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島は月の形をしている  作者: 大石安藤
6/21

動いている時

9・交通・輸送

 島へは大陸から船で4日から5日程度かかる。諸外国との往来手段として、客船と貨物船が定期的に運航している。

 飛行場は無い。島を占める森林の面積、山の傾斜角度、平野の中での町の散らばり具合などから、島内に飛行場を作ることは極めて困難である。海上に埋め立ての空港を建設するプランが数年毎に持ち上がるが、毎回、いつのまにか立ち消えになる。島の移動範囲や速度の規則性がはっきりわからないことに加え、環境問題が主な原因である。

 島内に鉄道は無い。緩い膨らみを持つ海岸線に沿って走る街道が唯一の幹線道路であるが、アスファルト等による舗装はされていないので状態はあまりよくない。

 自動車の使用は、首都である中の市以外では認められていない。そしてガソリン等、燃料の輸入量が制限されているため、島内で動いている自動車を見ることは稀である。

 陸上での主な移動手段は、どら馬と呼ばれる島固有の馬が牽く馬車である。しかし馬車の個人所有は少ない。各市町村に多くの馬車屋があり、それで事足りていることと、馬車とどら馬を持つことによってかかる諸経費が理由と思われる。

 その一方、河川、海での移動手段である舟の個人所有率は高い。




「起こしてくれれば良かったのに」

「必要無いって言うからさ。ごめんよ」

 ゼネが目を覚ました時、太陽は海の縁から顔を覗かせて間も無かったが、ホウチャンとゲンナはすでにいなかった。

「叔父さんに聞けばなにかわかるかもしれないって思ってたんだ」

 ぐずぐずと言い続ける孫に、竈の火の加減をしながら、カラタはまた謝った。

「ごめん、ごめん。でも仕事の予定があるとか言っていたし、おまえもあの子もよく眠っていたからね。あの子はまだ寝てるの?」

「うん、ぐっすり。ねえ、叔父さん、どうするって言ってた?」

 竈の脇の籠の中を見ると、カラタは顰め面になった。

「昼前には戻るだろうって。その時にはおまえと話をしたいとか、なんかそんなことを言ってたよ」

「ほんと?」

 カラタは頷くと、ほとんど空になっていた籠を孫に渡した。

「ほんと。ほんとだから、ちょっとこれに青いものを取ってきてちょうだい。パッシャバなんかいい頃合だと思うよ。あと、トカトカの実もね」

「わかった。ねえ、他には? 他にはなにか言ってなかった?」

 竈の火を見つめながら、カラタは首を振った。

「昨日はずいぶんと遅かったんだよ。ウラカンに会いに来たのに、話をする暇も無かったしね。なんのためにここまで来たんだか」

 ホウチャンとゲンナは村ではなく、南の市の中心部に住んでいる。市の端の村の、その中でも外れに近いカラタの家に寄るのは、仕事のことを考えれば無駄手間だ。

 ゼネは「ふうん」と言いながら、眉を上げて考える顔になった。

――どこから来たとか、誰かと一緒じゃなかったかとか、そんなことを聞かれるのかもしれない。そんなのが大事なことなんだよな、きっと。

 まじめくさって考えてみても、ホウチャンの仕事でゼネにわかることなどまったく無い。

 カラタは竈に鍋をかけながら、籠を抱えたまま唸っているゼネを急かせた。

「ほら、早く取ってきてちょうだい。お腹空いただろう」

 ゼネは「はあい」と生返事をすると、足音高く丸木の階段を下りていった。



 結局、ホウチャンが戻ってくると言っていた昼まで、ゼネはずいぶん慌しい時を過ごした。

 朝食の後、ゼネにくっついて離れない少年と連れ立って船のある漁港まで行き、クポリとコアツァが船のことでなにやら険悪な顔をしている回りをうろついて怒られた。

 もう一艘の甲板にいたモンラン達も難しい顔をしていたが、とにかくふたりの結論を待っているという風で、黙々と作業をしている。誰もゼネの相手をしてくれないし、なにをやっていいのかもわからない。

