99.――アイシェ・イルミッド
重い瞼を開くと、そこは見覚えのある場所だった。
記憶の隅に残っている情景。
部屋の真ん中に置いてあるテーブルに掛ける椅子が二脚。ボロのテーブルクロスが敷かれて、そこに欠けた皿とコップ。
食事はすでに冷めていて、盛られていたスープは干からびている。
――そう、ここには二人しか住んでいない。
どうしてそんなことが分かる?
自問自答して、すぐにその答えが脳裏に浮かんだ。
(だって、ここは俺の家だから)
――人間だった時に暮らしていた場所だ。
少しの懐かしさと、居心地の悪さを感じながら少年は大きくない部屋を見回す。
壁際には書架があり、まばらに本が収まっている。
その内の一冊を手に取って、少年は懐かしさに笑んだ。
手中にあるのは古びた魔法書だった。
初心者用の簡単な内容が書かれているもの。擦り切れるまで読んだものだ。
貧しい家には不相応なものだが、昔取った杵柄だと彼女は言っていた。
ここには母親と二人で暮らしていた。父親はいたが顔は知らない。一度も会ったことはなく、声だって聴いたこともない。
だから物心つく頃から、少年はずっと母と二人で生きてきた。
小さな田舎の村で、たった二人きり。貧しく、決して良いとは言えない暮らしだ。
書架に魔法書をしまうと、窓がガタガタと揺れた。
――あの日は、終日風が強かった。
外はまっしろで、こんな日に外出するのは億劫だとずっと家に居たのだ。
(せっかく用意したのに)
手に持ったシャベルを壁に立て掛ける。
その直後、玄関のドアが外側からノックされた。
コン、コン、コン――静かな室内では、その音が大きく響く。
訪ね人に少年はドアに近づいて開ける。
開いた隙間から、突風と共に雪が入り込んできた。
けれどそれは少しも冷たくない。サラサラしていて、肌に張り付くこともない。
なんだろう、と考えて……その正体に気付いた瞬間――向こう側から声が聞こえた。
「ああ、良かった。人が居たよ、アル」
「この状態で良かったはないですよ、師匠」
女と男の二人組。
女の方は透けるような淡い水色のような、見ようによっては透明にも見える髪色をしている。伸ばした長髪は突風に吹かれて靡いていた。
もう一人は、まだ子供らしい風貌をしている。青空のような瞳。そしてそれよりも濃く、深い色をした髪色は夜に似ている。
幼い顔つきであるが、利発そうな面持ちもある。
二人は訪ねた家の内から出てきた少年を見て、ほっとしたような顔をした。
「こんにちは、すごい天気だねぇ」
女が一歩、家の中に足を踏み入れる。それと共に、冷たくない雪が中に入り込んだ。
室内は薄暗かった。
外があんなにまっしろなら、太陽の光も入らない。
けれど女は見えているのか。暗闇の中、まっすぐに腕を伸ばしてそれを指差す。
「あれはなに?」
少年はその指の先を見た。
それはテーブルの上に置いてある食事を指していた。
一方はからっぽ、一方には――誰かの頭部が入っている。
少年にはそれの正体がすぐに分かった。あれは彼の母親だ。
目と口を開けたままの顔は、生前の面影が消え去ってしまいそうなほど不気味だった。
それに気づいた瞬間、異様なほどの血生臭さが鼻孔を突いた。
吐き気を催すそれに女は顔色一つ変えずに、次はベッドを指差した。
「あれは?」
そこには首から上がない、人間の死体が横になっていた。
腐臭が漂い、死肉には蛆も湧いている。目を背けたくなるような光景にも、女は眉一つ動かさない。
「これは?」
女はしゃがみ込むと少年の手を取った。
そこには乾ききった血がべったりと付着している。
汚れている手を女は握り込んで離さない。冷え切った手がじんわりと温かい。生きているモノの温かさだ。
女は少年の手を握りながら何かを考えている。
じっとその答えが出るまで待っていると、彼女はふと少年の首元に目を向けた。
「それ、苦しくなかった?」
言葉だけで問う。
その問いかけのわけを少年は知っていた。
細い首にはくっきりと跡が残っているからだ。
「首を絞められて、殺されそうになったってところかな。ねえ、アル。これって正当防衛になるよねぇ」
「ならなかったらこの子、ここで殺すんですか?」
「いやだなあ、そんな野蛮なことするわけないじゃないか!」
背後に控えている男に振り返って、女は笑いながら答える。
冗談を言い合って、少年に向き直ると彼女は静かに言い聞かせた。
「実を言うとね。君があの人を殺してようが、どうでもいいんだ」
彼女の言動の意味が分からなくて、少年は呆けてしまう。
じっと黙っていると、女はにやりと口元に笑みを張り付けた。
「私の興味を引いているのは、外のアレだよ」
直後、突風が吹き荒れ室内がまっしろになった。
前後不覚のなか、少年の目に映るのはすぐ傍にいる女の顔だけだ。
白群色の瞳が怪しく光る。
彼女は笑みを崩さずに、少年の耳元で囁く。
「これ全部、人間の燃えカスだよ」
それを聞いた瞬間、少年は息が出来なくなった。
まっしろな死灰は吹き荒れて、部屋のものをすべて白く染めていく。
「村人ぜーんぶ、跡形もなく灰になってるんだ。誰がやったんだろうねぇ」
女は射貫くように少年の目を見つめた。
きっと彼女には少年の動揺が伝わっているだろう。
止まっていた呼吸を再開させて、ごくりと唾を飲み込んだところで女は再び問う。
「君がやったのかい?」
静かな問いかけに、少年は頷いた。
肯定すれば殺されるかもしれない、なんてことは頭になかった。恐怖もなかった。
ただ、この事実を知ったら彼女はどんな顔をするのだろう?
