ、『なぜお前はそんな自信満々でいられるんだ』という皮肉が滲んでいた。
メカ野郎は東川の頭の先に視線を向けたまま言った。
「本当にそう思ってるんか?お前、ずっと俺の生き方を否定してただろ」
東川は図星を突かれたように喉が詰まる。
顔を上げるとメカ野郎と目が合った。
メカ野郎は何も言わず、東川の言葉を待っているようだった。
その視線に敵意は感じられず、むしろ何かを汲み取ろうとしているようだった。
「お前とは価値観が合わなすぎて文句言ってばかりや。ごめん」
東川は苦笑いを浮かべながらメカ野郎を見る。
「俺……よく分からんのよ。間違えてばっかりで。このまま生き続ける価値ってあるのかなあっていつも思ってる。でも、お前は……今まで何も間違えてこなかったんだろうな、何も後悔なんてしてないんだろうなって思ってて」
メカ野郎は瞼を閉じて黙っていた。東川は続ける。
「俺は、今生きてること自体が間違いなんじゃないかって思ってて。うまく言えないけど……俺は空っぽで、無能で、虚無だから」
口にした瞬間、胸の奥が冷える。今の言葉は、自分でも認めたくなかった本心だった。
東川はこの後に続く言葉を絞り出せず、沈黙する。
メカ野郎は目を開くが、視線は東川の横をすり抜け、口角がやや下がっていた。突然の東川の告白に困惑しているようだった。
東川は気まずさにため息をつく。
「変な話してごめんや。こんなこと言われても困るよな」
東川は伏し目がちに笑うと、メカ野郎は小声で「うん」と相槌を打つ。東川は呆れ顔でメカ野郎に歩み寄り、肘で彼の脇腹を小突いた。
メカ野郎は横目で東川を見て口を開く。
「自分の無能さに悩むこと自体、お前が虚無じゃなくて、ちゃんと生きようとしてるってことだろ」
東川は驚いたように目を見開いてメカ野郎を見た。メガネの奥の目と目が合い、互いの目線が融和していくような感覚を覚える。
その時、「彼を救ってほしい」と言った衛藤の声が蘇った。
今のメカ野郎なら、衛藤とも話ができるかもしれない。そして、メカ野郎を救うためには、衛藤の存在も必要かもしれない。そんな直感があった。
思わず東川は言った。
「衛藤さんと会って話をしないか?あの人はお前のことを心配してた。……今のお前なら衛藤さんと分かり合える気がするや」
メカ野郎の目が少し開き、スマートフォンを取り出して確認する。
「明後日の夜8時なら。……それがあいつの命日になるや」
「どんな返事や。物騒過ぎるわ」
東川がメカ野郎に顔を向けると、メカ野郎の目尻は下がり、口角はやや上がっていた。その穏やかな表情を見て、東川は物騒な返答が彼なりの軽口だと察する。
眠るように静まり返った裏道で、東川は爽やかな夜の風に心を洗われるような感覚がした。