 俺だって海獣漁師になったんだと言い募っては邪険にされていた時、ゼネの肩を、幼なじみのコーマが叩いた。

「なんだか珍しい奴連れてるって聞いたけど。その子か」

 コーマにしては現れるのが遅い。昨夜のうちにカラタの家に乗り込んできていてもおかしくないぐらいだ。彼の後ろにはいつもの仲間達が群れていて、ゼネの背後に隠れている少年を興味深げに見つめている。

 ゼネはここで、そういえば今日は休みの日だったと思い出した。漁期が近くなると、クポリ達は滅多に休みを取らなくなるから、近頃はゼネも休みの日があるという感覚が薄れていた。コーマ達は休みの前には仕事が増えるから、疲れ切って、昨夜は来れなかったのだ。

 皆がじろじろと遠慮会釈もなく眺め回すので、少年が怖がると思いきや、案外平気そうに居並ぶ顔を見比べている。それでもゼネの背中越しで、けして前には出てこようとしない。

「ここはいいから、今日は遊んで来い」

 やれやれとばかりに追い出されたゼネは、気がついた時には森の中を駆け回っていた。

少年をひっぱり回しながら、森の中をあちらへこちらへと動いていたから、太陽なんて気にもしなかっので、「おい、そろそろ腹、減ったな」と言ったコーマの声に、はっとして空を見あげた時には、太陽はすでにかなり高いところへと昇っていた。

「いけねっ。俺、戻んなきゃ」

 大慌てでカラタの家へ駆け戻ると、家の横手の坂道には、折りたたみの幌がついた小型の馬車が止めてあった。一頭のどら馬が、のんびり草を食んでいる。

「叔父さん、もう来てる?」

 階段を上るとすぐに、ホウチャンが部屋から顔を出し、「降りろ」と促した。

「え、なに?」

 少年もゼネと同じようにホウチャンの顔を見つめている。ホウチャンはその白い顔を見ると、「その子も一緒に」と付け加えた。

「どうして? どこかに行くの?」

 言われるまま降りたゼネ達を、ホウチャンは次に馬車へ乗るように促す。

「中の市の役所へ行くんだ。その子を見つけた状況は、おまえから話して貰った方がわかりやすいと思ってさ」

「俺が話をするの?」

「そうだ。大丈夫か?」

「うん、たぶん大丈夫だと思うけど。でも叔父さんが話をしてきたんじゃないの?」

「いや、俺は町の役場で簡単な手続きをしてきただけだ。あと、仕事の話もあったしな」

 ホウチャンは、不安そうにふたりを見比べている少年に微笑みかけた。ホウチャンの笑顔はゼネに似ている。その笑顔を見て、少年の顔から不安げな様子が薄くなる。

「俺の仕事とは、話を通すところが違うんだよ。ちょっと遠いけどな。ま、我慢してくれ」

「わかった」

 頷いたと同時に、ゼネの腹の虫が鳴った。ホウチャンは「安心しろ」と、手に下げていた大きな布袋を掲げてみせた。

「かあさんが用意してくれた。たっぷり入っているぞ」

「やったっ」

 ゼネが喜んで荷台に、籠と呼ばれている二人がけの荷台に乗り込んだので、少年はホウチャンに持ち上げられ、ゼネの横へと座らされても、ごねたりしなかった。ゼネの腕をしっかり握りしめてから、もの珍しそうに馬車を見回している。

 自分から話をすることはできないようだし、こちらの話もわかっているようではないと、カラタから聞いていたが、それでもホウチャンは、少年がわかっているかのように話しかけた。

「大丈夫かな。落ちないように掴まっているんだぞ。怖いことはなにも無いからな」

 少年はホウチャンの目をじっと見つめながら聞いていた。そして小さく頷いた。ホウチャンはカラタやサナの言葉を思い出し、不思議な心持ちになった。それでもそのまま御者台へと上がる。

――わかってる、ってことは無いのか?

 ホウチャンの考えていることなどわからないゼネは、後ろから明るい声で話しかける。

「じゃあ、今日はゲンナひとりで森に行ったんだ」

「いいや、森での仕事はひとりではしないんだ。奴は今日は他の仕事だ」

 いま頃ゲンナは慣れない机上の仕事に戸惑っているだろうと考え、ホウチャンの顔に意地の悪い微笑みが浮かんだ。

――こういうこともないとな。

 人づき合いの苦手なゲンナの代わりに、折衝から報告から、そんな仕事はいつでもホウチャンが一手に引き受けている。たまには逆の立場というのも悪くない。

「ほら、これも持っていきなさいよ」

 振り向いたホウチャンとゼネの目に、縁側でカラタが大きな荷物を持っているのが飛び込んだ。ホウチャンは肩をすくめると大きく手を振った。

 中身はだいたい予想がつく。ホウチャンはカラタが階段を降りてくる前に、どら馬に軽く鞭をあて、「急いでくれよ」と囁いた。



 馬車が出発した頃、ウラカンは屋根裏の部屋から裏の畑を見ていた。細くて小さなサナがぱたぱたと動き回っている。そこへカラタが近寄っていくのが見え、ホウチャン達が中の市へ向かったことがわかった。

 今日はまだ、島は南に動いている。だが昨日より、速度が若干遅くなったような気がする。きっと近いうちに北へと向きを変えるだろう。

 じきに曖昧な雨季に入る。樹木は先を越されまいと伸びを早め、花は競い合ってポンポン音をたてながら咲き狂い、激しい雨の中でも動物達の動きは活発になり、森は優にひと回り大きくなる。

 うずうずと季節を窺う森の気配にも、いつもと同じ島の緩慢な動きにも、ウラカンの体は依然としてついていけずにいる。元に戻ろうとする体の中での動きが、頭の中に絶えない揺れを起こしている。

 不調を感じていても、体にはその方がいいのかもしれないと、常よりも気を張って島の動きに注意を払っていると、サナのはじけるような笑い声が聞こえた。見るとずいぶん大きな瓜を頭の上に掲げている。ウラカンにも笑みが浮かんだ。

 島の瓜は気難しい。この特産の瓜はどうやっても女の手でしか育たない。いい収入源になるので、毎年のように何人もの男達が挑戦するのだが、いつでもことごとく失敗して終わる。長年に亘ってさまざまな研究もなされているようだが、瓜の気難しさが変わる様子は一向に無い。

 カラタがサナに指示を与えているようだ。サナはカラタを振り返りながらも、てきぱきと動き回っている。

「・・・元気だなあ」

 ウラカンは痩せ細った自分の体を見下ろし、長いため息をついた。

――私も手伝っていればよかったのかなあ。

 大学校になど行かなかったら、いまあそこで笑っているのはウラカンだったのかもしれない。健康的にふっくらとしたままで。大きな瓜に喜んで。

――でもねえ。

 兄達が揃って言ったように、ウラカンは恐ろしいぐらい畑仕事に向いていない。例え大学校に進学した上、そこで講師などになってしまわなくても、畑仕事だけは選べなかったに違いない。

――どっちにしたって、おとなしく講師だけやっていれば、こんな体にはならなかったのよね。

 雨季に入ってしばらくすると、大学校も再開する。いまは進級の前の短い休暇の時期で、ウラカンはそれに合わせて休職し、大陸へ行っていた。再開したら中の市に戻らなければならない。講師の仕事は好きだし、研究する時間もたくさん取れる。この家に帰ってくる時間はずいぶん減ってしまうだろう。

 それにまた、誰もが思うより早く、幼い頃から海を越えて大陸や他の島に行くだろうとわかってもいた。口実はなんでもいいのだ。語学でなくても、なんでも。カラタがどれだけ心配したとしても。

 ウラカンはサナ達の父親で、一番上の兄が以前、ため息混じりに呟いた言葉を覚えている。

「おまえの中には、なにかが足りないんだろう。それを埋めるものはこの島には無いんだ。早く見つけてしまえ」

 こんなにやつれてしまったら、ただ苦笑するしかない。




10・災害

 暴風豪雨、洪水、落雷などの自然災害は雨季に限らない。地震が記録されたことはいままでに一度も無い。山は火山では無いため、火山性の災害の記録も無い。

 海難事故が一番多く、対策は多岐に渡っている。政府が直接管理する独立した海難救助隊があり、事故への対応は迅速である。諸々の補償もあり、島民の負担額は少ない。近年、漁に伴う海難事故は減少傾向にあるが、観光船、観光客の関連する事故が増加傾向にある。