そんな小さなことがやけに気になってしまう。
「君まだアルとそんなに変わらない歳だろう? そんな子供がアレをひとりでやったって!? はははっ、化け物じみてるねぇ!」
女は腹を抱えて笑っていた。
それに少年も薄く笑みを浮かべる。
化け物なんて、侮蔑とも捉えられる言葉だ。そんなことを言われても少年は笑った。
小さな田舎の村では、少年は普通ではいられなかった。
それは彼を取り巻く環境がそうさせていた。
彼の母親は人間。会ったこともない父親は、亜人だった。
人間と亜人のハーフ。ほとんど聞かないそれは、とても珍しいものだ。
けれど少年の外見は普通の人間だった。
片親が亜人であったとしても、その影響を受けることは稀である。潜在的な力や魔力等は人間よりも遥かに高いが、亜人としての身体的特徴を受け継ぐわけではない。
だからこそ、人間と亜人。どちらにも居場所がない。除け者にされ、怖がられ石を投げられる存在。
そしてそれは、小さな田舎の村では特に顕著だった。
父と愛し合って子を成した母は、少年が生まれたことで最愛の人と離れることを余儀なくされた。
人間は亜人のテリトリーでは暮らせない。逆もしかり。
よって、母は少年を連れてこの田舎の村に住み着いた。
けれど小さな村では噂の回りが早い。
母は亜人と交わった売女として陰口を言われ続けた。愛する人とは会えずに、孤独だけが募っていく暮らし。心はすり減っていく。
次第にその鬱憤の矛先は少年へ向いていった。
彼女は自身の幸せの瓦解を、その原因をすべて我が子のせいにしたのだ。
「お前が居るから不幸になる」
「顔も見たくない」
「さっさと死んでしまえ」
「お前なんか、産まなければよかった」
とても恐ろしい顔をして暴言を吐き続ける母親に、少年は必死で耐えていた。
この村の中に自分の居場所はない。唯一居られるのが母の傍でこの家の中だった。
外に出れば村中から白い目で見られ、同年代の子供たちからは石を投げられ――皆、少年のことを化け物だと罵る。
姿は同じ、何も変わったところなんてないのに化け物と呼ばれるのだ。
少年は彼らに暴力を振るったこともなければ、同じように暴言を吐いたこともない。
ただそこにいるだけでダメなんだと悟った。きっとこの先、ずっとこんな風に惨めに生きていくのだ。
理不尽な境遇に晒され、肉親でさえ助けてくれる者など誰もいない。他人は手を差し伸べてはくれない。自分を救えるのは自分だけ。
だから少年は決意した。
自分が変わればいい。化け物と呼ばれるのが苦痛に感じるのは、自らを人間であると思っているからだ。
元から化け物であれば、そんな言葉をいくら言われても傷つかない。苦しくもない。笑顔で笑い飛ばせる。
だから――彼は、そうなりたかったのだ。
「なに? 嬉しいの? そりゃよかった!」
少年の様子をみて、女はまた笑って小さな身体を抱きしめた。
痩せ細って、筋肉もほとんどない。そして、こんな劣悪な環境に閉じこもっていた。これは誰が見ても普通とは言えない。異常だ。
それでも彼女は、少年を抱きしめて離さなかった。
「アル、今日からこの子も一緒だ。私の弟子にする!」
「……本気ですか?」
「弟弟子になるんだ。可愛がってあげて」
「はぁ、仕方ないな」
やれやれと肩を竦めて、アルと呼ばれた少年は言葉とは裏腹に優しく笑みを浮かべた。
「僕はアルヴィオ、この人はモルガナ」
「ちがうちがう! フェイだ、フェイって呼ぶこと! アルに言っても呼んでくれないんだ」
「……どっちでも良くないですか?」
「良くないから言ってるんだ!」
大人げなく怒りながら、彼女は少年に名を訪ねた。
「それで、君の名前は?」
名を問われて、少年はそこでやっと言葉を発した。
「アイシェ――アイシェ・イルミッド」
「うんうん。アイシェか。いいかい? 私のことはフェイって呼ぶんだよ」
しつこく言い聞かせて、モルガナはにっこりと笑った。
それに頷いてふと彼女の背後に目を向けると、そこには呆然と立ち尽くすアルヴィオの姿があった。
「うん? アル、どうした?」
「……っ、いいえ。何でもないです」
彼は頭を振って、家の中に入ってきた。
狭い室内を見回して、それから少年の姿を見る。
「服を着替えた方がいい。探してくるから師匠とここに居て」
奥の部屋に消えていったアルヴィオを見て、モルガナは楽しそうに笑う。
「なあんだ。あんなこと言っても弟弟子が出来て嬉しいんじゃないか。素直じゃないねえ」
