幕間 ガルドラ公爵派 上
「きゃあっ!?」
「姫様、もうしばらくのご辛抱を!」
逢魔が時。
整備する者がいなくなり荒れた街道を、一台の馬車と数騎の騎馬が疾走する。
所々に落ちている枝や小石を頑丈な馬車の車輪が弾き飛ばすたびに車体が揺れ、中にいる若い女性が悲鳴を上げる。
「私のことはいいのです、ですが……」
「誠に無礼ながら、最悪の場合は姫様の御身を犠牲にしていただくしかありません。我らの同輩達はそのために――」
「……か、覚悟はできています」
仮にも姫と呼ばれる女性に、騎士は非情な願いを告げる。
だが、それで無事に目的地にたどり着けるのなら、一行の誰もが本望なのだ。
ただ一人、彼らが守り抜こうとしている人物さえ無事なら。
「ジルク卿、来たぞ!!数は約十騎!!」
「半数は私について来い!残りはなんとしても馬車を守れ!!」
「ジルク卿、ご武運を!!」
「姫様に神の御加護がありますように!!」
互いに互いの無事を祈り、一方は反転し、一方は脇目も振らずに走り続ける。
激しい馬蹄と車輪の音の合間に聞こえ始めた戦いの気配に、女性はただ祈ることしかできない。
全ては、彼女の腕の中にいる男児のため。
彼女の名はアンリエッタ。
ガルドラ公爵派の小貴族の令嬢である。
アンリエッタの家はアドナイ貴族としては最下級の部類で、ガルドラ派と言っても存在感は無いに等しい発言力だった。
それでも、豊かではないが景色の良い領地と、優しい父母、忠義に厚い家臣に囲まれて、アンリエッタは幸せに育った。
転機が訪れたのは、アンリエッタの社交界でのお披露目直前のことだった。
王都の大商家の次男坊を名乗る身なりのいい青年が、アンリエッタの家の御用商人を介して療養目的の滞在を願ってきたのだ。
水と空気の良さだけが自慢なことから、これまでもこうした話が何度かあったので、アンリエッタの父は快諾し、青年の世話係にアンリエッタをつけた。
もちろん、実際の世話はメイドや下男が行うもので、アンリエッタはいわば田舎の退屈しのぎの話し相手として、青年をもてなすように命じられただけだ。
「やあ、しばらく世話になります」
「ご、ごきげんよう」
会うのは日中だけで、それも常に誰かの目がある日々。
だが、白い肌に儚げな笑みを浮かべる青年にアンリエッタの心は次第に惹かれていき、偶然にも相手も同じ気持ちに至った。
そんな二人が人目を忍んで逢瀬を重ねることは想像に難くなく、それが続けば自然とできるものができるのも道理だ。
ある日、突然強烈な吐き気に襲われたアンリエッタは、胎に生命が宿ったのではないかと直感した。
混乱する中で真っ先に相談したのが、もう一人の当事者である青年だったことが、後のアンリエッタにとって良かったかどうか。
話を聞いた青年が、何か意を決したように首に下げていたチェーンを持ち上げ、アンリエッタに見せた。
「そ、それは……もしかして!?」
「黙っていてすまない。僕の体には、ガルドラ公爵家の正当な血が流れているんだ」
いくら、アンリエッタが田舎の小貴族の娘だからと言っても、家の派閥の長の紋章くらいは知っている。
そして、彼我の家格の差から、アンリエッタとお腹の子がどうなるのかも。
青年の首に下げられた印章を見て、アンリエッタは目の前が真っ暗になる思いをした。
だが、青年の眼は優し気なままだった。
「責任は取る。今はまだ確実なことは言えないが、君を妻にすると約束する」
「け、けれど、私と貴方では身分が違いすぎます……」
「僕は長年、子供を作るのは難しいと周囲から言われ続けてきた。家督を譲るつもりの父上も、僕に養子を迎えさせて次の跡継ぎにするつもりだ。つまり、君はガルドラ公爵家の希望を神から授かったんだよ」
「そんなことって……」
「僕にとって君は生涯ただ一人の愛する人だし、君以外を妻に迎えるつもりもない。そのためならどんな手を尽くすことも厭わない。だから、一年の猶予を僕にくれないか?」
「どうなさるのですか?」
「父上を始めとした主だった者達を説得し、君を妻に迎えるための体裁を整える。その間、僕達のことを誰にも言わずに、ただ信じて待っていてほしい。この印章は、僕の誓いの証として君に預けておくよ」
「……わかりました。お帰りをお待ちしています」
青年が言うのなら子供を堕ろすことも覚悟していたアンリエッタにとって、あまりにも望外の展開だった。
その翌日には帰って行った青年を、次第にひどくなっていく悪阻や誰にも言えない秘密を抱える孤独感と戦いながら、常に身に付けている小さな印章だけを頼りにアンリエッタは待ち続けた。
しかし、願いは叶わなかった。
「亡くなられた……?」
「うむ。噂によると、急なお斃れだったらしく、駆け付けた御医師や治癒術士も手の施しようがなかったそうだ。まだお若い身空というのにお労しいことだ。それに、御父上であられるガルドラ公爵様も大層御力をお落としとのこと。しばらくは、派閥全体で喪に服すことになるだろうな」
青年と別れてから三月後。
ある日の夕食で父から悲報を告げられたアンリエッタは、張り詰めていた糸がふっと切れるように、その場で意識を失った。
突然の出来事に、家中が慌てふためいた挙句なんとかアンリエッタをベッドに寝かせ、医師を呼んで倒れた原因を診断させた。
そこで、胎の子のことを知られた。
「アンリエッタ、その胎はどうしたのだ?いったい誰との子なのだ?それに、首に下げているその印章はいったい……」
「全て、お話しします」
家人を下がらせ、家を代表して質問をしてきた父に、ベッドの上のアンリエッタはこれ以上隠し通すことに意味はないと考え、打ち明けた。
「……信じよう」
「お父様、信じていただけるのですか!?」
「他ならぬお前の言うことだ。それに、我が領地でそれほどの見事な細工の印章を得ることは、どうあがいても不可能だ。嘘偽りとはとても思えぬ」
「では、すぐにガルドラ公爵様にお伝えしなくては」
「待ちなさい。それは、当主である私に任せなさい」
「お父様?」
「胎の子のことを公表するにしても、誰が味方で敵なのか、よくよく見極める必要がある。なにより、小貴族の娘との間に生まれた子のことを、ガルドラ公爵が喜んでくださるとは限らぬ」
「そんな!!」
「しっかりしなさい、アンリエッタ。私は家を挙げてお前を助ける心算だが、最後までその子を守れるのはお前だけだ。もちろん、堕ろすか、生んですぐにどこかに預けるというのなら話は別だが……」
「私とあの方との子です!!この命に代えても守り抜いて見せます!!」
「その覚悟があるのなら、私にも動きようがある。まずは、体調を整えてその子を産むことに専念しなさい」
「はい……」
自分一人が騒いだところで悪い結果しか招かないと、アンリエッタ自身もわかっていた。
ただ、愛する人を失ったという知らせと、現実味のない喪失感から、何かせずにはいられなかったのだ。
結局、父の言うことを信じて、母や召使いたちと共に出産の準備を進めたアンリエッタ。
その甲斐あって、半年後には特に難儀することもなく元気な男子を産むことができた。
もちろん、子が生まれた際には家中が祝福してくれて、アンリエッタも我が子の元気な顔を見られて喜びに溢れた。
だが、現実は否応なく、アンリエッタ親子を苛烈な運命へと導き始めた。
ガルドラ公爵が養子を迎えたのである。