 コアツァとクポリはコンジの家を後にし、この先どうするかで揉めていた。コンジの返事は、昨日コアツァが訪れた時と変わらなかった。コアツァは、コンジが可愛がって仕込んだクポリを連れて行けば気が変わるかもしれないと踏んだのだが、無駄足だったわけだ。

 ふたりが並んで歩くには、コンジの家から街道への道は細すぎる。両側には丈の高い草がびっしりと生い茂っている。その道を前後になって歩きながら、ぶつぶつと文句をぶつけあっている。

「コンジの年じゃ、漁なんて無理に決まってるんだ」

「年ってのは、なんだ。俺よりちっとばかし上なだけじゃねえか。俺が漁に出られるのに、あいつが出られないわけが無い」

「ちょっとじゃない。ななつは上だ」

 そのうえ、コンジは船から降りてかなり経つ。筋肉もすっかり落ちていた。あんな様子では、本人が行くと言っても家族が許さないだろう。

 クポリはコンジの顔を見て、コアツァが本気で頼もうと考えているわけではないことがわかった。これは一応、やれることはやったと言うための行動なのだ。だからいまの言葉だって、ただ言ってみているだけだ。

「・・・ここに来ないで、北の市に行ってみた方がよかった。どだいふたりじゃ無理なんだし」

 独り言に近いほど低く小さな声だったが、コアツァは耳がいい。「そんなことはわかってんだよ」と、クポリの背後で毒づいた。

「ふたりじゃしょうがねえから、ここに来たんだろう。だいいち北まで行ったって、ろくな奴はいやしねえよ」

「中の市にだって、海獣漁師はいる。まだ船が決まっていない奴だって、ひとりやふたりはいるだろう。とりあえず行ってみよう」

「馬鹿野郎」

 コアツァは乾燥マレイの煙草の尻を噛み切り、言葉と一緒に吐き出した。

「いま時分に船の決まっていない漁師なんか、おっかなくって乗せられるか。常識つうんだ、そんなことは」

「贅沢は言えない。船が出せなきゃしょうがないだろう」

「くそったれ」

 煙草の煙を深く吸い、コアツァは黙りこんだ。しばらくふたりは黙ったまま歩き、街道へ出たところでクポリが先に口を開いた。

「とにかくひとりでも捜さないと。船が動かせないじゃないか」

 コアツァは立ち止まったまま、煙しか吐き出さない。

「いまから中の市まで行けば、ひとりぐらいなんとかなる。櫂と、あと下っ端がやることをまかせられればそれでいいんだ。モンランには明日会わせればいいし」

 それでもなにも言わないコアツァの胸のうちはわかっている。たぶんコアツァは、チアンドが怪我をしたと聞いた時から考えていたのだ。だから北の市どころか、中の市までも行きたくない。それこそ無駄足だと思っているのだろう。

わかっているが、それでもひと息置いてから、クポリは首を横に振った。

「ゼネは駄目だ」

「なんで。それこそ下っ端じゃねえか」

――やっぱり。

 クポリは大きく首を振った。

「駄目だ。まだ下っ端とも言えないだろう。船の扱いも慣れていない。第一、あいつは細すぎる」

「なにを偉そうに。おまえだって、半人前じゃねえか」

 たしかにコアツァやモンランには及ばないかもしれないが、半人前と言うほどクポリの腕が未熟でないことは、お互いによく知っている。クポリはコアツァの言葉を聞き流した。

「まだ早い。海で櫂を持ったのも2、3度しかない」

「おまえが12で漁に出た時は、海に出るのも初めてだっただろう。ゼネは13だし、海にも川にも慣れてる。モンランの船に乗っているのはベテランばかりだ。だいたい、あの頃のおまえより、よっぽど背が高い。それに」

 コアツァは深々と煙草を吸い込んでから続けた。

「なにも銛だの舵だの持たせるわけじゃない。綱を引くことを付け加えたって、あいつにやらせることなんかたかがしれてる。モンランだって厭とは言わねえよ」

 クポリは兄として、まだ幼いぐらいに見えるゼネが不安だった。実を言えば、海獣漁師になることも反対したいぐらいだった。それでもゼネがどれだけこの仕事をしたいのかわかっていて、そのうえそれは自分の時と同じだと思えば、反対することはできなかった。