ご機嫌な彼女に、少年は少し考えてからあることを願い出た。
「……フェイ」
「うん?」
「お願いがあるんだ」
少年は師匠の手を握って、まっすぐに瞳を見つめた。
真剣な顔をして話す様子に彼女は笑みを消して応える。
「なんだい?」
「おれ……化け物になりたいんだ」
「化け物?」
それを聞いた師匠は、困惑した表情を見せた。
少し困ったように笑うと、少年の手を引いて外に出る。
「君がこれをやったなら、もう既に化け物だと思うけどなあ」
小高い丘の下にある村を見据えて師匠は述べる。
まっしろな灰が舞う中、少年もそれを揃って見つめた。
二人の眼下には、村だったものがあった。
無人の廃屋、灰に埋もれて崩れかけている家屋。そこには生き物の気配も人の痕跡も一切ない。
「私たちがここに来た理由は、依頼を受けたからだ。この村からしばらく連絡がないから見てきてくれってね。それで来てみたらこんなことになっている。そりゃあ驚いたさ。君を見て、もっと驚いたけどね」
小さな田舎の村は一夜にして滅んでしまった。
それを引き起こしたのが、齢十になる少年である。
「でも、君はこれでもまだ足りないっていうんだろう?」
「うん。化け物は誰よりも強くなくちゃダメなんだ。こんなの出来ても意味ないよ」
「ふぅん……なら、なってみるかい?」
師匠は少年の願いを否定しなかった。
しゃがみ込むと目線を合わせて諭すように語り掛ける。
「私に弟子入りしたアルも、叶えたい願いを持っている。だから、君のそれだって努力をすれば叶えられるよ。でも誰よりも強くなるっていうのは……本当に大変だと思うけれど。それでもやる?」
「やる!」
即答した少年に、師匠は笑って頭を撫でた。
「それじゃあ約束だ。君は自分の夢を叶える。そして私にもその夢の成就を見せてほしい」
「わかった。約束する」
決意を秘めた瞳を見据えて、彼女はふと考え込んだ。
「そうなると……君もアルと同じにしてみる?」
「おなじ?」
「彼の名前、偽名なんだよ。願いを叶えるまではいらないんだってさ。君も化け物になるなら人間だった頃とは決別するんだろ?」
「うん」
「なら形から入るべきだ」
そう言って、師匠は少年の顔をまじまじと見つめた。
暗い色をした髪は灰色にも似ている。瞳は綺麗な金色。人間では珍しい容姿だ。しかしあるものに似ていると彼女は思った。
「君、あれに似ているね。大昔に存在したっていう黒い竜」
「ドラゴン?」
「そうだ。それも君のように金色の瞳をしていたっていうよ。ドラゴンなんて化け物の一角だろう? 縁起がいいと思わないかい?」
うん、と一度頷くと師匠は少年に新しい名前を与えた。
「今日から君はヘイロンと名乗りなさい」
「ヘイロン……」
「大昔の言葉で、黒竜という意味もある。ぴったりじゃないか」
師匠からの命名に、少年――ヘイロンはなぜか少し嬉しかった。
その理由が知れないまま、彼女の嬉しそうな顔を見つめていると、家の中からアルヴィオが戻ってくる。
「適当に荷物を持ってきた。これに着替えるといい」
「うん」
渡された衣服を着ていると、アルヴィオは困ったような顔をしてモルガナに進言する。
「師匠、依頼の方はどうします?」
「うん? ああ、どうしようかねえ」
「依頼主に報告しないと報酬はもらえないですよ。金がないと今日も野宿だ」
「そんなの適当で良いじゃないか。生存者はヘイロンだけなんだし、適当に理由を付けたらいい。そうだなあ……田舎の小村がある日を境に村人全員、音もなく姿を消してしまいました。たぶんこれは魔物の仕業でしょう。かわいそうに」
つらつらと語る師匠にアルヴィオは溜息を吐いて、それから傍に居る少年を見た。
「ヘイロンって、この子の名前ですか?」
「そうだ。なんでも彼、化け物になりないんだってさ。だから形から入った方が良いと思って」
「だから黒竜って、安直すぎませんか?」
「はははっ、シンプルな方が良いじゃないか。私は好きだけどね。君は嫌い?」
「いいえ……とても似合ってる」
師匠と兄弟子の笑みを見て、ヘイロンはどうしてか嬉しかった。
少し考えてこの気持ちは、受け入れてもらえたからだと理解する。
親も、村の人たちも。
みんなが忌み嫌った少年を二人は笑って受け入れて、手を引いて一緒に来るといいと言ってくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかったのだ。