1 出会い
「そいやっ!」
キーボードのエンターキーを叩きつける。
東川賢人は自身が執筆したウェブ小説『上昇鬼竜』の最新話を投稿した。
ラップトップの時計が午前8時を示す。カーテンを閉め切った薄暗い1Kの中心で、画面の光が東川の顔を照らしていた。
東川にとって今作の『上昇鬼竜』は自信作だった。そしてたった今投稿したのは主人公のケイイチが相棒の少女レイカに心の傷を吐露する感動のシーンだ。今度こそ絶賛の嵐が来るに違いない――東川はそう信じていた。
浮き立つ心を落ち着かせてラップトップを閉じると、部屋に闇が落ち、心が一瞬にして現実に戻された。
ふとスマートフォンを開くと、吉野からのメッセージの通知が来ていた。
『結婚することになったわ。あとで電話しよう!』
その短い文に、東川は頭を殴られたような衝撃を受ける。返信をしようと動かしかけた親指が震え、何もできずにスマートフォンを閉じた。
そろそろアルバイトに行かなければならない。またいつもと同じ憂鬱な1日が始まる。
欠伸をしながら半袖シャツを羽織り、部屋の姿見を見ながら雑に身支度を整える。鏡の中のすらっとした青年の虚ろな目と目が合い、視線をゆっくりと足元に落とした。
足早に玄関に行き、ドアを開ける。
「暑。眩し。」
7月半ばの熱気と刺さるような青空に、思わず目を伏せた。
「こちらパンケーキになります。ごゆっくりどうぞ」
無理やり温度を乗せたような声を出しながら、東川はアルバイト先の『洋食アルベルト』で来店客の対応をしていた。料理を運ぶ、片づける、注文を聞く。まるでロボットのように無心で動作を繰り返す。
東川が店の入口に目をやると、ちょうど白髪交じりのスーツ姿の男性が入店したところだった。その男性はアルベルトの常連客だった。
……苦手なおじさん来たぁ。
東川は一瞬苦い顔をするが、心の声を押し殺す。
「いらっしゃいませー」
男性は鋭い目で東川を一瞥し、小さく会釈をした。東川は背筋を固めて男性を席に誘導する。男性は着席すると、メニューを見ずに短く注文した。
「ドリンクバーとコーヒーゼリーお願いします」
「かしこまりました……」
東川は萎縮した声で答えた。
「やっと終わったぁー」
東川はアルベルトのバックヤードで帰宅準備をしていた。ため息を漏らしながら、隣にいた先輩の藤崎鏡花に声を掛ける。
「やっぱあの常連のお堅いおじさん苦手なんすよ~。あの人、なんか怖くないですか?」
東川の言葉に藤崎はしばらく固まった後、小さく手を叩く。
「あ、オムライスおじさんのことか~」
「オムライスおじさん……?」
奇妙な渾名に東川は怪訝な顔をした。
「そのおじさん、この前オムライス注文してて……持って行った時にすごく嬉しそうな顔してたの!あの時は可愛すぎた~!あの人、ほんとは優しくていい人だと思うんだ~」
「そうなんですか……」
東川は内心驚きながら、どう返せばいいか分からず曖昧に頷いた。藤崎はニコニコしながら常連の男性について語り始める。
「あの人普段はちゃんとしたご飯頼まないんだよね~。ほんとはオムライス好きなんだろうな~」
藤崎は両手で頬に付けて笑うのを見て、東川は困惑を滲ませる。
「そんなとこまで覚えてるんですか……」
「明日おじさん来たら、オーダー取る前にいきなりオムライス持っていこうかな~。ふふふ。それじゃあお疲れ!」
東川は呆けたように口を開いたまま、楽しげに駆け出す藤崎を見送った。
店外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。
大通りを過ぎ、いつもの裏道を通る。
薄汚れたアパートと寂れた雑居ビルが建ち並ぶ暗い道。ここから東川の自宅までは人通りが少ない。
東川は建物が落とす陰に入りながら歩く。
そのままそわそわした様子でスマートフォンを起動する。
自分の投稿小説のページを開くと、先ほど投稿した小説に新着コメントが来ていた。東川は胸を躍らせてコメントを開いた。
『ケイイチの人生薄すぎだろ。またいつもみたいに女の子に助けられる展開かよ。この作家の主人公、いつも受け身で情けなすぎて草』
東川は立ち止まり、スマートフォンを持つ右手がガクリと落ちた。
「人生が薄い?受け身で情けない……?もっとまじめに俺の小説読んで考察しろや!……まあ確かに女の子に助けられる展開だったや」
独り言を呟きながら顔を上げると、視界に異様なものが入り込んだ。違和感を辿るように、視線をそれに合わせる。
道端に、若い女性が倒れていた。