 しかし、不安が無くなるわけではない。漁師になる力添えをしておいて、できればまだ船には乗って欲しくないと考えるなんて、我ながら矛盾していると思うのだが、クポリは気持ちの折り合いをつけることがなかなかできない。

 コアツァは早く仕込んでおきたかった。だが陸にいる時には、二艘の船を纏める立場のコアツァでさえ、船員ひとり雇うことの勝手すらも許されないという不文律が漁師にはある。命が係わる仕事というのはそういうものだ。

「俺はもっと体ができていた。来年、あいつが14になれば少しは変わるだろうから、それからだって遅くない」

 これがいまのクポリにとっての妥協点だ。けれどコアツァの中では、ゼネを乗せることはすでに決まっていることで、だからつい、口が滑った。

「船に乗れば体は自然と追いついてくる。おまえだって船に乗って覚えていっただろう。沖でげえげえやりながらよ」

 最後のひと言が余計だった。コアツァもしまったと思ったのだが、もう遅い。クポリは一瞬頬を引きつらせた後、「駄目だ」と言い放って歩きだした。

――ちっ。しまったなあ。

 クポリは昔から頭も体格も顔もよく、なんでもすぐにこなすことができた。海獣漁師としての腕前も、誰もがかなりなものだと認めている。口数と酒癖以外は、コアツァによく似ている。そのうち、コアツァの後を継いで船を率いていくことになるだろう。

 そのクポリがたったひとつだけ、3年ほども苦労したのが船酔いだった。

――ことこれに関してはガキだから困るんだよ。

 クポリ自身も不思議に思うぐらい、未だにこのことに触れられると自制が利かなくなる。何年も前に克服したのに、つい昨日までそうだったかのように、自分自身にやり場のない怒りを感じる。

 コアツァは追いつこうと早足になりながら煙草を投げ捨てた。根元近くまで燃え尽きた煙草は地面につくとぼろりと崩れ、甘味のある吸殻にはすぐさま蟻が群がる。火を消す必要は無い。島の蟻は火などに怖気づかない。

 クポリに追いついた時、コアツァは観念したように呟いた。

「しょうがねえな、中ぐらいまで行ってみるか」

 クポリはコアツァに背中を向けたまま、わかっていたとばかりに答えた。

「馬車は港に用意してあるよ」



「樽? そう、そうだな。なにかしら理由はあるかもな」

 すれ違った馬車に軽く手を振りながら、ホウチャンはゼネの言うことに頷いた。

「ね、そうでしょう。俺もそう思ったんだ」

 コーマ達と森で遊んでいた時、少年の乗っていた鈍く光る樽の話になった。彼らはまだそれを見ていない。

「そんな樽、見たこと無いな」

 それが少年達の共通した意見だった。「見てみたい」とも言っていたのだが、蜥蜴の調子がどれも良くて、競争の前に放してしまうのは惜しかった。どの蜥蜴も調子がいいなんてことは、それこそ滅多にあることじゃない。

 角のある蜥蜴を、ゼネの体の半分以上はある大きな羊歯に並べながら、コーマは少年を見て言った。

「よっぽど大事な樽なんだろうな。なんかさ、仕掛けとかがあるんじゃないか。それだけで海を渡れるとか、そんな特別なやつ」

 蜥蜴の背中にある赤い斑点を刺激しながら、ゼネはなるほどと頷いた。そう言われるとそうかもしれないと思う。少年は樽の中にいたし、あの時、海には他になにも無かった。

「それで、確かめたのか。なにか変わっているところがあったか」

 少年はゼネの手を握りしめ、移っていく風景を、首を左右に振りながら眺めている。すべてが珍しくて仕方がない、なにひとつ見逃したくないというように、大きな目を見開いている。時折、膝に乗せてやった弁当を口に運ぶのだが、景色に気を取られているからか、あまり進んでいない。

