狂気に護られて
※この話には、殺人・流血・精神的な恐怖描写が含まれます。
一部ショッキングな展開がありますので、苦手な方は閲覧にご注意ください。
生徒会の仕事を終えた私は、帰る前にふと図書室に立ち寄った。
(……ちょっとだけ、確認しておこうかな)
そんな軽い気持ちで手に取ったのは、歴史に関する古い記録書だった。
(やっぱり……先代国王マグラウドの子供で、生き残っているのはライナルト王だけって書かれてる)
だけど、マーヴィンは確かにーーアルフレッドの祖父、マグラウド・ローハンと、看護団に所属していたある女性との間に生まれた子供だった。
発端は、マグラウドがその若い女性に目をつけたことだった。
誠実で控えめな態度。
だけど、どこか気高さを感じさせる、凛とした立ち居振る舞い。
それが、かつての王妃の面影と重なったのだろう。
マグラウドは彼女に強く惹かれ、何度も食事に誘った。
だが彼女は毎回、こう答えたという。
「国王様と食卓を共にできるほど、立派な女ではありません」
三度目の拒絶を受けたその瞬間、マグラウドは激昂した。
「俺の誘いを断るなんて、身の程をわきまえろ」
そして、ある夜ーー彼女の家に押し入り、無理やり関係を持った。
彼女は壊れた。
涙も出ないほど心が削られ、数日間、寝込んだという。
それでも、何とか仕事に戻り、その出来事を忘れようとした。生きようとした。
けれどーー妊娠に気付いたとき、また絶望の淵に引き戻された。
あの男の血を引いた子どもを、自分は育てられるのか。
何度も悩み、葛藤し、それでも……生まれてきたその子を見た瞬間、彼女は思った。
(……愛おしい)
彼女はその子に“マーヴィン”と名付け、大切に育てた。
(確か原作では、マグラウドの愛人にならなかったのは……彼女一人だった。誰も、マグラウドには逆らえなかったから)
今、マーヴィンがマグラウドの隠し子だと知っているのは、ライナルト王とハーヴィー先生の二人だけのはず。
それなのに、彼はなぜーー私が保健室に閉じ込められたとき、あんなに目立つ炎魔法を使って助けてくれたのか。
(監視カメラがあるなら、余計にあれは使うべきじゃなかった。世間にバレたら、大変なことになるって……わかってるはずなのに)
小さく息を吐き、私は記録書を静かに棚へ戻した。
(……帰ろう)
そう思って振り返ったとき、視界の端に違和感が走った。
(……え?)
図書室の扉の小さなガラス窓越しに、誰かがこちらを覗いていた。
だけど、目が合うよりも先に、その影はスッと消えた。
(……今の、誰?)
突然の恐怖に、その場から動けずにいると、ギィ……と扉が音を立てて、ゆっくりと開き始めた。
(誰かが……入ってくる……)
夕暮れに沈みかけた図書室。
その薄暗い空間に、黒い影が滑り込んでくる。
私は立ち尽くしたまま、呼吸すら忘れてその人物に見入っていた。
そして、現れたのはーー
「……先生……?」
魔法応用学の教員だった。
ゆっくりと何も言わず近づいてくる彼の姿は、教師でも知人でもない。
ただ、獲物に忍び寄る狩人のようだった。
「……アイーダ、おいで」
教師がゆっくりと手を伸ばす。
優しい声で私を呼び寄せるその仕草が、ただただ不気味だった。
私は無意識に、あとずさった。
そのときーー頭の奥に、別の声が蘇った。
『……おいで、怖くないから……』
その声が聞こえた瞬間、何かが足首をつかんだような錯覚に、ガクンと膝が抜ける。
(何これ……体が、動かない……)
体を動かそうと必死にもがいている間にも、教師の顔はどんどん近づいてくる。
『パーナー先生だけじゃない。……君は、この学園の教師全員に狙われてる』
あのときのマーヴィンの言葉が、耳の奥で再生される。
(……マーヴィンが言ってたことは……本当だった……)
だけど、教師に襲われるなんてイベント……原作では起こらなかった。
もしかして私は、どのルートにも入れてなくて……バッドエンドに進んでいる……?
