16 投影
東川が目を覚ますと、周囲の明るさに驚く。いつものクローゼットの中ではなく、リビングで寝ていたようだった。
足元にスマートフォンを見つけ、ロック画面を見ると、時刻は午前9時10分を示していた。
慌てて飛び起き、部屋を見回す。佐倉の姿はない。
「佐倉ちゃん、バイト行ったんかや……」
東川は昨日どうやって家に帰ったのかと記憶を辿った。アルバイトの帰り道に突然男に突き飛ばされ、そのまま倒れた――そこまでは覚えている。そのあと、一度誰かに声を掛けられた気がする。そのあとは、佐倉と一緒に手を繋いで帰ったような記憶がおぼろげにあったが、一瞬でそれは夢だったと気づく。東川は顔を赤らめて頭を抱えた。
ふと、東川の胸から腹にかけて温かい感覚が蘇る。誰かに背負われていたのだろうか。そして「私たちの家はあっちだよ」と言う優しい声が頭の中に響いた。それはよく聞き慣れた声だった。
「……佐倉ちゃんに助けてもらったのかな」
東川は呟いた。
そして昨日の朝の言い合い以降、佐倉とまともな会話をしていないことを思い出す。心の中に複雑なもやを抱えながら立ち上がった。
夕方の光が漏れるくらいの曇り空の下、佐倉は一人でアルバイトの帰り路を歩いていた。目の前に高校生の男女二人組が歩きながら話している。
「明日の大会、一緒に頑張ろうね」
女子高生が男子高生にお菓子の小さい包みを手渡す。包みには付箋が付いていた。付箋にはメッセージが書いてあるのだろうと佐倉は想像する。
「お、サンキュー!ちょうど腹減ってたんだわ」
お菓子を受け取った男子高生は付箋に目もくれず袋を開け、その場でお菓子を食べ始めた。そのまま包装紙をコンビニのゴミ箱に捨てる。
女子高生から表情が消えて固まる様子が、後ろ姿からでも想像できた。
佐倉はそのやり取りに、過去の自分の姿を重ねてしまう。
――大事だった人に、自分という人間を、そして自分の気持ちを理解してほしかった。でも、何も分かってもらえなかった。その人にとって自分は『実行機能』でしかなかった。メッセージを見て欲しかったのに中身だけ消費されたお菓子のように。
佐倉はぼんやりと目の前の女子高生を眺める。小さい背中が虚しさを語っているようだった。
女子高生はお菓子を咀嚼する隣の男子高生をしばらく茫然と眺めているようだった。言葉を詰まらせながら、それでも何かを伝えようと彼女は口を開く。
「さっきのお菓子にメッセージつけてたんだけど……気持ち込めて書いたのに」
男子高生は驚いたように立ち止まり、
「まじか、ごめん!気づかなかったわ」
と叫んで先ほど包装紙を捨てたコンビニのゴミ箱に走って行った。
佐倉とすれ違った男子高生の表情には焦りと必死さが混ざっていた。
「……私も、ちゃんと言わないとな」
佐倉は呟く。慌てたような男子高生の後ろ姿を一瞥し、帰路についた。
帰宅すると、東川が玄関まで迎えた。
驚いた佐倉を見て東川は照れたように笑いながら言った。
「昨日助けてくれたんでしょ?ありがと」
佐倉は目線を東川から反らして答える。
「……むしゃくしゃして外歩いてたら、偶然ケンくんが落ちてたから」
「落ちてたって……言い方」
東川はフッと笑いながら言う。
しかし、その笑みはすぐに凍りつく。
東川の脳裏に浮かんだのは、かつて小説投稿サイトに書き込まれた冷たい文字だった。
『またいつもみたいに女の子に助けられる展開かよ(笑)』
偶然の出来事が、自分の物語をなぞっている。
――佐倉ちゃんに救われた今の自分は、あのコメントに書かれた空っぽの登場人物と同じじゃないか?
それと同時に、衝動がせり上がってきた。
あの小説の人物は「自分」そのものだ。無力で、情けなくて、苦しみを抱えている。
その影を、誰かに気付いてほしかった。
偶然助けてくれた彼女なら、笑わずに読んでくれるかもしれない――そう直感した。
東川はゆっくりと佐倉を見て、口を開いた。
「なぁ、佐倉ちゃん。俺、小説書いててさ…………いくつか読んでほしいんだ」
時計の針が真夜中を指した。
沈黙が続いていた部屋に、佐倉の声がぽつりと落ちる。
「……ふう、読み終わった」
スマートフォンを座椅子の脇に置き、背伸びをした佐倉は、天井を見上げてから笑った。
「『きみが生きている世界』、なんか懐かしい感じがしてよかったな。春の陽だまりみたいなあったかさがあった」
東川は胸を撫で下ろし、小さく息を吐いた。
その隣で、佐倉は目を細めながら続ける。
「『上昇鬼竜』のケイイチもさ、私は共感できるかも」
思いがけない感想に、東川は目を丸くしながらも、安堵で口元が緩んだ。
だが佐倉はすぐに言葉を止め、考え込んだ。指先で座椅子の背もたれを撫でながら、やがてゆっくりと口を開く。
「ケンくんの小説の主人公って……みんな、生きるのがつらそうにしてるよね」
東川の心臓が一拍強く打った。
脳裏に、自分が描いた人物たちが次々と浮かぶ。『Ifourteen』のスバル。『オーダーメイド・アビリティ』の四谷。『きみが生きている世界』の純。そして『上昇鬼竜』のケイイチ。
彼らは誰もが、世界を憎んでいた。
『俺が生きる意味なんてない』
そんな台詞を、気付けば幾度も書き散らしていた。
東川は息を呑む。
確かに彼らは“救われた”。
だがそれは――時間を巻き戻したり、世界を作り変えたり、別の世界に渡ったり――。
自分の足で前に進んだ者は、一人もいなかった。
胸の奥に、冷たいざわめきが広がる。
それは佐倉の言葉ではなく、自分の小説が突き付けてくるものだった。
――俺の主人公たちは、全部“俺”じゃないのか?
この世界を生きることに、納得できずにいる俺自身の。