「そんな暇無かったじゃない。すぐ馬車に乗れって言ったのは叔父さんだよ」

 ホウチャンは声をたてて笑った。

「そうだった。見る暇も無かったな」

 そして「意味も無いってことだってあるぞ」と、続けた。

「流されて来た原因が樽にあったとしたら、樽から離れるのが心細かったってだけかもしれないしな。傍にいれば、もとの場所に戻れるかもって考えていたのかもしれない。それに、いきなり現れたお前をすぐには信用できなかっただけかもしれない」

「そうかなあ」

 少年が利き腕を握っているので、ゼネは慣れない手で弁当を口に運びながら、叔父の言葉に顔を顰めた。

「樽になにかあるのかもしれない。でも、なにも無いかもしれない。それにさっき馬車に乗った時は、全然嫌がらなかったじゃないか。樽なんか見もしなかっただろう」

「それだって、そんな暇無かったよ」

 でもゼネの言葉にさっきまでの勢いは無かった。ホウチャンの言うとおりだ。馬車に乗り込んだ時も、走り出してからも、きっといまだって、少年は樽のことなんか考えてもいないだろう。小さな頭は相変わらず、右に左にと忙しなく動くばかりだ。

 馬車は村を抜け、いくつも町を抜け、木々の太い枝で作られる長い影の道も抜けると、南の市の中で一番大きな港町へと出る。

 村とは比べものにならないほど家が多くなり、行き交う馬車や人も増え始めると、少年はますますゼネに体を寄せつけた。ぎゅっと腕を握りながら、それでもまだ、頭だけは動いている。

 ほとんど村から出たことのないゼネには、ちらほらと見かける島民では無いだろう人達が、どこから来ているのかわからない。ただふらふらと、当てがあるような無いような歩き方の人達が、「観光客」なんだろうという見当はついた。不思議な服を着ていたり、赤い髪だったり、少年ほどではないにしても、白い肌の人だっている。

 ゼネと少年は揃ってぽっかり口を開けて辺りを眺めていたから、ふと振り向いたホウチャンに、「ふたり揃って、なんて顔してるんだ」と大笑いされた。

「だ、だって、俺。あ、そうだ、あのさ」

 顔を真っ赤にしてうろたえながら、それでもゼネはあることに気がついた。

「なんだ」

 ホウチャンは煙草をくわえながら聞き返した。

「中の市まで行くんだよね」

「ああ」

 ホウチャンの好きな煙草は酸味の強い匂いがする。ゼネは嫌いじゃない。

「でも、でもさ、ここにも他の国から来た人達はいっぱいいるんでしょう? その人達がこの子を知っているかもしれないよ。だって、ここの方が岬に近いじゃない」

 大発見のように急きこむゼネを見ながら、ホウチャンは安心させるように頷いた。

「わかってる。大丈夫だよ。今朝、そういった手配は全部済ませたんだ。ウラカンいわく、情報化社会だからな。そのぐらいわけないさ」

「へえ、そうなんだ。情報化ね。情報化か」

 情報化とはなんなのか、見当もつかない。

「そう、情報化だ。これから中の市まで行くのは、それだけじゃ済まない正式な手続きをしておいた方がいいからと、そのためにはお前に詳しい話を聞く必要があるため、ってところかな。あと、船の手配もするかもしれない。他には中の市の方が、情報ってやつが得やすいからってのが理由だ」

 ホウチャンはウラカンのように「情報」をそれほど信用してはいないが、仕事柄かかせないことではあったから詳しかった。それに相手が誰であっても、伝えるべき所にはきちんと伝えておいた方が、面倒は起きにくいものだ。

「そうなんだ。朝に行ったところじゃ、なにかわからなかったの?」

「手配済ませたばかりだ。まだまだ、これからだよ」

「・・・ふうん」

 ゼネはわかったようなわからないような気持ちのまま、しばらく少年とふたり、きょろきょろと辺りを見回した。見回しながら、ずいぶん変な格好の人が沢山いるなあ、いつもあんなの着てんのかなあなどと考えていた時、今度はゲンナに聞いた話を思い出した。

