好感度が足りない?
ハーヴィー先生が去ったあと、私は図書室を飛び出し、そのまま早足で帰路についた。
家に着くなり、汗をかいたからという理由をつけて風呂場に一直線。
頬についた血の感触が気になって、石鹸を泡立ててゴシゴシとこすり落とす。
(あんな……人を人とも思ってないような人のルートに入るなんて、冗談じゃない)
確かに原作には、ハーヴィー先生のルートは存在していた。
でも、あんな狂気じみた愛を向けられることはなかった。
(……無理!絶対無理!!)
叫ぶような勢いで、バシャッと湯を顔にかける。
頭の中にこびりついていたあの狂った笑顔を、なんとか洗い流そうとした。
(あの人には近づかない。話しかけられても、絶対に無視する)
ーー絶対に、ハーヴィールートには進まない。
空になった桶を握りしめながら、私は強く心に誓った。
* * *
「おはようございます。アイーダ」
正門を通った直後、背後から名前を呼ばれた。
まさかと思い振り返ると、そこには白衣姿のハーヴィー先生がいた。
突然の出来事に、驚きで言葉が出ない。
「昨日、少しだけ待っててくださいって言いましたよね? 帰ってしまうなんて、酷いですよ」
(……この流れ、ダメだ……)
私の意思なんてお構いなしに、強制的にハーヴィールートに傾きかけている気がして、思わず周囲を見渡した。
(お願い……誰でもいい。誰か、いて……!)
そう願った、そのとき。
ハーヴィー先生の後ろから歩いてきた生徒の姿が目に入る。
(リアム……!!)
正直、彼のルートに進む可能性は限りなく低い。
だけど今は、とにかくハーヴィー先生から距離を取ることが最優先だった。
「あっ、おはようございます!リアム先輩! 今行きますね!」
「……はっ?」
勢いよく手を振って近づくと、リアムは眉をひそめた。
背後からハーヴィー先生の視線がグサグサと突き刺さってくる。
私はリアムの肩に手をかけ、そのまま校舎の裏へと強引に誘導した。
「ちょ、ちょっと!? 何してんの!?意味わかんないんだけど!」
戸惑うリアムの声は無視して、私は建物の陰からそっと正門の方向を覗く。
白衣の姿は、もうどこにもなかった。
(……よかった。いなくなってる……)
胸をなで下ろしながら、くるっとリアムの方を向いた。
「ありがとうございました。では、いきましょう」
「……は?」
あまりにも綺麗な「は」が飛んできた。
そして、そのままリアムが私にグイッと詰め寄ってくる。
「あのさ。巻き込んでおいて説明なし? こっちは朝から迷惑MAXなんですけど。せめて、理由くらい教えてくれる?」
(……やっぱり、こうなるよね……)
理由を説明しろと言われても、そう簡単にはいかない。
リアムは疑い深い性格なのに、なぜかハーヴィー先生には妙に信頼を置いている。
正直に話せば、逆に私の方が疑われかねない。
「え、えぇと……」
うまく答えられず、私はとりあえず作り笑いを浮かべてごまかす。
リアムはジト目でこちらを見つめていたけれど、ふいに視線を横へと逸らした。
「あ、マーヴィン」
その名前に、ビクッと肩が跳ねる。
(いやいや、なんで今!?)
さっきハーヴィー先生に絡まれてたときに来てくれたら、迷わず声をかけられたのに……
今さら現れられても、もう私には勢いが残ってない。
「じゃ、私はこれで!」
リアムがマーヴィンと視線を交わしている隙を狙って、その場から立ち去ろうとする。
……が、あっさり腕を掴まれた。
「逃さないよ」
一切の情けを感じさせないその声に、心の中で悲鳴を上げる。
理由を話したくない私 vs 絶対に吐かせたいリアム。
無言の攻防が始まり、睨み合いは数秒続いた。
ーーと、そのとき。
左側に誰かの気配を感じて、私はそっと顔を傾ける。
(……うっ、マーヴィン……)
マーヴィンと目が合った。
反射的に視線を逸らしたことで、余計に変な空気になってしまう。
「こんなところで、何してるの?」
マーヴィンが、呆れたような声でリアムに問いかけた。
「さあ?俺にもよくわかんない。いきなりこんな場所に連れてこられて、理由も言わずに逃げようとするから引き止めてるだけ」
重たい視線が、リアムからもマーヴィンからも突き刺さる。
私はうつむいて、なんとか視線から逃れようとするけれど、心臓がバクバクして落ち着かない。
(ど、どうしよう……この場、どう切り抜ければ……)
嘘をつくのも難しい。
かといって「ハーヴィー先生が怖くて逃げました」なんて正直に言えば、今度はその理由まで説明しなきゃならなくなる。
(……もう、いっそ全部言っちゃう?いや、でも……)
悶々としている私を見て、リアムがふうっと息を吐いた。
「……ま、いいや。このまま詰めたって、どうせ吐きそうにないし」
そう言って、マーヴィンの肩をぽんと軽く叩く。
「はい、あとは任せた。俺、一限目移動教室だからもう行くわ」
そんなことを言い残して、リアムは軽やかに去っていった。
取り残された私は、マーヴィンと二人きり。
(……最悪の展開……!!)
