70.影者、撫で師になる
「ううぅ、だいぶマシになってきた」
モルガナから貰った薬を飲んで寝ていたムァサドは、痛みが引いてきたのを感じて起き上がった。
年甲斐もなく張り切ってしまい、あまつさえこんな状態に陥るとは……心の中で猛省して彼はイェイラの元へ行く。
結局何も狩れなかったのだ。せめて詫びだけでもと炊事場へと向かうと、その途中。
大穴が空いたエントランスを通ると、入り口付近にイェイラとグリフの姿が見えた。
「何をしているのだ?」
「あ、ムァサド。もう起きても大丈夫なの?」
「ああ、貰った薬で今は痛みもない」
しかしそれでも彼の動きはぎこちない。
あまり無理をしないでと言って、イェイラは擦り寄ってくるグリフの頭を撫でる。
「む、これはどうしたのだ?」
「お腹が空いたみたいだから、獲ってきたシカを一頭あげたんだけど。そしたら懐かれちゃって」
「ごはんくれるひと、すきぃ」
少し嬉しそうにしてイェイラはグリフの相手をしている。
そうしていると突然ハイドが彼女の影から出てきた。
「イイナァ」
「えっ!? ハイド!?」
「ウウゥ……ナでテェ」
「ど、どうしたのよ。もう……」
ハイドはイェイラの影であるが自我はちゃんと持っている。
でもこうやって甘えてくるようなことはあまりない。珍しい態度に戸惑いながらもイェイラはしゃがみ込んで彼の身体を撫でてやる。
「むゥ……」
「なに?」
視線を感じて顔を上げると、どういうわけかムァサドがじっとイェイラを見つめている。
それに彼女が訝しんでいると、彼は大きな身体をたたんでイェイラの傍に寄ってきた。
「えっ!? なになになに!?」
「わ、ワシも撫でてくれんかね」
「なんでェ!?」
照れたように顔を掻きながらムァサドはイェイラへと願い出た。
状況が飲み込めない彼女は、瞠目しながら訳を聞く。
「ど、どういうことよ!」
「なんというか……ほら、自分で撫でるよりも誰かに撫でてもらった方が気持ちがいいだろう?」
「理由になってないわよ……もう、仕方ないわね」
イェイラの周りにはモフモフの囲いが出来ていた。
より取り見取りな状況に彼女は嫌々ながらも楽しそうである。
「ぬあぁ、これは慣れておるなァ」
「ハイドが居るんだもの。当たり前でしょう」
「これは癖になりそうだ。儂の撫で師になってもいいぞ」
「なによ、撫で師って……ほら、ご飯作らないといけないからもうおしまいね」
手を止めると、三方向から悲痛な叫びが聞こえてくる。
「ええー!?」
「ウウゥ……」
「あと五分、いや三分!」
「もうおしまいです! はい散った散った! いきなさい!」
イェイラが立ち上がると彼らは渋々と引き下がっていった。
グリフは魔王城の外に向かい、ハイドはイェイラの影に戻って、ムァサドはしょんぼりと犬耳と尻尾を垂らす。
それに構わずイェイラが炊事場に向かおうと踵を返した時――突如、耳を劈く叫び声が聞こえてきた。
「な、なな……なあああああああ!!!!」
「どっ、どうしたのよ!」
振り返るとムァサドが魔王城の外を見て叫んでいるではないか。
急いで傍に寄ると、彼は腕を上げて前を指差した。
「あゥ、あれは……」
「なにあれ、石像?」
魔王城の外には古めかしく大きな石像が見えた。
そこに埋め込まれている淡く輝く核を見て、イェイラはアレがゴーレムであることを見抜く。
「ああ、あれはゴーレムね。何もそんなに驚かなくても」
「そ、そうではないのだ! あれは……あれは、魔王様!」
「ま、まおう?」
意外なことをムァサドは叫ぶ。
なんでもこの城には魔王の石像が置いてあったらしい。
らしい、というのは……目の前で動いている石像は千年前に作られたもので、魔王が封印された時に人間たちに壊されて、打ち捨てられたのだという。
それから行方が知れなかったのだ、と彼は語る。
「でもあれ、顔が溶けてるから何か分からないわよ」
「そうではあるが……もしかして、あれに外作業をさせるのか?」
「うーん、そうみたいね」
「なな、なんと恐れ多い!」
ガックシと肩を落として、ムァサドは地面に膝をついた。
ヘイロンにかなりキツイことを言われたが、それでもまだ少し忠誠心とやらは残っているらしい。
確かに、慕っていた人の姿を模したものが、こうして扱われているのを見るのはかわいそうでもある。
「仕方ないじゃない。この城を立て直すには必要なんだし……」
「う、うむゥ……そう、そうだな。魔王様が手伝ってくれていると、そう思おう」
持ち直してくれたムァサドに、イェイラは安堵した。
これでまたヘイロンと口論、なんて洒落にならない。
「それじゃあ、私は食事を作りに――」
いそいそと踵を返そうとした、その直後。
「ぎいやああああああああああ!!!」
二人の耳に、断末魔のような叫びが響いた。
咄嗟にムァサドを見るが、彼は違うと頭を振る。
城外から響いたその声に、二人は急いで外に向かう。
そこには夕暮れの空を舞うグリフと、彼に脚で掴まれ空を舞う誰かの姿があった。