13 亀裂
翌日の朝。
東川はアルバイトに行く支度をしていた。
その傍ら、佐倉はROSA懐中時計を平たい目で見つめる。大事なものと思い込んでいたが、今はO世界に佐倉を縛り付ける鎖のようなものだ。
東川は懐中時計に気づくと、佐倉に声を掛けた。
「そういえば、佐倉ちゃんのと同じ懐中時計を持っている人がいたんや。もしかしたら手がかりが見つかるかもしれないから、今度その人に話を聞いてみようと思ってるや」
佐倉は東川の言葉を聞いて硬直する。
……ROSAの関係者が近くにいる?
「……ちなみに、どんな人?」
佐倉は恐る恐る尋ねると、東川は少し間を置いて言った。
「俺と同じくらいの年で、メガネかけてて無表情のメカみたいな男」
佐倉は小さな悲鳴を漏らした。
脳裏に浮かんだのは、モノを見るような目と冷たい声――O世界の加納のことをよく知る人物だった。
……私の居場所が知られたら、あの地獄のような場所に連れ戻される。
「やめて」
「なんで」
「……その人、私の敵かもしれないから。怖い」
――違う。本当に怖いのは、せっかく手に入れた温かい居場所を失ってしまうことだ。
佐倉の怯えた表情を見て、東川は優しく答える。
「うん。そうだよね。佐倉ちゃんのことは言わないつもりだし、聞き方もちゃんと考えるから」
「やめて!お願いだから」
佐倉は必死な表情で訴える。東川は佐倉のただならぬ様子に怪訝な顔をする。
「……なんかあった?」
佐倉はハッとしたように一瞬静止した後、下を向いて呟いた。
「……なにもないけど」
「何もないなら、佐倉ちゃんのためにやろうとしてることを止めないでほしいな。元の生活に戻るための情報が得られるかもしれないだろ」
東川の返答を聞いて、佐倉は項垂れた。
佐倉の胸の奥に冷たいものが広がる。
結局、この人も私のことを何も分かっていない。だけど、私からもどう説明すればいいか分からない。
同時に、背後に迫る気配を思い出す。O世界の目に見つかってしまうかもしれない―― そんな焦りが首筋をひやりと撫でた。
堪えきれず、佐倉は深く息を吸い込み言い放つ。
「ケンくんは私のこと何も知らないくせに、私のためとか言わないでよ!」
東川は言い返すための言葉が喉元まで込み上げてきたが、口を閉ざす。
ここで何を言っても空回りする気がしていた。
「……そうか」
苛立ったような鼻息を鳴らしながら玄関へ向かった。佐倉は焦り気味に東川を追いかける。
「どこ行くの?」
「バイト」
東川は淡々と言い放ち、佐倉を振り返らずに玄関から出て行った。
空は今にも落ちてきそうなほど重々しい濃灰色の雲に覆われていた。
大通りに出て横断歩道を渡ろうとした瞬間に、信号が赤に変わる。東川は足を止め、深くため息をついて信号機を睨んだ。
胸の奥に抱えた苛立ちをどのように消化したらよいのか分からない。物事が良い方向に進むだろうと思って選択した行動が裏目に出る。佐倉を手助けしようと思ったのに、彼女を怯えさせて、しまいには怒らせてしまった。
意図せず佐倉を傷つけてしまった自己嫌悪が、空を覆う雲のように東川の胸を埋めていく。
再び深く息を吐く。
信号が青に変わる。
東川は左右を確認して重い足取りで歩き出した。