そう思った瞬間ーーマーヴィンは私に背を向けた。
「僕も行くよ。……生徒会の仕事、残ってるし」
淡々とした声。そのまま、私と目を合わせることなく、マーヴィンは歩き去っていった。
(……え、もしかして……避けられてる?)
気まずさからは解放されたけれど、代わりに別の問題が浮上した。
(……ちょっと待って。本当に、ハーヴィールートに傾いてない?)
……やってしまった。
勇気を出してマーヴィンに謝っていれば、何かが変わっていたかもしれないのに。
また、間違えてしまった……?
(いや……まだ間に合う。今からでも、やるしかない)
きちんとマーヴィンと向き合って、関係を修復する。
マーヴィンルートに進んで、破滅ルートを回避しなければ。
ハーヴィー先生の実験動物として生きる未来なんて、絶対にごめんだ。
私は、マーヴィンの後を追った。
(……あれ? いない……?)
でも、玄関から生徒会室へと続く道に、彼の姿はなかった。
(どうして……? マーヴィンが先に向かったとしても、そんなに時間は経ってないはずなのに)
一限目を告げるチャイムが鳴り響く。
けれど私は、迷わず生徒会室の扉をノックした。
「失礼します」
扉を開けると、中にいたのはーー
「アルフレッド様……」
机に向かって書類に目を通していたアルフレッドが、こちらに顔を上げた。
「……どうした?もう授業が始まるぞ」
私は生徒会室をぐるりと見渡す。
けれど、マーヴィンの姿はどこにもなかった。
(……生徒会の仕事があるって言ってたけど、ここには来てないのかな……)
一人で考え込むよりも、アルフレッドに直接聞いた方が早い。
私は意を決して口を開いた。
「あの、マーヴィン……マーヴィン先輩を探してるんですけど。ここに来ませんでしたか?」
その名前を口にした瞬間、アルフレッドの目がわずかに細くなる。
私がマーヴィンを探すなんて、よほど珍しいと思ったのだろう。
(……しかも、こんな朝一に)
「いや、今日はまだ来てない。いつもならもう来てる時間だが……そう言えば、遅いな」
アルフレッドは壁の時計に目をやりながら、ぼそっと呟いた。
(……やっぱり、これ……避けられてる……?)
マーヴィンルートしか残されていないのに、そのマーヴィン本人に避けられてるとは……絶対絶命のピンチだった。
「ありがとうございます! 探してみます!」
私は勢いよく、生徒会室を飛び出した。
アルフレッドが後ろで不思議そうな顔をしていた気がするけど、今はもう彼の反応を気にしている場合じゃかった。
(……やっぱり、さっき話しておくべきだった)
乙女ゲームにおいて、タイミングは命。それを痛感する展開になってしまった。
でも、いくら後悔したって遅い。
とにかく今は彼を見つけて、きちんと向き合って仲直りするしかない。
私は生徒会室の周りをくまなく探した。
けれど、マーヴィンの姿はどこにも見えなかった。
そこから徐々に範囲を広げてみたけれど……やっぱり、彼はいない。
(……本当に……どこに逃げたの……?)
トボトボと廊下を歩いているうちに、いつの間にか図書室の近くまで来てしまっていた。
ここを通ると、どうしても昨日の出来事が頭をよぎる。
(……図書室には、きっといない)
そう自分に言い聞かせて、足を止め、図書室に背を向けた。
(でも……もし、そこにいたら)
できることなら近づきたくない場所。
けれど、マーヴィンがあえてそこに身を隠している可能性も、捨てきれなかった。
(……可能性があるなら、行くしかない)
図書室の前に立つと、私は一度だけ、深呼吸をした。
そして、覚悟を決めてーー図書室の扉を開いた。