進んでいく時
11・犯罪
島民による犯罪率は世界的にみても低い。昨年の記録によると密猟関係以外は、窃盗と住居侵入が数件あるのみである。島で起こる犯罪の多くは飲酒に絡んだ暴力沙汰で、公にならずに終わる事が多い。反面、外国人などと関係する密猟事件は増加傾向にある。
警察、司法関連の主要施設は首都にある。刑務所も一ヶ所、設けられている。警察官は各市町村で任命を受け、それぞれの地域で任務にあたる。
死刑制度は設けられているが、司法制度が現在の形に整って後の重罪事件の発生が未だ無いため、判決を受け、死刑執行された者はいない。
中の市は島の首都である。主要な施設が集中し、人口も多い。ここでは観光客以外の、島民と思える見慣れた肌の人でも、こんなに日差しのきつい昼間なのに、ふらふらと出歩いていたりする。
目的も定かでないように、歩く姿まで踊っているかのように見える人達。誰も彼も、なんだか頼りなげに見える。
――俺も島の外へ出たら、あんな風になるのかな。
いままでどこかへ行きたいと思ったことは一度も無いが、先のことはわからない。ゼネもウラカンのように、何度も何度も島から出て行くのかもしれない。ゲンナの父親のように、そのまま戻らなくなってしまうのかもしれない。
「もうすぐだぞ」
ホウチャンの声に、ゼネは馬車の前へ視線を移した。隣の少年もつられて前を見る。
その建物の土地は広く、フォーボーの低い垣根に囲まれていた。木肌が柳に似て柔らかいこの木は、横に横にと這っていく性質があり、幅と高さの調節をしてやるだけで、あとは勝手に垣根を作ってくれる。門や角など、必要なところにフンボの木を植えておけばそこで止まるという、まことに便利な木だ。
そのフンボで作られた太い門柱の横には、高床式の門番小屋が左右に作られていて、両方共、床下と階上に見張りが立つようになっていた。
だがいまは、片方の床下にしか見張りがいない。それも小太りのその男は、垣根の枝を折っては皮を剥ぎ、民芸品の帽子を作る内職をしていた。男は門前で馬車が止まると渋々顔を上げたが、御者がホウチャンだとわかると、肉の厚い唇をぐにゃりと曲げた。
「よう」
ゼネにその顔の意味はわかりにくかったが、声の感じからすると、どうやら笑っているらしい。
「なんだ、ゲンナじゃないな」
「ああ。甥だ」
男は鼻を鳴らした。
「そっくりだ。隠し子じゃないのか」
「ふざけるな」
ホウチャンは笑いながら顎を建物の方にしゃくった。
「管理長はいるか」
「いない。副長ならいる」
ホウチャンが眉を顰めた。
「他には」
「イダトミで密猟者達が見つかったって連絡が入った。なんでだか管理長から、なんとザグルまで皆そっちへ飛んでいっちまった」
男は頭上の門番小屋をぐるりと示すように手を動かすと、また鼻を鳴らした。ずずっと重い、つまった感じが不快な気にさせる。少年は男から隠れるようにゼネに身を寄せてきた。ゼネは少年を自分の背後へと回した。
「イダトミって。まさか、こんな時期に山牡蠣を取ろうとした奴がいたのか」
「ああ、そのまさかってやつだ。馬鹿な野郎だ。そんなのはよそ者に決まってる。この時期に山牡蠣だなんて、信じられないぜ」
「まったくだ。・・・それじゃあ、仕方がないな」
「なんだ、なにがあった」
「別に、なにも。じゃ」
返事の代わりは、一段と大きく鼻が鳴る音だった。
大きな建物といえば村の役場しか見たことのないゼネの目に、ここにある建物は、どれも威圧感が漂い、不気味なほどの大きさを持っているように見えた。
高床式で、床の上に三階建ての建物が作られ、それがいくつも並んでいる。
ゼネにはわからなかったが、建物三棟で作られたコの字の形がふたつあり、その間には、もうひとつコの字が造れるぐらいの広場が設けられている。全ての床下は馬車置き場になっていて、さまざまな用途の馬車が常時置かれている。ただ、さっき男が出払っていると言っていたとおりに、いまは数台の馬車しかなく、どこもがらんとしていた。
