一日の始まり。
午前六時。街で小鳥がさえずり始めた頃。店内から一人の帽子屋が現れ、店先の看板をCLOSEからOPENへと変える。創業百年、路地に建てられた伝統のある帽子取り扱い店の毎朝の風景である。
帽子屋は眠い目を擦り、綺麗に陳列された帽子の数をチェックする。ここに並べられた帽子達は全て帽子屋の手作りであり、特にシルクハットに関しては帽子の鍔の形や装飾の羽根の角度にまでこだわりがあった。帽子屋自身もお気に入りのシルクハットを頭に乗せている。
しかし、帽子屋が時間をかけて作った帽子の出来と実際のところの売り上げ実績は比例していないようであった。決して帽子屋が作った帽子が歪であるとか、虫が食っているとかそういうわけではない。ただ、小汚い赤色の煉瓦作りの店が人々の目に止まらないというだけのことだと帽子屋は思っている。
帽子屋は毎朝六時に店を開けるのだが、客足の悪い店を早く開けたところで来ない客は来ない。しかし創業百年、ずっと毎朝六時に店を開けていたのだから、今更それを止めるのは何かに負けたような気がする、と帽子屋は思っているため、毎朝変わらず六時に店を開け続けている。
帽子屋本人曰く、この帽子屋と開店時間との意地の張り合いは開業一ヶ月辺りから始まっているとのことだった。
午前六時二十分。
昨日は一つも売れなかった帽子の数を確かめ終わった帽子屋は、店の奥に配置されたテーブルと椅子に向かい、珈琲を淹れ始める。
帽子の数を確認したあとに飲むのは珈琲と決めたのは創業四十八年のことであった。それまでは珈琲と紅茶を毎朝入れ換えで飲んでいたのだが、紅茶の茶葉を三日連続で買いそびれた時、帽子の数を確認したあとは珈琲を飲むという新たなルールが確立されたとのことだった。勿論そのことを事細かに覚えているのは帽子屋自身だけである。
暖かい珈琲が注がれたマグカップを帽子屋はテーブルに置き、
「ふう」と一息吐いた。
現在午前六時二十五分。
今日の仕事はこれでお終い、という日が創業七十年辺りからは珍しくないこととなってしまっている。
それから一時間ほどした午前七時三十分になると、段々街全体が目を覚まし始める。
向かい側の喫茶店も看板をCLOSEからOPENへと変えた。
帽子屋は一度もあの店を訪れたことがないのだが、絶対に自分が淹れた珈琲の方が美味いと思っている。
ならなぜそれを確かめに行かないのか? と帽子屋に訊ねたところで帽子屋は鼻を鳴らすだけであった。前述から分かる通り、この帽子屋はかなり意地っ張りで尚且つ負けず嫌いな性格をしているのだ。つまりはそういうわけなのである。
それから更に三十分が経った午前八時に本日一人目の来客があった。歳は五十代後半といったところだろうか。頭の毛が少々薄くなってきている男だった。
帽子屋は今年で百二十三歳となるのだが、禿げは愚か黒々とした頭に白髪の一本も生やしてはいなかった。
帽子屋は帽子屋の中で帽子を売る接客をしないと決めている。
五年前に開業した隣の大手メーカーの服屋の店員は、やれこれが良い服だとかとてもお似合いですよ、などと心にもないことを阿呆のように繰り返し、言い続け、商品を売り付けている様を見ていると、尚更接客などしたくないと思ったとのことだった。
しかし、実際の帽子屋と言えばそれより何十年も前から接客をしている様子は見当たらなかった。帽子屋は嘘を吐くのが嫌いだということもあるのだが、言ってしまえば面倒である接客をしたくないという理由を隠すための材料として服屋を使っているだけなのである。
という訳で頭の薄くなってきている男が帽子を眺めている間、帽子屋がしたことと言えば、マグカップに五杯目となる珈琲を新たに注いだというだけであった。
あまりに接客態度の悪い帽子屋に愛想を尽かしたのか、男は三分後に店を出ていった。
隣の服屋が、
「またお越し下さいませ」と高々に叫ぶ中、帽子屋は、
「二度と来るなよ」と呟いた。自慢の帽子を禿げ隠しに使われるなど、帽子屋自身、見るに耐え切れるものではなかったのであった。