(ここで……終わるの……?)
戦争を止めることもできず、誰も救えないまま……私は死んでしまうのか。
そんな考えがよぎる中、教師の手が私の喉元へとゆっくり伸びてくる。
思わず目を強く瞑った。
(……選択肢を、間違えたんだ……)
マーヴィンに詰め寄ったのが悪かったのか。
図書室に立ち寄ったのが悪かったのか……何が原因かはわからない。
だけど……私は間違えた。
ーーこの物語は、バッドエンドで幕を閉じる。
そう思った、その瞬間。
パァンッ!という破裂音と共に、顔に生ぬるい何かが飛んできた。
(……え……?)
ドサッと何かが崩れ落ちる音に、恐る恐る目を開けるとーーさっきまで私に迫っていた教師が、床に倒れていた。
(な、なんで……?)
震える手で頬にそっと触れると、指先にぬるっとした感触。
思わず手を顔の前に持ってくると……指先が赤く染まっていた。
それを見た瞬間に、胸が押しつぶされそうになった。
(まさか……死んでる……?)
倒れたまま微動だにしない教師の姿。
その目の前に、黒革のブーツが見えた。
(……誰?)
ゆっくりと顔を上げるとーー返り血を浴びたまま、動揺ひとつ見せない男。
「……ハーヴィー、先生……」
私がその名を呼ぶと、彼は目を細めた。
膝をついて、私と目線の高さを合わせるとーー血に濡れた手がそっと私の頬に触れる。
「怖かっただろう?アイーダ」
薄暗い部屋の中でもわかる。
彼の手首まで、べったりと血の色で染まっていることが。
(……体に手を突っ込んで、魔力で内側から破裂させたんだ……)
想像するだけで、胃の奥から吐き気が襲ってくる。
「間に合ってよかった。君が死んでしまったら……私は、正気でいられなくなってしまうところだったよ」
その甘ったるい声が、私の恐怖心を余計に掻き立てていく。
小刻みに震える体を抱きしめるように自分の腕で押さえ込みながら、私はただハーヴィー先生を見つめることしかできなかった。
(この人……こんなにあっさり人を殺せるのに、私だけはーー敢えて生かしてる……)
「……どう、して……」
声がかすれて、それ以上言葉が出てこない。
そんな私を見て、ハーヴィー先生はニッコリと微笑んだ。
「どうして?……ふふ、何が聞きたいんでしょう」
私は視線を逸らし、倒れている教師へ向ける。
しかし、背中から流れ出た血だまりが見えた瞬間に、思わず目を逸らした。
「……あぁ。どうして彼を殺したか、と?」
コクコクと小さく頷く。
ハーヴィー先生は立ち上がり、教師の体をつま先で転がした。
仰向けになり、白目を剥いたその顔が見えた瞬間、私は「ひっ」と声を漏らす。
「この男は、君の命を奪おうとしていた。……殺されて当然、でしょう?」
そう言って、ぐしゃ、と顔を踏みつける。
私は耐えきれずに、顔を背けた。
「……本当は、君ともっと一緒にいたかったんだけどね。でも、彼の処理をしなければいけない。少しだけ、待っていてくれるかい?」
本当に名残惜しそうに呟くその顔を、私はもう直視できなかった。
彼は男の死体を軽々と持ち上げると、床に聖水を撒いて血痕を消していく。
そして、そのまま私の顔にも、さらりと聖水をかけた。
「……うん、綺麗になりましたね」
満足そうにそう言い残し、彼は背を向けて図書室を出ていく。
足音が遠ざかっていくのを確認して、私は崩れ落ちるように床に突っ伏した。
(……やっぱり、おかしい……)
私の知らないイベントが起こり始めている。
ハーヴィー先生に守られる展開なんて、このルートにはない。
(……まさか……)
顔を上げると、彼の狂気を帯びた微笑みが脳裏によみがえった。
(……ハーヴィー先生のルートに……入ってしまってる……?)
ゾクッと背中が凍る感覚に、私は身をすくめた。