ふたつのコの字の外側には厩があり、島には珍しい車庫も、中には自動車もあるのだが、ゼネにはとてもそこまでは見て取れなかったし、見てもすぐには意味がわからないかもしれない。
ホウチャンは門から向かって右手のコの字の、さらに右側の建物の床下に馬車を止めた。
「遠かったから疲れただろう。面倒はすぐに終わらせるからな」
「その副長って人だと、駄目なの?」
ゼネは少年を抱え降ろしたホウチャンのすぐ隣に飛び降り、叔父を少しだけ見上げながら、まだかろうじてホウチャンの方が背が高い、尋ねた。ホウチャンは甥の顔を見て、左の眉をぐっと上げた。
「どうして」
「なんとなく。叔父さん、変な感じだったから」
「そうだったか?」
「そうだった」
ホウチャンは寄り添って立つふたりの少年の顔を見比べると、にっこりと大きな笑顔を見せた。
「心配することなんかなにも無い。大丈夫だ」
「ほんとうに?」
怪しげに眉を寄せる甥の頭を、ホウチャンは両手でがしがしと撫でた。
「余計な心配するな、小僧」
こう言われると、ゼネは頭にかっと血がのぼる。家族の中で最年少の者にありがちの、背伸びしたプライドが刺激されるらしい。むっとしたゼネと、彼にぴったりと寄り添う少年を、ホウチャンは笑いながら建物の中へと導いていった。
中の市の外れまで行った後のクポリは、ただただ、何度もため息をつくしかなかった。馬車に乗り込むと、ぐずぐず草を食んでいるどら馬の手綱を取る。
「だから言っただろう。まともな奴はひとりも残っているわけがねえんだよ。いまの時期に家にいるやつぁ、どうせろくなもんじゃねえ。いまの野郎なんか船に乗せた日にゃ、ゼネを乗せなくたってお陀仏だぜ」
コンジの家を出てから一滴の酒も飲んでいないコアツァは、ついつい余計なひと言を口にしてしまう。案の定、クポリの手綱捌きが少し変わった。馬はブヒブヒと嘶きながら、北へと頭を向ける。
「・・・なにやってんだ。帰るんだろう、もう」
「前に、この近くに腕のいい漁師がいるって言ってただろう」
「あ? ・・・ああ、まあな」
――いつの話だ、そいつは。
その話をしたのは、確か、クポリが漁師になってまだ間もない頃だった。それに話をした時でさえ、その男はそろそろ引退だろうという噂が出ていた。
コアツァはその日、大物を仕留めて機嫌が良かったんだろう。日頃、俺以上の漁師はいないと言い放っているから、そんなことでもなければ他の漁師を誉めるはずが無い。
あの男がいまでも船に乗っているとは考えにくかったし、そんな話も聞いていなかった。クポリだって、いまのいままで思い出しもしなかったに違いない。
――とりあえず行ってみてもいいかな。
気が済んでしまえば、クポリもこの状態を受け入れる気になるだろう。結局、否が応でもゼネを連れて行くしかないのだ。
――いまも乗ってりゃ、それはそれでおもしろいかもしれねえしなあ。
人々の口の端に上るぐらい腕がいいと言われた男と一緒に船に乗ったら、果たしてどんな具合になるものか。考えながら、コアツァはにたりと笑った。
けれどその考えが現実になれば、意地を張るクポリ以外の誰もが必死の思いで反対するに違いなかった。
「ウォラ・ホリ? ゲンナがそう言ってたの?」
ウラカンはサナに聞き返した。
「うん、そう。知らない?」
「海の底の島の話でしょ。知ってるわ。ゲンナも私に聞いてくれればよかったのに」
サナは「そうねえ」と曖昧に微笑んだ。ウラカンのおしゃべりを、ゲンナが我慢できないということは、ウラカン以外の誰もが薄々気がついている。けれどウラカンに悪気があるわけでなし、ふたりが顔を合わせることはほとんど無いので、どうにかしようという者はいなかった。
「叔母さん、知ってたんだ。誰かに聞いたの?」
「違う、違う。ずっと前に本で読んだのよ。サナは南港の上級学校に通ったんでしょう? 私もあの学校に通ったのよ。知ってた? そう。確かあそこの図書室で読んだんだった。あの古い図書室。大好きだったのよねえ。本が沢山、こう、壁際にびっしり並んでいるじゃない。上級学校でもあんなに本があるのは珍しいのよ。先々代の校長先生が頑張ったんだって話を聞いたことがあるわ。よほど本がお好きだったんでしょうねえ。それよりも教育熱心だったってことかしらね」
サナは返事もせずに、再び曖昧な笑みを浮かべる。彼女は勉強が大嫌いだ。学校だって基礎学校だけで済ませたかったのだが、母親がどうしてもと言い張るので、半ば折れる形で上の学校まで行ったのだ。サナには、いまでもあの四年間が無駄だったと思えて仕方がない。学校へ行くよりも、祖母の畑に行きたかった。瓜を育てるのに、学校の授業は必要無かった。
そんなサナだから、自分から本を読もうなんて思ったことも無いし、大陸に行く理由の半分は本のためだという叔母の気持ちも、正直なところ、まったく理解できない。
姪が本を読まないことはウラカンも知っているから、それ以上は尋ねなかった。
「私もうろ覚えだけどね。あの話は、ええっとねえ」
「なに?」
「事典みたいな、こんなぶ厚い本に書いてあった気がする。民俗学の本なんだけどね。あの頃は民俗学をやろうかなあって思っていた時だったから、そういう本にも興味があったのよ。まあ、けっきょくそっちの道は行かなかったんだけど、惜しかったかもしれないわねえ。それはそれでおもしろそうでしょう。いまでも時間があれば読みたい本はあるんだけど。大学校にも民俗学の研究をしている人はいるわよ。時々、話を聞いたりするんだけど、なんと言っても」
そこで、サナは家族の中で自分にしかできないことをした。ウラカンの話に割り込んだのだ。
「で、話はどんな話なの」
「ああ、そうそう。海のね、底の島のね。そう、話ね。ええっとねえ、海の底に島がある。それもとても大きな島で、村もあれば町もあり、人もたくさん住んでいる。そう書いてあったんじゃないかなあ」
「絵は? 絵は描いてなかったの? 写真とかは?」
「絵も写真も無かったわね。あれば覚えていると思うし。変な島だなって思ったから、名前は覚えていたのよ。ええっと、あとは、そうそう、肌の白い人が住んでいるって書いてあったわ。青みがかった、透きとおるような白い肌だって。その時はほら、まだ島の人以外の人間なんて見たことが無かったでしょう。そんな人達がほんとうにいるのかなって思ったもの。でもそのぐらいしか書いて無かったわね。うん、それだけだった」
サナは「ふうん」と息をつくと、ウラカンを試すように尋ねた。
「それで、叔母さんはそんな島、あると思う?」
「え?」
その時、激しい音とともに雨が降りだした。ふたりは揃って外を見た。ほとんど轟音と言える雨の中で霞む景色は、なぜだか奇妙な静けさを感じさせる。
「・・・伝説だからねえ」
「・・・伝説だよね」
お互いの声は届かなかった。
ゼネと少年は、ぽっちゃりと横幅が大きくて、親切心も同じくらい大きいらしいおばさんに貰ったテマテモのジュースを飲みながら、ホウチャンがたどたどしく書類を作成しているのを見ていた。
ホウチャンは大きな木の机の上にあるコンピューターを慣れない手つきで操りながら、時々ゼネに質問をする。「その子を見つけたのはだいたい何時頃だったかわかるか」とか、「他には誰も見かけなかったか」とか、地図を広げて「どの入り江だったかわかるか」とか、そんな細かいことを聞いてくるのだが、コンピューターと格闘する方が、ゼネに話を聞くよりもよほど手間取っている。そして何度も大きなため息をついた。
「まったく、ショウキまでいないなら、無理してお前を連れてくる必要は無かったな。話だけ聞いて、俺が伝えてもよかったんだ」
どうやらショウキという人がこのコンピューターという機械をいつも使っているらしい。ゼネはその人と直接話をするために連れて来られたようだった。今日は密猟者の数がかなり多かったのか、他に仕事があるためなのか、門番の言っていたとおり、どこの部屋も人が出払ってがらんとしている。
「ショウキじゃなくても、ガイガイヤとか、フウローとか。誰かいないのか、まったく」
ぶつぶつ愚痴を言うほうが、書類を作るよりよほどはかどっている。
建物に入ると一番初めに、「手続きだから」と、ホウチャンは副長にゼネ達を引き合せた。二番目に偉い人らしい。「上司に、迷子だって書類に予め署名を貰わないと、ここじゃ先に進まないんだよ」と、ホウチャンは不機嫌な声で言った。
