60.賢者、決別する
ジークバルトの背後に見えたのは、紺色のローブを着て顔をフードで隠した人影だった。
ヘイロンはその人物のことは良く知っている。
「ア――、ッ!」
迫る剣撃のことなど、頭の中にはなかった。
名を呼ぼうと声を上げた、その直後。
突然、ヘイロンの眼前――剣聖との間に眩い閃光と火花が散った。
「ぐぅっ――!」
閃光は爆発を伴ってヘイロンの顔面を吹っ飛ばした。
その衝撃にジークバルトは掲げていた剣を下げる。
顔面に大火傷を負ったヘイロンは吹き飛ばされながらも、すぐさま態勢を立て直した。
しかし、ヘイロンの弱所への的確な攻撃。威力こそ弱かったから頭部を吹き飛ばされなかったが、危うくあの一撃で絶命するところだった。
「……アルヴィオ」
ヘイロンに攻撃を仕掛けてきたのは、彼の兄弟子。そして、元仲間の一人でもある。
賢者、アルヴィオだった。
「ジークバルト、やりすぎですよ」
明朗な声が耳朶を打つ。
彼はゆっくりとこちらに近づいてきながら剣聖に釘を刺した。
「だが、この男を野放しにしては……」
「だからといって彼の背後にいる国民諸共、消してしまうのはやりすぎです」
「この犠牲は致し方ないもの! 奴を討つには――」
剣聖は吠える。しかしそれをアルヴィオは片手を上げて制止した。
「パウラ、彼の洗脳を解いてください」
「は、はい!」
アルヴィオは建物の二階にいるパウラに命令した。
どうやらジークバルトには聖女の能力で洗脳状態にしていたみたいだ。
剣聖は、亜人は別だが自国民に刃を向ける奴ではない。
あの強行も聖女の能力下であったのなら納得だ。
聖女と剣聖、二人が下がったところで賢者がヘイロンの前に立った。
彼はフードの下に目元を隠すバイザーを付けている。
目を、視線を隠すのはアルヴィオにとって、相手に心を許していないという証拠でもある。それを一番知っているのはヘイロンだ。
「……アルヴィオ」
「パウラのアレは彼女の独断です。説得するというからダメ元で許可したのですが、やはり失敗しましたね」
だからこうして笑いかけてくるアルヴィオの本心が、ヘイロンには手に取るように分かった。
「……っ、アルヴィオ」
「貴方が亜人と共に居ると知った時は驚きましたよ。しかも魔王の縁者だ。流石の僕もそこまでは読めなかった」
彼の話を聞きながら、ヘイロンは身動き一つ出来なかった。
吹き飛ばされて、地面に蹲ったまま……見上げる事しかできない。
「それにしても、がっかりだ」
アルヴィオの声音が僅かに陰る。そこには若干の憤りが混じっていた。
「貴方は彼らを傷つけなかった。殺戮ではなく逃走を選んだ。本当に残念だ。そんなことでは貴方の夢は果たせないのに」
かぶりを振って、彼は至極残念そうにする。
ヘイロンはそれに何も反論できなかった。何も言葉が出てこない。蹲ってただ見つめるだけ。
「ちゃあんと頭、働いていますか?」
自分の頭を小突いて、アルヴィオは笑み作る。
それは彼の口癖の一つだ。ヘイロンが馬鹿なことを言うと、彼は決まってこんな風にからかった。
その一言で、ヘイロンは目が覚めた。
目の前にいるのはずっと傍にいた兄弟子、アルヴィオである。偽物でもなく、彼そのものだ。
その事実を飲み込んで、ヘイロンは明瞭に声を張った。
「お前が俺を裏切ったのも、その夢の為だっていうのか」
「結果的にはそうなりますね」
「……魔王殺しの謀略も?」
「それは半分正解です。あれには僕の大願も含まれているので、ついでですよ」
「だ、だったら……騙さなくたって、いいだろ」
簡単に、何も問題はないとでも言うように彼はヘイロンの問いに答える。
それを受けて、ヘイロンはみっともなく声を震わせた。
「お前が魔王を殺せって言ったら、俺は拒まなかった! なんでそれをお前が分かってくれないんだよ!」
兄弟子で、十年間共に過ごした。
彼なら分かってくれると思っていたのに、それはヘイロンの勝手な思い込みだった。
縋るような眼差しを受けて、アルヴィオはその口元に笑みを浮かべた。
「化け物と共謀していると知れたら、僕も粛清されるでしょう? 共倒れは御免だ。僕にはあの場所で、まだやるべきことがある。だから貴方一人に罪を着せて追い出した。少し考えれば分かることだ」
賢者、アルヴィオは冷たく言い放つ。
そこにはヘイロンの知る兄弟子はいなかった。冗談を言い合って、些細な喧嘩をして、共に過ごした彼は、もうどこにもいないのだ。
「情を知れば判断を鈍らせる。人間に戻りたいなら、その名は棄ててください。きっと師匠もそれを望んで――」