それから更に三時間が経過し、時刻は午前十一時となった。
今日はもう店を閉めようかと帽子屋は思い始める。
この帽子取り扱い店の開店の時間は午前六時と決まっているのだが、閉店時間はまるででたらめなのであった。それもそのはず、帽子屋がその日の気分で閉店をするのだから、店を閉める時間が決まっていないのは当たり前のことなのである。酷い日は開店二十分、帽子の数を数えてから店を閉めるという日もあった。勿論珈琲は飲む。
一番長い営業時間で、午前五時五十五分に店を閉めた。店を開けたまま居眠りをしてしまった時のことである。その五分後に開店した午前六時、不思議なことが起こった。なんと帽子の数を数えると数が合わなかったのだ。一つも売れた覚えがないのに、と帽子屋は首を傾げた。創業三日、帽子屋がまだまだ青い頃の話であった。
マグカップの中に残った珈琲を飲み干し、着々と閉店の準備を進める中、一人、いや、一匹の来客があった。
黒い猫である。ぎょろりとした大きな目によく磨かれた長靴を履いている猫が、帽子取り扱い店のドアを開けた。背中には赤いマント、腰にはサーベルを拵えているという剣士を思わせる出で立ちであった。名をチェシャ猫という。
「いらっしゃいませ」
帽子屋は今日始めて接客をするような態度を取った。良い声である。珈琲をたくさん飲んでいたため、喉は潤っていた。
「商売繁盛かにゃ?」
猫はその名の通り、口角を上げ、にやりと笑う。
「どちらかというと、“商売上がったり”と言ったところかな」
帽子屋は肩をすくめ、おどけた様子で応えた。猫は更に口角を上げて笑う。
「そんなことだろうと思ったにゃ。そこで、だにゃ。そんな帽子屋に今日は仕事を持ってきてやったのにゃ」
チェシャ猫は胸を張り自慢気に話す。
「ほう、それじゃあ本日は“どのような帽子をお求めで?”」
「お前性格悪いにゃ。ウチがここに帽子を買いにきたことがあったかにゃ?」
帽子屋はうーん、と考える素振りを見せて、
「それはなかったかな」と応えた。
「分かり切った答えだったにゃ。本当性格悪いにゃ。矯正するべきにゃ」
チェシャ猫は帽子屋の近くまで来て、向かい側の椅子に座った。猫の身長は帽子屋の座高の高さよりも低かった。
「それで、今日はどんな仕事を持ってきてくれたんだ?」と、少しばかり真剣な声色となった帽子屋は、テーブルの横に設置された棚からマグカップを取り出しながら訊ねた。
「実はウチもよくは知らないのにゃ。ただ、困っている人を一人連れてきただけなのにゃ」
「連れてきた?」
帽子屋の額から汗が流れ落ちる。
「そうだにゃ。もう入ってきていいにゃ、アリス」
アリスと呼ばれた少女が帽子取り扱い店の中に入ってきた。ブロンドの綺麗な髪をしている、十代半ばほどの美しい少女。帽子屋は急いでアリスの元へ駆けて行った。
「あぁ、なんということだ。女性を待たせてしまった。実に申し訳ない。辛かったであろうかと思われますが、どうか無礼な私めをお許し下さい」
と、先ほどまでのおどけた調子はどこに行ったのやらといった様子で帽子屋は深々と頭を下げた。店の外で一人と一匹のやりとりを聞いていたアリスは驚いて、
「いえ、全然大丈夫です」と応えたものの、帽子屋は一向に謝礼を繰り返すばかりであった。チェシャ猫はやれやれ、といった表情を浮かべ、お茶菓子のビスケットを一つ摘んだ。
一通り帽子屋が頭を下げ尽くした午前十一時十五分に、アリスは普段帽子屋が腰掛けている椅子へと座った。
帽子屋は、
「大したもてなしが出来なくて申し訳ないが、お茶菓子と珈琲をどうぞ」とマグカップに珈琲を注ぎながら、テーブルに十枚はあったビスケットが一枚もなくなってしまっていることに気付いた。
帽子屋は猫を軽く睨んだが、
「お前話長すぎにゃ」とぶつりと返されてしまった。新しいビスケットを棚から出し、テーブルの皿に並べた。チェシャ猫が猫舌であるとはわかっていたため、彼女には冷たいミルクを用意した。