迷子という言葉が厭なのか、副長が嫌いなのか。ゼネは会った途端に、副長の方が嫌いになった。
副長のスダカンタは、いかつい顔に小さい目がめり込んでいる。がっしりと筋肉質な体格だ。声は低くよく通る。でもえらぶった話し方をする。
ホウチャンからひと通りの話を聞いた後、スダカンタは席を立つと、机の前に立たされていた少年の前に歩み寄った。背は低い。ゼネは入り口近くに立っていたけれど、それでもスダカンタの頭頂部近くの髪の薄さがわかった。
「迷子か。ふうん。なんだか、変わってるんじゃないか?」
それだけ言うと、スダカンタはいきなり少年の腕を摑んだ。意外なほどすばやい動きに、ゼネもホウチャンもあっけにとられて、目を見開くしかできなかった。
「見たことが無いぐらい白い色だな。うん、珍しい。おい、どこから来た。どうした、口がきけないのか。なにか言ってみせないか」
スダカンタは浅黒い顔を少年に近づけた。少年の目は驚きで丸くなり、口は小さく開いたまま、息もできずにいるようだ。ゼネは突然のことに身動きもできなかった。
とって食わんばかりに口を左右に広げ、たぶん笑顔を見せたのだろうスダカンタは、まるで舌なめずりをしているようだ。少年は泣き始めた。無言のまま、涙がぽろぽろと頬を伝うと、「なんで泣いているんだ」と、不気味な笑顔のまま、スダカンタはもう片方の手で少年の顔を触ろうとした。
その手をホウチャンが摑んだ。躊躇は無かった。スダカンタよりも素早かった。
「なんだ」
「署名を」
スダカンタは大儀そうに机まで戻ると、用意された書類一枚一枚に時間をかけて署名をした。顔とよく似た角ばった字だ。署名をする合間に、ねっとりとした視線を少年に向ける。やっと動けるようになったゼネが少年を自分の背後に隠すと、スダカンタはあからさまな舌打ちをした。ホウチャンはひったくるように紙の束を受け取ると、さっさと部屋を後にした。
次に連れていかれた部屋はずっと明るくて感じがよく、いつでもここにいるというおばさんはとても優しかった。おばさんは、「副長さんに悪気は無いのよ。ちょっと仕草が乱暴なだけなの。誤解を受けるもとよね」と、なぜかホウチャンに弁解していた。
それでもしばらくの間、ゼネも少年もなんだか震えて仕方がなかった。
やっと震えの落ち着いた少年は、ゼネに寄りかかるように居眠りを始めている。ゼネは窓の外を眺めながら、早くここでの用事が片付かないかなと思っていた。それにしても、ホウチャンの書類仕事には終わりが無いようだ。
その時、ドッと大きな音がしたかと思うと、どしゃぶりの雨で窓の外が暗くなった。
男はとっくの昔に漁を止めていた。轟々と音をたてる雨の中を帰るコアツァとクポリには会話も無かった。
雨の中、日暮れになってやっと船を止めている漁港のある町に入り、そこでようやくコアツァが口を開いた。
「ホービンのところに寄れ」
クポリの返事は無かったが、枝道を海産物取引所がある方へと、どら馬の頭が向いた。
「・・・わかってんじゃねえか。まったく」
再び失言することを恐れ、コアツァはそれきり口を閉じた。
クポリはコアツァの考えをよくわかっている。
漁に出るなら早い方がいい。それだけだ。魚でも、海獣でも、漁に関する限り、どれだけ説明したところで高が知れている。実際に海へ出なければ、覚えられることなどひとつもないと言ってもいい。
その考えをクポリは正しいと思っている。それはゼネにとっても同じことだと、それもちゃんとわかっている。
それにゼネは暇な時期に何度か船に乗せている。船の様子も動かし方もある程度は呑みこんでいるはずだし、すばしこくて勘がいいから、漁の経験は無くても、これから二度、三度と海へ出て行くうちに、どんどん覚えていくだろう。
モンランの船はベテランばかりだ。だから、とにかくある程度の役に立ってくれれば、今年の漁はなんとかなるのだ。
クポリは豪雨で見通しの悪い道を慎重に馬車を進めながらため息をついた。
