90.――朋友、夢想する 1
ローゼンが彼と出会ったのは殺伐とした戦場だった。
国境付近では亜人たちの抵抗が激しく、沢山の傭兵団が鎮圧に参加していた。
ローゼンはその内の一つ、一番勢いのあった傭兵団の一員だった。否――団員よりも下の身分だった。
彼女は傭兵団に買われた奴隷だった。彼女の仕事は様々で、戦場に剣を持って出ることもあれば、料理番をすることもあり……団員の世話係を任されることもあった。
本当に何でもさせられた。逆らうことは許されず、彼女もそれに黙って従っていた。それ以外の生き方を知らなかったからだ。
十歳の時に買われ、そんな生活を七年ほど続けていたある日――彼女が十七歳になろうとする年に、彼はふらりと目の前に現れた。
「ここで一番強い奴は誰だ?」
たった一人で現れた男は、そんな台詞を吐いた。
彼は随分と身軽な恰好をしていて、剣の一本だって持っていない。傭兵相手に腕試しをする恰好ではなかった。
当然そんな相手は団員達の笑いものにされる。
――何を言ってるんだ。
――頭がイカレちまったのか。
飛び交う粗野な言動に、彼は眉一つ動かさなかった。
すべてに無視を決め込んで、男は傭兵団で最強を自負していた団長の前に立つ。
「そう、お前だ。俺とサシで勝負しろ」
「かまわねえが……俺が勝ったらここで働いてもらう。もちろんタダ働きだ」
「俺が勝ったら?」
「この団をまるごとくれてやるよ!」
豪快に笑って団長の大男は、挑戦者に剣を投げて寄越した。
彼はそれを拾って不思議そうな顔をする。
「俺たちは傭兵だ。そいつで飯を食ってる。当然、死合うにはそいつを使う決まりだ。例外はない」
「郷に入っては郷に従えってやつか? ははっ、面白そうだ」
笑って男は剣を構えた。
けれどその構えはてんでなっていない。ローゼンが素人目で見てもそう感じるのだ。団員達にも、それはとても可笑しく映っただろう。
しかし嘲笑を向けられても、彼はまったく気にしていなかった。
むしろ、これから確実に負けるであろう死合いに挑む彼の表情は、とても楽しそうなのだ。
ローゼンはそれを見て不思議に思ったのを覚えている。
――結果は、彼の惨敗だった。
歴戦の傭兵である団長には剣の腕で叶うはずもなく、十秒も持たなかった。
傭兵団でのタダ働きは、すなわち奴隷と同じ扱いである。それでも彼はこれから先の未来を憂いてなどいなかった。
「いいねぇ。なかなか楽しめそうだ!」
地面に大の字になって寝転んで、彼は愉快そうに笑った。
ローゼンには、どうしてこんなにも前向きでいられるのか。どれだけ考えても理解できなかった。
===
灰色の髪と金色の瞳を持つ彼はヘイロンと名乗った。
しかし彼はこの傭兵団でのタダ働きが何を意味するのか分かっていなかった。
ローゼンに言わせてみれば、彼の選択は奴隷よりも下の待遇を意味するのだ。
「お前は今から俺の所有物だ。もちろん戦場にだって出てもらう。つまりたんまり稼いで来いって話だ。犬死しようもんならお前の死体を野良犬の餌にしてやるよ!」
「犬死だって? 誰に言ってやがる」
軽口を吐いたヘイロンを見て、周りの団員たちは腹を抱えて笑った。
「オメェだよ負け犬野郎!」
「がははっ、言ってやるなよ! 泣いちまうかもしれねえだろ!? 子犬みてぇにキャンキャン喚かれちゃたまったもんじゃねえ」
「それもそうか!」
周囲から聞こえてくる嘲笑に、ヘイロンは怒りもせずに頷いて見せた。
「あー、なるほど。そういうことか」
「わかったら身の程を弁えることだ。伏せして腹でも見せてみろ。そうしたら飯くらいは食わせてやる」
顔面を靴底で蹴られて、踏みにじられる。
彼らの暴力は日常茶飯事だ。ローゼンはそれに逆らってはいけないことを知っている。けれどヘイロンはそれに真っ向から対立した。
「せいぜい飼い犬に手を噛まれないようにするんだな」
「はははっ! おお、こわいこわい! ちゃあんと首輪付けとかねえと、な!」