東川は女性からスッと目を逸らし、再びスマートフォンを見て歩き出した。
――面倒なことはしたくない。見なかったことにすればいい。誰かが彼女を助けてくれるだろう。
歩き進めて自宅が見えてきた頃、スマートフォンの画面に映し出された『いつも受け身で情けなすぎ』というコメントが胸の奥に刺さった。それは架空の主人公に対する感想のはずなのに、まるで自分を指されて言われているようだった。
ここで女性を無視したら、本当に自分が『受け身で情けない』やつになる気がしたのだ。
気が付けば踵を返していた。
「……大丈夫ですか?」
返事がない。だが女性の腹部は上下していた。呼吸はあるようだ。
「大丈夫ですかぁ?」
さらに大きい声で肩を叩くと、女性は薄目を開けた。同時に東川は安堵の息を漏らした。
「……っ。すみません」
女性は東川に気付き、はっとしたように声を上げた。
東川は思わず女性の姿を見る。
キリっとした目元に肩甲骨くらいの長さのポニーテール、すらっとした体型。ポロシャツとスーツライクなトレーニングウェアを身に着けていた。彼女は腕にケガを負っているのか、絆創膏を貼っていた。
しばらく女性に見とれていた東川は、ふと我に返る。
「えと、大丈夫ですか?名前は……どこ住み……?」
女性は東川の顔をしばらく見つめた後、慌てたように周囲を見回した。
「ここは……?私は……?あっ、身分証……何もない……」
女性はポケットを探り、財布のようなものを取り出す。その中から何かの会員証のようなカードが出てきた。女性はそれを読み上げる。
「佐倉、美卯、……26歳、です」
「さくらみうさん」
彼女と同い年だと気づいて東川はぴくりと肩が揺れた。
「住所……中央2丁目1-94」
東川は慌てて持っていたスマートフォンの地図アプリを開く。中央2丁目1-94……
「その住所存在しないや」
東川はきっぱりと答える。
ぽかんと口が半開きになった佐倉を見て、東川は吹き出した。
佐倉の顔にみるみる絶望が広がっていく。彼女は星空が広がる空を見上げ、途方に暮れていた。
佐倉はしばらく考え込み、ゆっくり顔を上げて東川を見る。
「私、何も思い出せないんです」
そして、必死な表情で訴えた。
「とりあえず今日はお兄さんのところに泊めてください……」
「ゑ?」
東川は自宅に佐倉を招き入れると、テーブルからラップトップを退け、佐倉を座布団の上に促した。
佐倉はゆっくりと腰を下ろし、東川と向かい合って座る。二人はテーブルに肘をつき、同時に大きくため息を漏らした。
「ほんとに何も思い出せないのや?」
東川が尋ねると、佐倉は眉間にしわを寄せ、口をへの字にしたまま黙っていた。
東川は佐倉の様子を見ながら思考を巡らせる。
……なぜ住所が存在しない場所なのか?怪しい人じゃないか?でも彼女は身銭もなさそうだし、突き放すのは可哀想だ。
考え込む東川の傍ら、佐倉は首元を触り、ジャラジャラとした金物の音とともに何かを取り出してきた。
「これ、お金になりそう。これ売れば暮らしていけるかも」
彼女の手の中には金色の懐中時計があった。蓋には2つのスリットが平行に並んでいて、その蓋を開けると写真が挟まっていた。
その写真には、端麗で優しそうな顔立ちの30代くらいの男が映っていた。
東川は思わず見とれるように懐中時計を眺めていた。
「誰だろこの男の人。知らないけど、この時計なら売れそう。……あ、やっぱキズついてるから売れないかも」
佐倉は写真と時計を観察しながら平たい口調で言い放つと、東川はギョッとして声を上げた。
「いやいやいや、それどう見ても簡単に売っちゃダメなやつや!」
佐倉はきょとんとして東川を見ていた。
東川は困惑を浮かべながら口を開いた。
「まあ、仕方ないからしばらくこの家にいてもいいよ。……でも、犯罪とかに俺を巻き込むのは勘弁してくれや」
佐倉の顔からようやく緊張が解ける。
「ありがとうございます……えっとお兄さん」
「俺東川賢人。ケンくんって呼んでや」
「ケンくん。んぐっ……ケンくん、さん」
佐倉は照れ混じりに笑いを零していた。
「じゃあ私のことは、佐倉でお願いします」
「……よろしく佐倉さん」
東川は佐倉のことを昔から知っているような感覚がした。佐倉美卯という名前にピンと来ないので、おそらく気のせいだろうけど。
「腹減ったから夜ご飯にしよう」
東川はそう言って台所に向かった。
――奇妙な人を拾ってしまった。
それは、後悔とも困惑とも形容しがたい複雑な感情だった。だが不思議なことに、その感情の中には一匙の希望が混ざっているような気がした。