10 救うということ
とある平日の朝。いつもより遅めの朝食を取っていると、東川のスマートフォンに着信が入った。画面の『衛藤裕丞』の名前にぎょっとして応答ボタンをタップする。
「……はい。東川です。どうしました?」
「急にごめん!ちょっと見て欲しいものがあるんだよね。今日暇?」
電話の向こう側の声は意気揚々としていた。
「暇ですけど」
東川は向かいでトーストを頬張る佐倉をちらっと見る。
「……俺のほかにもう一人連れてってもいいですか?衛藤さんに会わせたい人がいるんです」
電話の先で短い沈黙が流れる。
「10人でも100人でも連れてくるといい。あとで場所送るから、18時までの好きなタイミングで来てよ」
着信は切れた。
東川は息を深く吐いた。佐倉を見ながら神妙な面持ちで切り出す。
「佐倉ちゃんさ、急なんだけど、会って欲しい人がいるんだ。その……懐中時計の写真の人」
佐倉のトーストを頬張る口の動きが止まった。そのまま平たい目とまっすぐに閉じた口を顔に浮かべて東川を見る。
佐倉の表情から気持ちが読み取れず、東川は困惑しながらも続ける。
「衛藤さんっていうんだけど。悪い人じゃないと思うよ。……ちょっと変な人だけど」
「えとう……名前聞いても思い出せんなあ」
「そうかあ……でも衛藤さんが佐倉ちゃんのこと知ってるかもしれないし」
東川は困ったように佐倉を見る。佐倉は表情を変えずにトーストを頬張っている。
「……まー、会うだけならいいよー」
佐倉の返答に東川は安堵し、目の前の冷めたトーストを食べ始めた。
東川と佐倉が衛藤のもとに向かったのは昼過ぎだった。
衛藤に指定されたのは、東川の自宅から歩いて20分ほどの閑静な住宅街の一角だった。
急に開けた土地が現れ、その奥に診療所のような外観の薄灰色の建物がある。
「ここ、ほんとに研究所なのか……?」
東川は怪しい建物の敷地内に足を踏み入れる。少し歩みを進めると、建物の外壁に小さくて地味な看板が取り付いてあるのが目に入った。東川が目を凝らして看板の文字を読み上げる。
「エー、ピー、ユー、エス……?」
その瞬間、入り口の自動ドアが開き、中から人影が現れた。
「東川くん、久しぶりー!……なんでそんな怖い顔してんの?」
現れた衛藤は、あの時と同じチェックシャツを着ていた。
「ほんとにここで合ってるかなーって不安になっちゃって。この間ぶりです、衛藤さん」
東川は衛藤に会釈する。佐倉もつられて衛藤に会釈した。
衛藤が佐倉に目を向けた途端、衛藤の表情が凍り付いた。引きつった顔で佐倉に問いかける。
「君は……」
「佐倉美卯です」
その名前を聞いた瞬間、衛藤の表情から緊張が消える。だが彼の目は驚いているように開いていた。
「佐倉さん、ね。僕は衛藤といいます。よろしくねー」
「はい、よろしくお願いします」
佐倉は表情を崩さなかった。
衛藤は東川と佐倉を入り口から入るように促した。東川はそのまま自動ドアへと進んだ。
佐倉は立ち止まり、入り口の看板を凝視する。
“APUS:Agency for Preserving Unaltered Serenity”。
――エーパス、手を加えられない平静の保全機関?……それにさっきケンくんが言った『研究所』というワード。この建物のコンセプト、意味不明だ。
「何か気になるか?」
佐倉が低い声の方向を振り向くと、衛藤が睨みつけていた。佐倉は平然とした顔で口を開く。
「何も分からないんです。あなたが何者なのか。ここで何をしたいのか。……悪事を疑っているのではなくて、その、遊んでるのかなあって」
衛藤は思わず吹き出す。
「僕は遊んでるわけじゃないんだよ……。まずは中に入ろう」
佐倉は衛藤に背中を押されて『APUS』の建屋内に入った。
入り口の自動ドアを抜けると、ガラス張りの開放感のあるロビーに出た。
衛藤は二人をロビー左手の通路に導く。右側のガラスからは中庭が見える。時々ポロシャツ姿のスタッフとすれ違いながら通路を歩いた。
衛藤に通されたのは小さな応接室だった。白い壁、白い天井、明るいグレーの床、大きめの窓から差し込む太陽光。部屋の狭さの割には、不思議と窮屈さを感じないような場所だった。
東川と佐倉は中央にあるテーブルの席に座る。
衛藤はアイスコーヒーを二人の前に置いた。テーブル中央にはガムシロップが山ほど乱雑に置いてあった。東川はガムシロップを1個拾い上げた。
「見てもらって分かったと思うけど、僕の観測所がだいぶ形になってきたんだよ。今日はそれを自慢したくて」
衛藤は自分のアイスコーヒーにガムシロップを5個投入しながら言う。
「パラレルワールドの……。本気だったんですか。正直、疑ってました」
東川の言葉に、衛藤はニコニコしながら頷いた。
「見て、」衛藤が笑顔で自分のアイスコーヒーを指さす。
「シュリーレン現象、ですよね」東川は呆れ顔で答える。
衛藤は面食らった顔をするが、すぐに気を取り直して語り始めた。