ゼネを船に乗せることをこうまで反対するのに、確たる理由は無い。チアンドが乗れないとわかった時、最初に頭に浮かんだのは、ゼネを代わりに船に乗せることだった。それしか方法が無いだろうとも思った。だがそれとほとんど同時に、漠然とした不安がクポリの中から離れなくなった。理由の無い不安が、胸の内でぐるぐると動き回るものだから、クポリは気分が悪くて仕方がない。
いかにのろのろとした足取りで歩かせたとしても、じきに馬車はホービンの働く海産物取引所に着いてしまう。
驟雨の中でも、建物は人で賑わっていた。早朝に出た近海漁の船が、大漁で戻ってきたらしい。最近では珍しく小屋の床下まで人が溢れる盛況ぶりで、酒の匂いが周囲の雨に溶けている。呼びかける人々に手を振り返しながら、ふたりは階段を駆け上がった。
大きいだけで仕切りの無いひとつの部屋になっている階上の奥にいたホービンは、伯父と息子を見ただけで用件を察した。
「ゼネを乗せるのか」
チアンドが怪我をした話はとっくに聞いている。出漁間際のこの時期に、腕のいい漁師は残っていないだろうことも想像がつくし、信頼のない見知らぬ男を乗せるより、ゼネを連れて行くほうがいいだろうとは、誰にでもわかる。ゼネを海獣漁師にしてくれと言った時のクポリの、「俺が責任持って来年までに仕込むから。船に乗せるのはその後にするから」という約束など、無理なことだと思ってもいた。
コアツァが口を開くよりも、クポリが言い訳するよりも早く、ホービンはコアツァに酒の瓶を差し出した。
「やっぱり大陸に連れていくのが一番よさそうだ」
ホウチャンはそう言うと、少年の頭を何度か撫でた。少年はホウチャンの笑顔に微笑み返す。それでも少年の手は、しっかりとゼネの腕を握っている。
島民で無いなら、いつまでも島にいたら体を壊してしまう。そしていまのところ、迷子を捜しているという観光客も見つからない。ひとまず大陸に移してから先のことを考えたほうが効率がいいというのがホウチャンの出した結論で、これは島ではごく一般的な対処の仕方だった。
それでも船が出る日まではゼネの傍にいるのが一番安心できるだろうとホウチャンは言い、ゼネは一も二もなく賛成した。だがそうすると、なぜか書かなくてはいけない物が増えるのだそうだ。ホウチャンが機械と格闘して作った書類の束が机にどんと積まれ、そのいちいちに、ゼネまで名前を書かなくてはいけないという。
「ここにも名前を書いて。・・・おまえ、汚い字だなあ」
「自分だって」
ホウチャンとゼネは顔を見合わせると、疲れた笑みを浮かべた。
「・・・ねえ、あのさ」
「なんだ?」
やることが多いからか、あちこち連絡を入れたのにたいした情報が無かったせいか、いらついているホウチャンは、やたらと字を間違える。その修正の仕方が汚いため、結局書き直すことになる。つまり、ホウチャンは自分で仕事を倍にしているようなものだった。
「さっきの人にも話しておかなきゃいけないんじゃないの? この子を俺のところに連れて帰るって」
知らず声を潜めたゼネの方は見もしないで、ホウチャンは手元の紙を丸めると、遠い方のゴミ入れに投げ捨てた。
「ほら、入った。・・・いいんだよ、さっき顔は見せたし、筋は通してるんだから。あ、ここにも頼む」
「・・・まだあるの?」
「仕方ないんだ。こういったことは滅多に無いんだよ。それにお前が連れてきたんだから、お前が名前を書かなくちゃいけないんだ」
「でもこんなにいっぱいあるんだから、一枚や二枚無くたって、わかんないんじゃない?」
ホウチャンは甥の言葉に「もっともだ」と頷きながら、「それでも仕方がない」とまた新たな紙を渡した。
「これ、さっき書いたやつじゃないの? もう、叔父さん、間違えないでよ」
「うるさい。ここも」
少年はゼネの腕にぶら下がるように抱きつきながら、ぼんやり窓の外を見ている。さっきのおばさんに貰った木の実を時々口にしているが、酸っぱいのが厭なのか、なかなか減らない。
ゼネはふっと、雨に煙った景色が海の中にいるような気がするのかもしれないと思った。