表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/14

11 私が生きている世界

「大丈夫?落ち着いた?」

「……ありがとう」

 東川の部屋で佐倉は座椅子にもたれかかり、焦点が合わない目で天井を見つめている。

「佐倉ちゃんも記憶がはっきりしてないだけで、何か辛いことがあったのかもしれないね」

 東川はグラスに麦茶を注いで佐倉に差し出した。

「私も、って、ケンくんは辛いことがあったの?」

 しばらくの間、扇風機のモーター音だけが部屋に響く。


 東川は正座に座り直し、テーブルに肘をついた。

「俺、昔親友を失ってからずっと、『俺なんかが生きてていいんだろうか』って思ってるんだ」


 東川は、小学5年の夏の出来事を語り始めた。


 加納明那という親友がいたこと。彼女と遊ぶ約束をしたこと。16時に公園に行かなければならなかったこと。でも、ゲームに熱中して約束を反故にしたこと。加納は家まで迎えに来てくれたのに、それでもゲームを選んだこと。その結果、加納は運悪く交通事故に遭って死亡したこと。


 佐倉は「加納明那」という名前を聞いた瞬間にビクっと反応したが、東川の話を黙って聞いていた。

 そして佐倉はぽつりと言う。

「ケンくんは、それで夕方4時に公園に行く約束ができないんだ。……この前の花火の時も」


 東川は徐に立ち上がり、部屋の隅の方に歩き出す。

 東川は棚の上にある小箱を開け、佐倉に青いビーズストラップを手渡した。

「これ、明那ちゃんがくれたものなんや」


 佐倉は手の中のビーズストラップを見る。

 不揃いなビーズと隙間、留め具からはみ出したテグスの端。

 その不格好さに、不意に胸の奥が締め付けられる。


 その瞬間、視界が滲み、光が水色に揺らめいた。

 同時に、堰を切ったように記憶が流れこんできた。


 ――このストラップを作ったのは、他でもない“私”だった。



 青と白のビーズを交互に並べ、留め具を付けるだけなのに、手先が不器用で何度もやり直した。

 それでも『親友の証』にしたくて、ケンくんの誕生日プレゼントに渡したものだった。


 小学5年生の夏、ケンくんに命を助けられたあの日から、ケンくんのことが好きになった。


 けれど、彼が高校生になると、「ストラップ?……そんなの貰ったっけ」と言った。

 その時は胸に穴が開いたようになった。

 だけど、忙しそうな彼をただ傍で見守ると決めた。

 あの時は気づかなかったけど、今なら分かる。あのメガネの奥の目に、罪悪感なんて少しもなかった。


 ROSAの執行官になったのも、彼の隣にいられるからだった。深夜のオフィスで終わらない書類に頭がくらくらしても、彼の机にまだ灯りが残っていると、それだけで手を動かせた。

 除外対象の衛藤を見逃さないために写真を懐中時計に挟んだり、パラレルを駆けずり回ったり……何度も怪我をしたし、懐中時計もいつの間にか傷だらけになっていた。

 全部、大好きなケンくんの役に立ちたい一心だった。


 そして、ケンくんとの面談でようやく言われた言葉。

「加納がいると仕事がやりやすい」

 ようやく報われた嬉しさと誇らしさがこみ上げた。


 でも、彼の話の続きは、効率と数値の評価だけだった。面談の机越し、彼はモニターの数値だけを見ていて、私の顔には一度も視線を寄越さなかった。

 私は人じゃなくて、ただの機能に過ぎなかった。


 あの時から、彼を見るたびに胸が空っぽになっていった。

 積み上げた時間も、想いも、全部無意味だったんだと。


 彼がストラップを失くしたのも、きっと『私の気持ちは不要だ』という意味だったのだろう。


 そしてあの日。任務の最中に転んだ私を、彼は一度も振り返らず「急ぐぞ」と去って行った。

 ――あ、私、いないほうがいいな。

 雑居ビルの屋上から見下ろした路地。

 その景色が、加納明那としての最後の記憶になった。



 まるで冷気が差し込む冬のようなO世界。

 それが、加納明那である私が生きている世界。

 ……でも、私が死んだµ世界は、もっと暖かかったようだ。

 あの時のビーズストラップが、死んだはずの私の心が、ここではまだ生きているんだ。


 記憶を取り戻した今、私はO世界に帰りたいと思えなかった。




 東川はハンドタオルを佐倉に差し出した。

「佐倉ちゃん、これ使って。……急に重い話してごめんや」

 佐倉はハンドタオルを顔に押し付けた。


 押し込めていたものが崩れるように、嗚咽が溢れ出した。誰からも、そして自分自身からも見て見ぬふりをしてきた気持ちが、行き場を失ったまま胸の奥からなだれ込んでくる。

 涙はあとからあとから滲み、タオルを濡らしていた。


 やがて、溢れた感情を吐き出すように、深く息を吐いた。

 全身から力が抜けていくと同時に、タオルが熱を帯びる。


 しばらくして呼吸が整うと、佐倉はタオルから顔を上げる。

 憂い顔の東川と目が合い、東川は照れくさそうに微笑む。

「でも、佐倉ちゃんに会ってから、ほんのちょっと変わった気がする。……よく分からんけどさ」


 佐倉は目の前のグラスに目線を落として黙り込む。

 ――この人が私に居場所を与えてくれるなら、O世界に戻らずに佐倉美卯として生きていこう。


 麦茶の水面に映る佐倉の表情は、ROSA執行官として強くあろうとした、かつての加納のそれだった。キリっとしてまっすぐ刺さるような視線、引き締まった口元。

 だがその表情の意味は、あの時とは完全に異なっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