「話を戻すと、パラレル観測所の形は出来上がってきたんだ。まだ根幹部分は時間が掛かるけど」
衛藤は窓の外を眺めた。
しばらく沈黙が流れる。
東川はアイスコーヒーを一口飲み、隣に座る佐倉をちらりと見た。
佐倉は少し苛立った様子でグラスを揺すっていた。カランカランと氷の音が部屋に響く。
……そういえば佐倉ちゃん、完全に置いてけぼりだったや。
東川は佐倉に目線を送って囁く。
「衛藤さんはパラレルワールドの研究やってて、その観測所?ってやつをやっと作ったんや。それで、世界を守るんだって」
氷の音が止む。佐倉は「ふーん」と漏らし、衛藤を一瞥した。
「パラレルワールドの観測をやって、何がしたいんですか?」
東川は衛藤に尋ねる。
「世界の在り方を見たい、っていう単純な好奇心だよ。天体観測と一緒」
「どんな方法で?衛藤さんは何を守ろうとしてるんですか?」
佐倉は身体を前のめりにして尋ねる。
「えっと、佐倉さん、内容は企業秘密ってことで」
佐倉の勢いに圧倒されたのか、衛藤はたじろいだ様子で言った。佐倉は深く息を吐いて、アイスコーヒーに口をつけた。
「話変わるんですけど、衛藤さん、佐倉ちゃんのこと知ってますか?彼女が持ってる懐中時計の中に衛藤さんの写真が挟まってたんですけど」
「んえ?」
衛藤はアイスコーヒーに目線を落とし、目を泳がせながら答えた。
「……僕も、佐倉さんのことは、知らないなあ」
東川は深いため息をつく。
「はあ……そうかあ。佐倉ちゃん、記憶なくしてるみたいで……衛藤さんが頼みの綱だったんですよね」
「ええ記憶なくしてるの?」
衛藤は驚いたように大声を上げる。
「これについては他を当たるかあ。といっても」
東川はかなり深いため息をつく。佐倉の関係者として思い当たる人間があと一人しかいなかった。
「メカ野郎は佐倉ちゃんを見た瞬間に殺すかもしれないよなあ……衛藤さんのことも殺そうとしてるし」
東川は小さく呟くと、衛藤はぴくりと肩を震わせた。
佐倉は部屋の重々しい空気に耐えられず、アイスコーヒーを勢いよく飲み干した。空になったグラスを置いて、はっきりと言い放つ。
「衛藤さん。この建物の中、もっと見せてください」
東川と佐倉は衛藤から『APUS』の建屋内を案内された。
東川が応接室を出て左手に目をやると、突き当たりに重そうな扉で厳重に閉じられている部屋があった。隣にはその扉を守っているかのように、謎のセンサーが設置されている。その扉を見ていると、背筋が自然と伸びるような感覚になる。
「あの部屋は何ですか?」佐倉が尋ねる。
「大事なものがある部屋だよ。一般人立入禁止」衛藤はニヤリと答える。
その後、突き当たりを曲がって建屋内をぐるっと一周した。佐倉は気になった物事を衛藤に尋ね続けた。
『APUS』を出る頃には日が落ちかけていた。東川と佐倉は衛藤に一礼して去ろうとした。
「二人とも、むしろ来てもらってありがとう!……東川くんにお願いがあるんだけどさ」
衛藤は東川を呼び止める。
「俺ですか?」
「この前僕のことを殺そうとしてたメガネのやつ。あいつのことを、救ってやってほしいんだ」
「は?メカ野郎を?」東川は目を丸くした。
「ひどい呼び方だな」衛藤は鼻で笑い、続ける。
「あいつは悪人じゃない。ああなっているのは今までの人生で学習してきた正しさに基づいて行動した結果だ。だから君が、彼に新しい価値判断のパラメータを与えてやってほしいんだ。……僕には多分できないことだから」
切実に願うような、優しく絞り出した声だった。夕日に照らされた衛藤の顔には、寂しさが浮かんでいた。
東川は一瞬息を呑み、思わず口が開いた。
「メカ野郎を救えるかは分かりませんけど……。俺は、衛藤さんの味方です。衛藤さんがあいつに殺さないように全力で頑張ります」
「ありがとう、東川くん」
二人はしばらく見つめ合い、やがて衛藤はにこりと微笑みながらゆっくりと右手を差し出す。
東川は左手を出して握手に応じた。
数メートル先を歩く佐倉のもとに東川は小走りで向かう。東川が佐倉に追いつくと、佐倉に歩幅を合わせて歩きはじめた。
「佐倉ちゃんって勉強熱心だよね。この前も難しいニュースのサイト見てたし」
「うーん。前にさ、物理学なんて知らなくても仕事ぐらいできるでしょーって言ったらこっぴどく叱られてさあ、そこから勉強しようと思ったんよねー」
佐倉はむくれ顔で言った。
「叱られたって、藤崎さんに?」
東川は笑いながら尋ねる。
「まさかー。なんでアルベルトでのバイトで物理……」
……あれ、誰に怒られたんだっけ?
佐倉は歩きながら足元を見つめる。
その時、胴体を木枯らしのような風が通り抜ける感覚がした。夏の夕暮れのはずなのに、冷気に胸がこもったようだった。
……寒い。
震えが止まらない。佐倉は背中を丸めて両手で二の腕をさすった。
「佐倉ちゃん、大丈夫か?」
東川は心配そうに佐倉を見ていた。
「大丈夫」
佐倉の声は震えていた。