56 宿にて
中は10畳程の食堂だった。
その奥にある階段下のカウンターに案内される。
『えっと、うちは一泊300リーンなの。300リーン。ある?』
ゆっくり目に話してくれる宿のお姉さんに華は嬉しくなった。
がま口を開けて銀貨を6枚取り出しながら、お姉さんの指の立て方が親指含む3本な事に気が付いた。
『二泊?600リーン、です』
『二泊ね。ここに名前を書いてくれる?』
『はい』
お姉さんが取り出した紙には横書きのサインらしきものが並んでいる。
羽ペンで《千田 華》と慎重に書く。
(羊皮紙だ…。でも割とキレイに書けたかな)
『…えっと、なんて読むのかな?』
『千田 華です。はな』
書いた名前を示しながら、自分の胸にもてを当てて、ぺこりと軽く会釈をする。びびらせたいわけじゃない。
『へー、これでハナ、ね。ハナ、あたしはアイシャよ。よろしくね』
『アイシャさん。よろしく、です』
そうして案内された2階の一室は、藤棚さん程の広さの部屋に華には大きなベッドと小さなサイドテーブルと椅子があるだけの部屋だったが、アイシャが窓を開けた途端、雄大な山脈の姿が華の目に飛び込んできた。
「わー!すごい…!あんなところから歩いて来たんだ…!」
『ふふっ。気に入ったみたいね。疲れたでしょう、今お湯を持ってくるから』
アイシャが部屋を出て行くのにも気付かずに、華は窓にへばりついていた。
この2階の窓からは、華が入って来た町の入り口と石壁の塀、塀で街道は見えないがその先の山脈が見える。
華が身を乗り出しても全方向山脈が続いていて、山脈側から見えた大平野が幻のようだった。
飽きることなく山脈を眺めていると、ノックとともにアイシャがお湯の入った盥を抱えて入って来た。盥には手拭のような布がかけてある。
『はい、お湯。ご飯はあまり遅くなければいつでも大丈夫だからゆっくり休んで』
(お湯だ!うれしい!そういえばオマケって言ってたね。このお湯の事かな?)
『オマケ?』
『あっははは!そう、オマケのお湯だよ。はい、どうぞ』
『おゆ、ありがとう!』
アイシャはサイドテーブルの上に盥を置いて、華の頭をぽんぽんして出ていった。
華はいそいそと持ったままだったオプション付きの木槍を壁に立て掛け、背負子を下ろし、カバンもベッドに置いた。
毛糸のカーディガンは返り血を落としてまだ乾いていなかったので、今日はファーナが選んでくれたアイボリーの薄いフード付きのコートを着てきた。野宿の時はこのフードを被って寝たらいいかと思っていたが、宿に泊まれて良かった。
セーラー服ももんぺも地下足袋も脱いでお湯を絞った手拭で身体を拭いていると、無性に竹が踏みたくなった。
(アルベルトさんがあんな事言うから!)
竹踏みを商品にして売り出すなんて事を考えたアルベルトに少しだけぷんすこした華は、商品ができたら宿に置いてもらってはどうかと提案しようと思うのだった。
階下に戻ったアイシャは宿帳を取り出して、先ほど華が書いたサインを眺めた。
今は暇な時間で食堂にお客もいなければ泊まり客も華しかいない。あと1、2時間もすれば忙しくなるだろうが…。
(見たことない文字だけど妙に格好いいねえ…。背負子なんか担いでいたけど、ありゃあ、良いとこのお嬢さんだろうね)
『アイシャ、客か?お湯持ってったろう』
『ああ、父さん、見てこの字。格好良くない?これでセンダハナだって。ハナが名前みたい』
『見たことない字だな…。どこの』
父さんも見たことないのか、とアイシャが思ったとき、華の部屋の扉が開く音がして華が盥を持って下りてきた。
「あの。“お湯、ありがとう”」
『えー、わざわざ持ってきてくれたの!ありがとう。食事すぐにできるけどどうする?後にする?えーと、』
『しょくじ!いただきます』
顔を輝かせて返事をする華を見て、宿の主人で厨房の主もあるアイシャの父はすぐに食事の用意をしに厨房へ戻る。
『待ってな』
『ハナ、好きなとこに座って』
「はい」
華なら6人座れるおそらく4人掛けのテーブルが8台にベンチ椅子。
華がすぐ側のテーブルに着くと、数分もしない内にアイシャがトレイを持ってきた。
「わあ、美味しそう!いただきます」
手を合わせて早速いただく。
野菜がごろごろ入ったシチューにチキンステーキと、胡桃のようなナッツ入りのパン。
華には少しだけ多かったが美味しく完食した。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
『ああ、そのままでいいんだよ』
華がトレイを運ぼうとすると、アイシャがトレイを受け取る。
階段脇にある御不浄を使って華は部屋に戻って行った。
『あんな小さい子がひとりで大丈夫か』
厨房から主人が顔を出して華のいる階上を見上げる。
『やー、なんかしっかりしてるみたいだし、大丈夫じゃない?二泊だし、ちょいちょい見ておくよ。あ、いらっしゃい!』




