11 私が生きている世界
「大丈夫?落ち着いた?」
「……ありがとう」
東川の部屋で佐倉は座椅子にもたれかかり、焦点が合わない目で天井を見つめている。
「佐倉ちゃんも記憶がはっきりしてないだけで、何か辛いことがあったのかもしれないね」
東川はグラスに麦茶を注いで佐倉に差し出した。
「私も、って、ケンくんは辛いことがあったの?」
しばらくの間、扇風機のモーター音だけが部屋に響く。
東川は正座に座り直し、テーブルに肘をついた。
「俺、昔親友を失ってからずっと、『俺なんかが生きてていいんだろうか』って思ってるんだ」
東川は、小学5年の夏の出来事を語り始めた。
加納明那という親友がいたこと。彼女と遊ぶ約束をしたこと。16時に公園に行かなければならなかったこと。でも、ゲームに熱中して約束を反故にしたこと。加納は家まで迎えに来てくれたのに、それでもゲームを選んだこと。その結果、加納は運悪く交通事故に遭って死亡したこと。
佐倉は「加納明那」という名前を聞いた瞬間にビクっと反応したが、東川の話を黙って聞いていた。
そして佐倉はぽつりと言う。
「ケンくんは、それで夕方4時に公園に行く約束ができないんだ。……この前の花火の時も」
東川は徐に立ち上がり、部屋の隅の方に歩き出す。
東川は棚の上にある小箱を開け、佐倉に青いビーズストラップを手渡した。
「これ、明那ちゃんがくれたものなんや」
佐倉は手の中のビーズストラップを見る。
不揃いなビーズと隙間、留め具からはみ出したテグスの端。
その不格好さに、不意に胸の奥が締め付けられる。
その瞬間、視界が滲み、光が水色に揺らめいた。
同時に、堰を切ったように記憶が流れこんできた。
――このストラップを作ったのは、他でもない“私”だった。
青と白のビーズを交互に並べ、留め具を付けるだけなのに、手先が不器用で何度もやり直した。
それでも『親友の証』にしたくて、ケンくんの誕生日プレゼントに渡したものだった。
小学5年生の夏、ケンくんに命を助けられたあの日から、ケンくんのことが好きになった。
けれど、彼が高校生になると、「ストラップ?……そんなの貰ったっけ」と言った。
その時は胸に穴が開いたようになった。
だけど、忙しそうな彼をただ傍で見守ると決めた。
あの時は気づかなかったけど、今なら分かる。あのメガネの奥の目に、罪悪感なんて少しもなかった。
ROSAの執行官になったのも、彼の隣にいられるからだった。深夜のオフィスで終わらない書類に頭がくらくらしても、彼の机にまだ灯りが残っていると、それだけで手を動かせた。
除外対象の衛藤を見逃さないために写真を懐中時計に挟んだり、パラレルを駆けずり回ったり……何度も怪我をしたし、懐中時計もいつの間にか傷だらけになっていた。
全部、大好きなケンくんの役に立ちたい一心だった。
そして、ケンくんとの面談でようやく言われた言葉。
「加納がいると仕事がやりやすい」
ようやく報われた嬉しさと誇らしさがこみ上げた。
でも、彼の話の続きは、効率と数値の評価だけだった。面談の机越し、彼はモニターの数値だけを見ていて、私の顔には一度も視線を寄越さなかった。
私は人じゃなくて、ただの機能に過ぎなかった。
あの時から、彼を見るたびに胸が空っぽになっていった。
積み上げた時間も、想いも、全部無意味だったんだと。
彼がストラップを失くしたのも、きっと『私の気持ちは不要だ』という意味だったのだろう。
そしてあの日。任務の最中に転んだ私を、彼は一度も振り返らず「急ぐぞ」と去って行った。
――あ、私、いないほうがいいな。
雑居ビルの屋上から見下ろした路地。
その景色が、加納明那としての最後の記憶になった。
まるで冷気が差し込む冬のようなO世界。
それが、加納明那である私が生きている世界。
……でも、私が死んだµ世界は、もっと暖かかったようだ。
あの時のビーズストラップが、死んだはずの私の心が、ここではまだ生きているんだ。
記憶を取り戻した今、私はO世界に帰りたいと思えなかった。
東川はハンドタオルを佐倉に差し出した。
「佐倉ちゃん、これ使って。……急に重い話してごめんや」
佐倉はハンドタオルを顔に押し付けた。
押し込めていたものが崩れるように、嗚咽が溢れ出した。誰からも、そして自分自身からも見て見ぬふりをしてきた気持ちが、行き場を失ったまま胸の奥からなだれ込んでくる。
涙はあとからあとから滲み、タオルを濡らしていた。
やがて、溢れた感情を吐き出すように、深く息を吐いた。
全身から力が抜けていくと同時に、タオルが熱を帯びる。
しばらくして呼吸が整うと、佐倉はタオルから顔を上げる。
憂い顔の東川と目が合い、東川は照れくさそうに微笑む。
「でも、佐倉ちゃんに会ってから、ほんのちょっと変わった気がする。……よく分からんけどさ」
佐倉は目の前のグラスに目線を落として黙り込む。
――この人が私に居場所を与えてくれるなら、O世界に戻らずに佐倉美卯として生きていこう。
麦茶の水面に映る佐倉の表情は、ROSA執行官として強くあろうとした、かつての加納のそれだった。キリっとしてまっすぐ刺さるような視線、引き締まった口元。
だがその表情の意味は、あの時とは完全に異なっていた。