84.影者、約束する
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ヘイロンは珍しく苛立っていた。
ニアに言われた一言が、ずっと胸に留まっている。まるで心の中を見透かされているみたいだと思ってしまった。
「はっ、馬鹿馬鹿しい」
頭を振って余計な考えを消し去る。
悲しいなんて、そんなことあるわけがない。あってはならない。
その筈なのに、あの時言われた言葉に咄嗟に返せなかった。
それはどうしてか。
そんなものは考えずとも分かっていた。図星を突かれたからだ。
「はぁ……嫌なことばかり思い出す」
今は夜が更けて少し経った時分。
ニアは疲れてもう眠っている。
寝ている彼女を置いて、ヘイロンは夜の散歩に出ていた。
と言っても城内をカンテラ片手に歩いているだけだ。静かな城の中は暗いし不気味だが、何の音もしない静寂が今は心地よい。
黙っていると昔のことを思い出す。
ヘイロンの記憶にある昔は、モルガナと出会う前のこと。惨めで憐れでどうしようもない、子供の頃の記憶だ。
あの時の体験が今のヘイロンを作った。
だから、思い出したくもない嫌な記憶だけど大事なものだ。けれどそれが嫌なものだと記憶されているのなら、自分の中でまだしこりとして残っていることの証拠でもある。
「悲しいだって? そんなのあるわけねえだろ」
吐き捨てるように言って、ヘイロンは城の三階。バルコニーに出た。
月夜に、ぬるい風が吹きつけてくる。
バルコニーには先客がいた。
彼女は現れたヘイロンに驚いて、それから気まずげに微笑む。
「眠れないの?」
「そういうお前はどうなんだ?」
「なんとなく、色々考えちゃって……」
「それを眠れないっていうんだろ」
苦笑したヘイロンに、イェイラはそれもそうだと笑った。
そして照れたように小さな声で呟く。
「その、昼間のアレはごめんなさい。少し気が立ってた」
「別にいいよ。隠してたのは俺なんだ。あそこまでボロクソに言われるとは思ってなかったけどな」
「ううぅ……」
だって――と、イェイラは言い訳を話し出す。
「私にとって勇者は恩人なの。だから……もう少しまともな人かと思ってた。それがこんな人だと知ってみなさいよ」
「あーうん。何となく言いたいことは分かるぜ。幻滅したってやつだろ?」
「いいえ、そんなものじゃないわ。私の絶望はもっと深かった!」
怒りが再燃してきたのか。イェイラは怒りだした。でもすぐに何かに気付いて静かになる。
「……なによ、元気ないじゃない」
「ははっ、やっぱ分かるか?」
普段と違う様子に目敏く気づいた彼女は、心配そうな表情をする。
「少し昔のことを思い出しちまった。柄にもねえけどな」
「昔のこと……」
ヘイロンが自分のことを語るのはとても珍しい。
イェイラもニアも彼のことをほとんど知らない。今日やっと勇者だったことを聞いたばかりだ。それだって秘密にしていた。
「あなたがそうやって自分から話すの、珍しいわね」
「まぁな、女々しいだろ。ずっと忘れたいのに忘れられないんだ。こんなもん、覚えてたところでどうにもならないのにな」
「……いやなこと?」
「さあな、どうだったか」
誤魔化し方が下手くそだ。
けれど話したくないということはイェイラにも分かった。秘密にしておきたいことは誰しも抱えている。
彼の場合秘密だらけだけど……きっと今は話したくないのだろう。打ち解けてきたと言ってもまだ会って間もないのだから当然である。
けれど少しだけ寂しくも感じる。別に特別な感情はないはずなのに……考えすぎだとイェイラはかぶりを振った。
「私も、忘れたいことは沢山あるわ。自慢じゃないけどね」
感慨深げに頷いて、イェイラは眉を下げた。
「私にはハイドが居た。この子のおかげで思い出しても辛くはないの。泣きたくなることもないし、誰かを恨むこともない。でもね……私もいつか、この子のこと乗り越えなきゃいけない時が来る。きっとこのままじゃいけないのよ」
「俺にもそうしろって?」
「いいえ」
イェイラは否定した。
そういう意味ではないと彼女は言う。
「こういうことに向き合うのって辛いし苦しいじゃない。だからきっと一人じゃ無理ね。怖くて逃げ出したくなる。だから、誰かが傍に居てくれなきゃ出来ないのよ。私にも、あなたにもね」
「誰かねぇ……」
「物理的な意味じゃないわよ? こう、信頼できる人っていうの?」
「信頼……」
ヘイロンが信頼を置ける人物を挙げるとしたら師匠のモルガナだろう。
けれど彼女には頼れないことだ。きっとこんなことを打ち明けたら嗤われてしまう。家族同然の間柄だけど、それ以前にヘイロンの師匠である。弱みだけは見せられない。
「そんなやつ、俺には居ないな」
「お師匠様は?」
「フェイはそういうのじゃない」
「ふぅん、そういうものなのね」
「お前はどうなんだよ」
「私は根無し草よ? そんなの、居るわけないじゃない」
分かりきったことを聞くなとイェイラは鼻を鳴らす。
「でもね、辛くて苦しんでいる人を放っておくほど薄情じゃないのよ」
微笑んで、イェイラは手を差し出してきた。
「私、決めてるのよ。恩返しするって」
「……恩返し? 誰に?」
「だっ、だから……いつかその時が来たら手伝ってあげる」
話が見えずに固まっているヘイロンに痺れを切らしたのか。イェイラは強引に手を取ると握ってきた。
「その代わりに、私の時も手伝ってもらいます」
「それ、交換条件ってやつじゃないか? 恩返しではないだろ」
「こ、細かいことはいいのよ!」
痛い所を突かれて、イェイラは握った手を勢いよく話すとそっぽを向いた。照れているのか顔が赤い。
それでも彼女の厚意は伝わった。
ヘイロンが笑んだのを見て、イェイラはゴホン――と咳ばらいをする。
「あなたのこと、なんて呼べばいい?」
「え?」
「名前のことよ。ヘイロンかハイロ」
「どうでもいいよ。呼びたい方で任せる」
「ふぅん、今更変えるのも面倒だし、今まで通りにするわ」
「そうしてくれ」
ヘイロンの顔を見て、イェイラは安心したように笑った。
「それじゃ、また明日」
「ああ、おやすみ」
「お、おやすみ……」
もごもごと呟いて、イェイラはバルコニーから去っていった。
急に静かになった月夜を見上げて、ヘイロンは満足げに笑みを作る。
不思議と苛立ちはなくなっていた。