壊れていくシナリオ
私は、覚悟を決めて図書室の扉を開いた。けれど、室内はシン……と静まり返っていた。
(……いない……?)
一歩だけ足を踏み入れてみたものの、それ以上はどうしても進めなかった。
(ダメだ……体が拒んでる)
昨日の出来事が頭によぎり、手が震え始めて、足が動かなくなる。
私は、重たい足をゆっくりと引き戻し、静かに扉を閉じた。
(……大丈夫。また、生徒会で会える)
何とか自分に言い聞かせて、教室へ向かった。
教室の前に立った瞬間、一限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
(……授業の時間中、ずっと探し回ってたんだ)
ガラッと扉を開けて教室の中に入ると、リディアの姿が見えた。
私は急いで彼女のもとへ駆け寄る。
「おはよう、リディア」
「……アイーダ!どこ行ってたの?」
突然現れた私に、リディアは驚いたように目を見開いて問いかけてきた。
(……あれ。なんか、いつもと違う……)
リディアの顔に少しだけ曇りが見えた。
元気がないのか、どこか痩せたようにも感じる。
「ごめん。ちょっと寝坊しちゃって」
そう言うと、リディアは「ダメじゃない」といつもの調子で笑ってみせた。
その笑顔は、いつも通りの完璧なリディアの姿だった。
(……気のせい、だったのかな)
その後も様子をうかがっていたけれど、彼女に特別変わったところは見当たらなかった。
(……やっぱり、私の思い込みか)
ほっと胸を撫で下ろしながら、私はいつも通りリディアと別れ、生徒会室へと向かった。
ーー何としても、マーヴィンと和解しなければ。
そう意気込んで扉を開いたその先に、マーヴィンの姿はなかった。
「あれ? アル、今日ってマーヴィン来ないの?」
リアムが、生徒会室を見渡して首をかしげる。
その声に、アルフレッドも顔を上げて辺りを確認した。
「……いや、さっきまではいたはずだが」
その一言に、嫌な予感がじわじわと広がっていく。
確実に、避けられているーーそんな空気に一気に焦りが増す。
(まさか……一生、私から逃げる気なの……?)
そんなこと、できるわけがない。そう思いたい。
だけど……マーヴィンならやりかねない。
(このまま、彼を追いかけているうちに戦争が始まってしまったら……)
マーヴィンともアルフレッドとも、どちらとも関係を築けず物語が進んでしまったらーー待っているのは、あの悪夢のようなバッドエンド。
(……何度も夢に見た、アルフレッドが血に染まっている未来)
それなら、いっそハーヴィールートに進んで、戦争を止めた方がまだマシかもしれない。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった
けれどーー
『この男は、君の命を奪おうとしていた。……殺されて当然、でしょう?』
返り血にまみれて笑うハーヴィー先生の姿が、焼きついたように頭から離れない。
(……やっぱり無理!!)
あれは、彼のルートで見た哀しき過去を背負った男の姿じゃなかった。
人の命を研究材料としか見ていない、完全に壊れた「化け物」の顔だった。
(私がモルモットとして愛される未来しか、想像できない……)
そんな絶望と焦りが胸を締めつける中、さらなる衝撃が訪れる。
「ーー失礼します!!」
勢いよく扉が開かれた。
顔を真っ赤にした下級生が、肩で息をしながら生徒会室に駆け込んできた。
「アルフレッド様、報告です!王都南部の貧民街で……暴動が発生しました!!」
その報告に、室内の空気が一瞬で凍りついた。
「……暴動?」
アルフレッドの表情が引き締まり、緊張が走る。
(……貧民街で、暴動……?)
ーー違う。
この時期、貧困街・クルアで起こるのは、「寄付金イベント」のはず。
アルフレッドが住民たちと対話して、温かな空気の中で終わるはずの……穏やかな平和イベントだ。
(知らない……やっぱり、何かが……ズレてきてる……)
この世界が、私の知っている物語から変化していく。
その恐怖に、胸が詰まりそうになる。
(……私は、今、どのルートにいるの……?)
絶対に進んではいけないアルフレッドルート。
絶対に進みたくないハーヴィールート。
……そして。
唯一の希望であるはずなのに、すでに手詰まりを迎えたマーヴィンルート。
(……まさか、もう……私の知らないバッドエンドに、分岐してたりしない……?)
そんなはずない、と自分に言い聞かせても、確かな根拠なんてどこにもない。
頭が真っ白になって、勝手に汗がにじんでくる。
耳の奥では、心臓の音がバクバクと鳴り響いていた。
下級生に視線が集まる中、ただ立ち尽くす私を、ルークが心配そうに見つめていた。
「アイーダ、大丈夫?……すごい汗だけど」
そう声をかけながら、彼はそっと私の肩に手を伸ばす。
彼の手が私の肩に触れたその瞬間ーー
全身がビクリと跳ねた。
「……やめてっ!!」
反射的に、ルークの手を振り払っていた。自分でも驚くほど、強く。
その叫び声に、気づけば周囲の視線が一斉にこちらに集まっていた。
「……あ。ご、ごめんなさい……びっくりして……」
焦って笑顔を作ったけれど、うまく笑えているかは、自分でもわからい。
指先まで冷えきった手を、ギュッと握りしめた。
「いや、俺の方こそ、ごめん。急に触れるなんて……配慮が足りてなかったよね」
ルークはそう言って、申し訳なさそうに頭を下げた。
その姿に、私は慌てて首を振る。
「ち、違います!本当にびっくりしただけなんで……!すみません、大袈裟に騒いでしまって……!」
そう言って周囲にも笑顔を向けると、ようやくみんなの視線が再び下級生へと戻っていった。
「……それで?その暴動が、王城前にまで拡大してるってこと?」
リアムが話を元に戻す。
その声に、少しだけ気持ちは落ち着いたはずなのに。
周囲の音が、全て耳をすり抜けていく。
私もみんなと同じように下級生の方へ顔を向け、会話に耳を傾ける素振りを見せるけれどーー
頭の中は、相変わらずぐちゃぐちゃで、パニック状態だった。
(……もう、わからない)
どうすれば、この世界を救えるのか。
そもそも、私みたいなモブがーー
ゲームの運命に抗おうとするなんて、やっぱり、無謀だったのかもしれない。
(……家族を、攻略キャラたちを、救いたいって……本気で思ってたのに)
もし……本来のヒロインであるリディアに、すべてを任せていたら。
物語はもっと穏やかに、原作通りに進んでいたのかもしれない。
私が、この世界に余計な手を出さなければ……歪みも、狂いも、生まれなかったのかもしれない。
(だけど、今はもう……)
何も考えたくない。
何も、聞きたくない。
この世界を守る。
そう決めていたはずの自分の心がーー音を立てて壊れていくのがわかる。
今の私には、それを止める術もないまま、バラバラになっていく心をただ眺めることしかできなかった。
(もう、いっそ……諦めてしまえば楽なのかもしれない)
そんな気持ちまでもが、じわじわと私を支配し始めていた。