刹那、ヘイロンの頭上で突風が巻き起こった。
上を見上げると、そこには一頭のグリフォンが居る。そしてその背には二人の知る、偉大な師の姿があった。
「あ、あれ……グリフォン!? どうしてここに」
「あのような凶暴な魔物を従えるとは……奴はいったい」
剣聖と聖女の声が遠くから聞こえ、グリフォンはヘイロンの傍に降り立った。
グリフの背から降りてきた毒鎖の魔女、モルガナは両者の間に立つ。
「……フェイ」
「師匠」
ヘイロンにはモルガナがどんな顔をしているのか、分からない。
それを見れるのは彼女と対面しているアルヴィオだけだ。
けれど、ヘイロンが見据えた彼の表情は、何の変化もなかった。
「人嫌いの貴女が何をしにここへ?」
「なあに、私の愛弟子を迎えに来ただけだ」
「へぇ……僕が彼をこのまま帰すとお思いで?」
「私の前で随分強気になったもんだ」
コンッ――と、モルガナは杖の底で地面を叩いた。
「私の異名を知らない訳でもあるまい」
「……毒鎖の魔女」
「正解だ。その気になれば、ここにいる全員、毒殺することだってわけないさ。毒に耐性のない一般人なら即死だ。やってみるかい?」
パウラの洗脳で、ヘイロンの周りには沢山の群衆が居る。ここで毒なんて撒いたら、どれだけの人が苦しむか。
それが理解できないアルヴィオではない。
賢者は口元の笑みを崩さず、肩を竦めてみせた。
「分かりました。今回は手を引きましょう」
「今回は、ねえ……ま、そういうことにしておこうか」
話を終えたモルガナはヘイロンに向き直る。こちらに伸ばされた手を、ヘイロンは掴んで――思い切り引いた。
師匠の膝を地面に着かせて、ヘイロンは立ち上がる。
ちょうど両者の間に割って入った直後、ヘイロンの胸元に激痛と爆音。肉の焦げる臭いが鼻を突く。
モルガナを、自らの師匠を狙った攻撃だった。
「あーあ、バレちゃいましたか」
「……っ、お前! 自分が何をやったか、分かってんのか!?」
すぐさま傷が治ったヘイロンに、アルヴィオは眉を動かすこともしない。
ヘイロンが胸倉を掴んで詰め寄ると、必死な様子を見て彼は薄ら笑いを浮かべた。
「今の攻撃、よく気づきましたね」
「お前っ、ふざけるなよ! 今ここで殺してやる!」
殺意を向けるヘイロンに、アルヴィオはなおも笑みを崩さない。
「貴方が僕の命を奪う前に、僕は貴方の頭を吹き飛ばせる。これだけ近づいたのなら、最初のような威力の一撃をお見舞いすることもないですから」
「そこまで言うなら、試してやろうか」
ヘイロンの怒りは限界に達していた。
共に暮らし家族同然の師匠を、こいつは殺そうとしたのだ。こんなもの、兄弟子でもなんでもない。
裏切られたことよりも、その事がヘイロンの心を蝕んでいく。
兄弟子でも家族でもなく、他人なら。きっと殺しても心は痛まない。
頭に血が上った状態で出した答えを、実践に移す前に――背後から伸びてきた手がそれを止めた。
「やめなさい」
ヘイロンを止めたのは師匠であるモルガナだった。
彼女は汚れたローブを払って、ヘイロンの腕を掴むとアルヴィオから引き離す。
「な、なんでだよ!? こいつは」
「さっきの一撃じゃあ、私は殺せない。本気だったら、庇った君の胴体なんて吹き飛んでいるはずだ」
モルガナは冷静に断じた。彼女の意見を聞いてヘイロンは言葉に詰まる。正論だった。
確かに、先ほど受けた一撃はアルヴィオにしては威力が弱かった。殺すつもりなら手加減はしないはずだ。
「貴女はそっちを取るんですね」
「手のかかる子ほど可愛いというだろう? 君は優秀すぎたんだ。私の手など振り払って行ってしまう」
師匠の一言に、アルヴィオは笑みを消した。
彼が何を思っているのか。それはヘイロンには分からない。
「一つ忠告をしておくよ。今度は情など掛けずに殺しきることだ。でないと君が殺されてしまう。そうなっても、恨みっこなしだよ。裏切りには報復が付き物なんだから」
去り際に言葉を残して、モルガナはヘイロンの手を引くとグリフの背に乗る。
「アルヴィオ、あれを逃がしてもいいのか?」
「構いませんよ、あんなもの……今は泳がせておきましょう」
ヘイロンはグリフの背に揺られながら地上を見る。
そこには小さくなっていく、元仲間の……兄弟子であったアルヴィオの姿があった。
振り切るようにヘイロンはそれから目を背ける。
「まったく、世話の焼ける弟子だよ」
師匠の背に掴まった弟子の手を取って、モルガナは呟く。
それに返ってくる声は聞こえないまま、二人は帰路に着いた。