37.負け犬、吠える
「……あれなに?」
「何に見える?」
「うー、……おっきいけだま?」
ニアは見たままを述べた。
玉座の前には何かが蹲っている。モフモフのそれはニアの言ったように毛玉にも見える。
けれどそれの正体にヘイロンは気づいていた。
それも侵入者に気づいたのか。蹲っていた身体を起こすと立ち上がる。
上背はゆうに二メートルは超える。ヘイロンの伸長を軽く超えて、それは頭上から二人を睨みつけた。
「誰だ……っ、ここに何の用があってきたッ!?」
それは巨体を怒らせ、叫び声を上げる。
毛を逆立てた身体は先の二倍に膨れ上がりさらに巨大になった。
「うわあ、でっけえなあ」
「た、食べられちゃう?」
「ニアは食べられちゃうかもなあ。おいしそうだから」
「う、いやだ!」
呑気に話しているヘイロンに、それは怒りを募らせていく。
一歩踏み出すと共にボロい城は微かに揺れる。けれどそれは歩みを止めずに、二人に近づいてきた。
「貴様らぁ……っ、本当に食ろうてやろうかァ!?」
大きく顎門を開いて、ヘイロンの眼前にそれは立つ。
見据えた姿は、例えるなら紺青の毛色を持つ狼。所々に白毛交じり。胸元と顔周りは真っ白ではある。年老いているのか……しかし、その巨躯は衰えを感じさせない風貌だ。
正体不明の獣人は近づいてくると、頭上からヘイロンをまじまじと見つめる。
吐息がかかる距離まで顔を近づけて……そこで何かに気づいて息を呑んだ。
「……っ、は?」
突然、獣人は口を閉じて沈黙。ピンと立っていた尻尾は股の下に垂れ下がって、大きな耳もへたり込んでいる。
明らかに怯えた表情をしながら、彼はヘイロンに恐る恐る問いかけた。
「なぅっ、なぜお前がここに……っ」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ何でここにいる? あの時、てっきり死んだと思ってたけど、生きてたのか」
「――ッ、ヘイロン……ゆう――ングゥッ!」
それが何かを言いかけた途端、ヘイロンは片手で首を締め上げた。
無感情な声音が、獣人の耳朶に染みわたる。
「それ以上は話さない方が良い。首をねじ切られたくなかったらな」
「ンンッ、わぅ、わかった!」
「よろしい」
色よい返事が貰えたところでヘイロンは獣人を解放する。
咳き込みながら彼は地面に膝をつくと、ヘイロンを見上げて問うた。
「この眉雪、殺さぬのか」
「お前が何もしないなら、俺も何もしない」
ヘイロンの一言に、獣人はほっと胸を撫で下ろした。
彼らの会話を傍で聞いていたニアは疑問に眉を寄せる。
「ハイロ、しりあい?」
「すこーしな。名前は知らん」
「ムァサドだ。今の言葉、本当に信じても良いのだな?」
「ああ。妙な真似しなかったら、だけどな」
ニアの目から見て、ムァサドはヘイロンのことを酷く恐れているように見えた。
あんなに大きな身体を持っていて、簡単にぺしゃんこに出来そうなのに。案外怖がりなんだなあ、なんて思っていると――
「ところで、お前……」
「ハイロだ。そう呼んでもらった方が都合がいい」
「どうしてここに来た? もう用などありはしないだろう?」
ムァサドは神妙な面持ちで尋ねる。
ヘイロンは心底不思議がっている彼に、ニッコニコの笑顔を振りまいて答えてやった。
「いやあ、あれから色々あって。ここに住もうと思ってなあ。遠路はるばる来たってところだ」
「す、すむぅ!? そ、それはまことの事実か!?」
「もちろんだ! それとここに住むのは俺だけじゃないぜ? ニアと、その他に連れの奴が一人いる」
「ま、魔王城に住むだと……っ、なんということだぁ」
ムァサドは頭を抱えて蹲った。
地の底から響いてきそうな唸り声をあげて悶絶している。
「お前はどうする?」
「……何の話だ?」
「ここに一緒に住むなら歓迎するぜ? なんたってここ、ものすごいボロいだろ? 修繕やら何やらで人手が多いに越したことはないんだ」
「儂に魔王城の復興を手伝えと? 正気か!? 気を抜いた途端、寝首を掻くやも知れんぞ!?」
「大丈夫だ。お前如きに俺はやられねえよ」
ニヤリと笑って、ヘイロンはとどめの一撃。
「それに、負け犬は尻尾振って服従するもんだろ?」
「~~~ッ! どこまでも人を小馬鹿にしおって! ぐぬぬぬぬッ!」
歯ぎしりするムァサドの怒りは中々収まりがつかなかった。
ヘイロンの指摘はその通りである。しかし、負け犬であろうが矜持は持っているのだ。
「そもそも儂が敗れたのはお前ではなく、あのいけ好かない男だ! この借りを返すまでは死んでも死に切れん!」
ムァサドの話を聞いてヘイロンの脳裏に浮かぶのは、あの賢者の姿だ。
彼相手では並みの亜人がいくら束になっても勝てっこない。それでも闘志を燃やすムァサドを見て、ヘイロンは小気味よく笑った。
「わざわざ死にに行くようなもんだけど……その心意気だけは買ってやるよ。流石、魔王の先兵なだけはある」
「むっ……あ、当たり前だろう! 儂を誰だと心得る! かのガルデオニアス様の忠臣であるぞ!」
胸を張って宣言するムァサドに、それを聞いていたニアが反応する。
「大じじさまのこと、しってるの?」
「むっ、……大じじさまだと?」
「うん。ニアの大じじさま、魔王なんだ」
ニアの証言にムァサドは驚きに目を見開く。
彼は大きな手でニアの身体を持ち上げると、まじまじと見つめた。
「ううーむ……面影はある。嘘を吐いているようには見えんが……これは本当に魔王様の縁者であるのか?」
「うん。でも、ニアはできそこないだから」
項垂れて答えるニアに、ムァサドは唸った。
彼女がここにいるということは、身の上に何かしらの事情を抱えているということ。それを察したムァサドはそれ以上詮索しないことに決める。
なにより、彼の眼下でヘイロンが睨みを利かせている。あの眼の前では迂闊な事を言ってしまえば首が飛びかねない。
「そうであるか……儂からは多くは望まない。何も気にせずとも良い」
「……っ、うん」
「おい、なに泣かせてんだよ」
「な、泣かせてはおらんよ。逆らう気など毛頭ない!」
急いでヘイロンの元にニアを返して、ムァサドは両手を挙げる。
彼の戦意はすでに削がれていて、ヘイロンたちに何かをしようなどとは少しも思っていないのだ。
疑いの眼差しを向けるヘイロンだったが、少し考えたあと納得したように頷いた。
「まあ、そういうことにしといてやる」
「助かる……して、もう一人の連れというのは……」
「――私のことよ」
いつの間にかヘイロンの背後にイェイラが立っていた。