53.師匠、からかう
ヘイロンは焦っていた。
なんせ彼の背後にはあの二人が居る。ここで身バレしてややこしくなるのは避けたい。
そのために無理やりに小屋の中に引きずり込んだのだが……件の師匠の顔を見てヘイロンは心底後悔する。
「――んぐ、ヘイロン!」
「うっ、」
彼女は口を塞いでいた手を掴むと密着していた身体をさらに詰める。
それに気圧されるようにヘイロンは後ずさる。背中が扉にぶつかったところで、後頭部に手が回り込んで噛みつくようなキスをされた。
「んン――――ッ!」
口内に舌を入れられて蹂躙される。
妙に甘ったるい味がして、ヘイロンは瞬時に肝が冷えた。
「や、め――ろっ!」
無理やりに引き離すと意外にもあっさりと解放された。
けれどそれに安堵する暇もなく、急激な吐き気がこみ上げる。それを飲み込むことが出来ず、ヘイロンは蹲って嘔吐した。
手を口に当てたが、指の隙間から吐瀉物が零れて床を汚す。
そんな弟子の様子を、師匠である彼女はニヤニヤといやな笑みを浮かべて見下ろしていた。
「酷いなあ。私からの口付けを拒絶して、そのくせ吐いてしまうなんて。あーあ、今のはとっても傷ついた!」
「うる、さい……毒鎖の魔女」
「その名前、嫌いだって君に言わなかったかな?」
溜息を吐いて、彼女は布切れを渡す。
それで汚れを拭き取ると、ヘイロンは弱々しく立ち上がった。
「だったらもうちょっと穏便に迎えてくれよ、モルガナ。今回は連れもいるんだ。こんなの見せたらびっくりするだろ」
「ふむ、一理あるね。でも君が吐いてしまったのは私のせいではないよ」
「はあ? どう見てもお前のせいだろ!?」
「失敬だなあ。あれは君の毒に対する耐性が下がっていたからだろう? あんなの昔はビクともしなかったのに、弱くなったもんだね」
モルガナは毒に精通している。だからまたの名を――毒鎖の魔女。
毒と薬は表裏一体だ。救いもするし殺しもする。
けれど、さっきのキスに含まれていたのは明らかに致死性の毒である。ヘイロンはそれに瞬時に気付いたため、反射的に身体が反応したのだ。
「はぁーあ、本当に残念だ。私は君のためを想って色々と慮っているのに……五年ぶりに訪ねてきたと思ったら、あんな女を侍らせて! 私というものがありながら!」
「あのなあ……俺とモルガナは師弟だろ?」
「あんなことをしておいて、ただの師弟だって!? 片腹痛いっ! 君は乙女の心を踏み躙るつもりか!?」
「乙女って……そんな歳でもないだろうが。それにあれは不慮の事故だった」
「同衾しておいて、不慮の事故ぉ!? 言い訳するにしても、もっとマシなのがあるだろう!」
モルガナが吠えた、その直後。
閉まっていた扉が勝手に開いた。否、いつから開いていたのか、ヘイロンには分からない。
彼の目の前にいる師匠なら、鍵の掛かっていない扉など遠隔で開けてしまうことは造作もないのだ。
「あーあ、男ってのは都合が悪くなるとすーぐ逃げる。私は残念だよぉ!」
なぜか勝ち誇ったように聞こえるモルガナの台詞を聞きながら、ヘイロンは背後を振り返った。
そこには外で待たせてあった二人がいた。
ニアは聞こえてきた口論に驚いて呆然としている。こちらはまだいい。問題はイェイラだ。
彼女はまるで卑しい生物でも見るかのような目で、ヘイロンを見ていた。
軽蔑の眼差しに無言の圧力。今のイェイラが何を思っているのか。ヘイロンにはすぐに理解できた。
「あ、あのな……これは」
「ハイロ。どうきん、ってなに?」
「うっ、……子供にはまだ早いと思うなあ」
ニアの無垢な質問をなんとか躱したヘイロンだったが、それと入れ替わりで冷たい視線が突き刺さる。
「さいってい」
「――っ、はあ!?」
イェイラがどこから話を聞いていたか分からないが……さっきの口論をすべて聞かれていたなら勘違いをしているのは明白。
彼女はきっと、二人が恋仲であると思い込んでいる。そんな関係なのに配慮に欠けることをヘイロンが言ったから軽蔑しているのだ。
「勘違いだ! モルガナとは本当にただの師弟! これっぽっちもやましい関係じゃない!」
「そうだったらさっきのは何よ!」
「言っただろ! こいつは他人をからかうのが好きだって!」
「だったらなんで彼女、泣いてるのよ!」
イェイラの訴えに、ヘイロンは振り返る。
するとそこには涙を浮かべるモルガナの姿があった。
「――っ、おまえなあ!」
これにはヘイロンの堪忍袋の緒も切れる。
怒りの表情に気付いたモルガナは、涙を引っ込めると腹を抱えて笑い出した。
「あー、おもしろっ! やっぱり君をからかうのが一番だ!」
「ふざけんなよ! 俺の尊厳が地の底まで落ちる所だったんだぞ!?」
「そんなの元から無いんだから気にしなくてもいいのに。小さい男だなあ」
ひとしきり笑い終えた後、モルガナは未だ状況が掴めない二人に対して自己紹介をした。
「こんな場所まで遠路はるばるようこそ。私は毒鎖の魔女、モルガナだ。えーっと、ハイロとは切っても切れない腐れ縁ってやつだね。よろしく」
そう言って、モルガナは微笑を浮かべる。
五年ぶりに会ったヘイロンの師匠は何も変わっていなかった。
分かっていたことだが……こんな調子では先が思いやられる。
一気にやつれた顔をして、ヘイロンは二人を小屋に招き入れるのだった。