「あのさ、昨日、ゲンナに聞いたんだけど。叔父さんは伝説を聞いたことがある?」

「伝説?」

「えっと、確か、ウォラ・ホリって言ってたと思うけど」

「ああ、それか」

 ホウチャンはふふんと鼻で笑った。ゼネは自分が馬鹿にされたように感じてむっとした。

「なんだよ。おかしい?」

「悪い。いや、おかしいっていうか。そうだな、ゲンナはそんなこと言ってたな」

「叔父さんは信じてないんだ」

 ホウチャンの態度で、それはよくわかる。

「伝説っていうより、お伽話だな。おまえ、聞いたことも無かっただろう?」

「俺はそうだけど」

「な。俺も知らなかったよ。かあさんだって知らなかったみたいだし。だあれも知らない話だ。そりゃあ、大陸に行けばそんな話がいくつも転がっているのかもしれないけどな。それだけだよ」

「それだけ?」

「現実的じゃないってこと」

「・・・ゲンナはとうさんに聞いたって言ってた。だったら、誰か他にも知っている人がいるかもしれないよね」

「そりゃ、いるんじゃないか。島中あたれば、何人でも出てくるかもしれない。でもだからって、それが現実なわけじゃない。伝説の全てがかつてあった話だというわけじゃない。お伽話ならなおのことだ」

「そうかもしれないけど」

「おまえは」

 ホウチャンが息を吐きながら振り返ると、煙草の煙をまともに浴びた少年が、ふっと息を止めたのがわかった。

「ああ、ごめんな」

 煙草を御者台の脇に備え付けられた吸殻入れに入れると、改めて話を続ける。

「おまえは信じられるか? そんな話」

「ええっと」

 とりあえず、考えてみる。

 海の底に島がある。それはかまわない。海にはなんでもある。巨大な海藻が先も見えないほど暗く生い茂る場所もあるし、何段も続いてどこまでも伸びる珊瑚の棚も、なにごとも無く見えるのに、ある深さまで行くといきなり流れが変わって方向がつかめなくなる場所もある。自分で見た以外にも沢山の話を、コアツァやクポリや、他の誰彼からも聞くし、そんなものがあることはゼネにも十分に理解できた。

 どこまでもひたすら青い海には、なんだってある。世の中の誰も知らないものだって、いくつもあるに違いない。だから島のひとつやふたつぐらい、あっても全然おかしくない。

 問題はそこからだ。

 島がある。そこに人が住んでいる。ゼネの島と同じように。青みがかった白い肌の人々が、ゼネと変わらない生活をしている。そういうこと。

「・・・ちょっと、変、か、なあ」

「だろう?」

 ゼネは小さくため息をついた。

「叔父さんは信じていないんだね」

 前から来る馬車を避けながら、ホウチャンの肩が上にあがった。

「まあな」

「でもゲンナは信じているみたいだったよ」

「だからなんだよ」

「・・・別に。じゃあさ、叔父さんはこの子がどこから来たと思うの?」

 馬車はすでに隣の湖の市に入っている。この先もいくつも町を通り抜けてから、やっと中の市に辿り着く。

「さあな。俺は大陸どころか、この辺りの島だって全部知っているわけじゃない。どうとも言いようが無いな」

「これから行くところならわかるんだよね?」

 ホウチャンは「たぶんな」と答えると、それきり黙ってしまった。



 サナは昼前までは収穫した瓜を畑の外へ出し、引き取りに来る人のために積み込みやすいように並べていた。昼過ぎに業者が瓜を運んでいってからは、カラタとふたり、小さなものや形の悪い物の選別、そして虫や草取りにと、広い畑を歩き回っている。

 太陽が音をたてながら容赦なく照りつける中を歩くには、畑は広すぎるように感じる。

 ひと息いれた時に疲れた顔を見せたのは、いつもと同じ、16になったばかりのサナの方だった。

「こんなこと、よくひとりでやってたねえ」

 深い森と広い畑を区切って流れる小川に足を入れ、心地よい日陰を作る木に背中を預けて、サナは長く息を吐いた。

「慣れだね。ほら」

 カラタは不恰好で小さな瓜をもぎ取ると、切り分けてサナに渡した。

「ありがとう」

 サナは透明な果汁を喉に流し込んだ。温い汁は甘く、まだ少し硬い実は口の中でじんわりと溶ける。

「・・・叔母さん、大丈夫かなあ」

 身をこそげて食べてすっかり薄くした瓜の皮を足元の小川でざっと洗ってから、祖母に手渡す。普段と変わらずにウラカンはよくしゃべっているが、サナにはあまり食事をとっていないように見えた。