靴先で頭を蹴り上げると、団長は笑って去っていった。
周囲から聞こえてくる薄ら笑いにヘイロンは黙って立ち上がる。彼は服に着いた砂埃を払うと、野営地の中を探索しだした。
彼の様子を遠目から見ていたローゼンは奇妙な人間が来たものだと思った。
けれど彼女も奴隷であり多忙の身だ。当然気にかけてやれる余裕もない。
そうして、一月が経ったある日。
この日、ローゼンは戦場に出ていた。
命の価値なんてないも同然の奴隷だが、剣は扱える。だからたまにこうして戦場に出て傭兵として働きに出るのだ。
亜人一人を殺せば、銀貨一枚の報酬が貰える。
金を貯めて、自分を買い戻せば自由になれる。それが団長と交わした約束だった。自由になったところで行く場所もないが、それでも今の身分に満足しているわけではない。
こんな場所で育ったが、自由には人一倍憧れがあった。
けれど、そんな彼女の邪魔をする存在が一人いる。
「あっ――おまえ! また私の獲物を盗ったな!」
「はぁ? 何言ってやがる。早い者勝ちに決まってんだろ」
ローゼンが言い争っているのはヘイロンだった。
彼は悪びれもせず、殺した亜人の首を持ち上げて振り回す。切り口から血が飛び散って、対面していたローゼンの服を汚していった。
それにますます苛立ちを覚えた彼女は、声を荒げて詰め寄った。
「お前には戦士としての矜持はないのか!? そんなのでも男だろう!?」
「そんなもんで飯食えんなら苦労しねぇよ! 馬鹿かお前は」
働かざる者食うべからず。
傭兵団にはそういったルールがある。手柄を立てた奴が優遇され、良い思いを出来るのだ。タダ働きをさせられているヘイロンであっても例外はない。
しかしローゼンにも譲れないものがある。
彼女は傭兵団に所属して七年になるのだ。死ぬまで一生こき使われるのは御免である。だから、早く自由になるためにも金が必要だった。
「私は……わたしは早く自由になりたいんだ! 邪魔をしないでくれ!」
「邪魔してねえだろ。自由になりたいならさっさとアイツを殺って、こんな場所から逃げればいい」
「なっ……!」
「お前なら簡単だろ? 女なんだから、寝こみでも襲えば簡単に――」
言い終わる前にヘイロンは声を詰まらせた。
彼の視線の先には悔し涙を流して唇を噛むローゼンが居たからだ。
「わ、私が好きであんなことをしてると思っているのか!? 好きでもない奴ら相手に、あんな」
悔しかった。
何も知らないくせに、この男は簡単に言うのだ。そしてそれは間違いでも何でもない。彼の言う通りだから尚のこと質が悪かった。
苛立ちから反論したいが、ヘイロンの言うことはもっともだった。
自由になりたいなら、誰を殺してでも何をしてでも成せばいい。それをしないのはローゼンの中に迷いがあるからだ。
彼女に両親はいない。孤児というやつで、気づいたら奴隷になっていた。
彼女の世界はとても狭く、限られた場所しかしらない。だからここを出た後にどこへ行っていいのか。何をしていいのかも分からなかった。
自由になりたいというが、そのくせ自由になることを拒んでいる。
矛盾した思いを抱えていることにローゼンは気づいていたが見ないふりをして生きてきた。
それをこんな男に暴かれそうになったことが、腹立たしくもあったのだ。
「あっそう。俺はそういうの興味がないからどうでもいい」
「……っ、」
「でも面白いよな。俺はあいつらに散々負け犬だなんだと言われてるけどよ。俺からしたらお前の方がよっぽど負け犬に見えるぜ」
「……なんだと」
ローゼンがヘイロンを恨めし気に睨みつけると、彼は持っていた亜人の首を投げつけてきた。
「そいつの骨でもしゃぶって小屋に戻れよ。戦場に負け犬は要らねえだろ」
返答も待たずにヘイロンは背を向けて去っていく。
彼の姿は戦場の粉塵に紛れて消えてしまった。
「……っ、何なんだあいつは」
血みどろの戦場で一人、ローゼンは呟く。
それに答える者は既にいない。