 カラタは瓜の皮を腰の袋に収めながら、畑を越えた向こうにある家を見つめた。

「そうだねえ。本人は大丈夫だって言ってるけど。あんなに痩せたのに、どうにも食欲がないようだしね」

「たった三ヶ月だったなんて思えないね」

 ここからだと家の中までは見えない。長い庇が伸びた屋根の下は、畑とは対照的な暗闇の中だ。

 サナの言葉に、カラタは「そうなんだよねえ」と頷いた。顎に手をあてたその様子は、「困ったねえ」と言っているようにも見える。

「しつこくしても疲れさせるばかりだから、あんまりかまわないようにって思ってるんだけどね。まったく、あんなに痩せちゃって。どんなものだって、島の端のこんな村にも届けてもらえるようになったって、夢のようだって始終言っているくせに、自分で行かなけりゃ気がすまないんだから。ほんとう、やっぱり行かせるんじゃなかった」

 それはどうかなあ、とサナはぼんやり思った。なんだかんだ言っても、祖母も、祖父が死んでから家族のことを全て取り仕切ってきた父も、結局、最後には許してしまったに違いない。叔母の言葉に勝てる人などいないし、そもそも誰かがやりたいと言ったことを、反対して押し通すことなどできない家族なのだ。

 サナは自分やゼネの時の騒ぎを思い出して、ふっと微笑んだ。

「ゼネ達はもう着いたかねえ」

 カラタは皮を入れた小袋を、皺も無いのにしきりに伸ばしながら呟いた。

「そうだねえ」

 サナは海へと続く坂道の方へ首を伸ばした。そうしたところで、道も海も見えはしない。それに、弟達はとっくに村を抜けている。

「あの子、なんだか変わってるよね。ゼネにはなついちゃったけど。でもかあさんとかに会いたくならないのかなあ。あんなに小さいのに」

「そうだよねえ。恋しいだろうに」

 ふたりは顔を見合わせ、「ねえ」と頷きあった。

「ゲンナは不思議な島の話をしてたけど、あんなに変っていると、確かにそんなところから来たのかもしれないって気になるね」

「ああ、なにやら言ってたね。海の底にあるとかなんとか」

「ばあちゃんはそんな話、聞いたこと無かったんでしょう?」

 カラタは畑から家へと視線を戻すと、うんうんと小刻みに頷いた。

「夕べ、ゲンナから聞いたのが初めてだよ。なんだか変な話だったね。ああ、ウラカンなら知っているかもしれないね」

「あ、そうか。叔母さんは、ゲンナと話していないんだ」

「昨日はウラカンも疲れていたしね。それにほら、ゲンナはウラカンがちょっとばかり苦手なようだし」

 ふたりはまた顔を見合わせると、「うふふ」と笑いあった。

 そうしている間に、流れる雲の動きが速くなってきた。むっとする風も強くなり、濃厚な森の香りが広がっていく。もうしばらくすれば、黒雲があっという間に空を覆い尽くし、痛いほど強い雨が降り出すのだ。

「さ、今日はここまで。家に入ろう」

 カラタは腰に手をあてて伸びをすると辺りを何度も見回してから、先に立って歩き出した。途中、室に入れておくようにといくつかの瓜を抱える。

「ああ、これも入れておきたいね。サナ、持てるかい」

「いいよ」

 サナは細いナイフを取り出すと、カラタの指差した大きな瓜の茎をぐさりと切り取り、「よっ」と声をかけて持ち上げた。

「重いだろう」

「大丈夫。これぐらい、なんてことないよ」

 カラタが持っていた小振りの瓜まで引き受けて歩きだす孫娘を見て、カラタは感心した声をあげた。

「すごい力持ちだ。これからは、皆おまえにまかせよう」

 サナはくるりと振り返って笑った。

「まかせなさい」

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